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第6話

 結局私はジンを数杯空けて、ろくに食べもせずに店を出た。芙美子は奥の方で接客している。このまま出てしまおうかという欲求にしばし駆られたが、それではここに来た意味がない。

 私が別のきれいな女性に見送られて街路に出ると、芙美子がやや速足で後を追ってきた。小さな紙片を渡してくる。時間と場所と、彼女の電話番号が記されていた。私は人に気づかれないくらいの溜息をついてそれを受けとった。

 女将らしきそのきれいな女性に丁寧に頭を下げ、私は道を後にした。

 早稲田通りに出ると、さっそく紙片を開いた。

 23時に一駅離れた飯田橋の店で待っていますと書かれている。それは知らない女の美しい筆跡だった。小学校の彼女の字など当然覚えてはいない。私は紙片を丁寧に折りたたんで財布に入れた。

 指定された店は何の変哲もないカフェレストラン。時間のためか、会社員や女性同士の客が多かった。飯田橋は案外にきらびやかな街である。多くのビジネスビルから吐き出されてくる人々はここで一時の自由時間を謳歌したあとに帰路につくのだろう。

 場所柄、エリート層が多いように思われた。

 私は二人席をとって、アイスカフェオレを頼む。

 私の命ともいうべき分厚めのノートを開いて、何を書くでもなく線を引いたりメモ書きをしたりしていた。誰に見られても平気なように作ったノート。

 実は、まったくの自製言語なのである。

 孤独な修道院時代に、こっそりと隠れて自分だけに分かる文字と文法を解明した。今も見られて困るものはそれで書いている。

 学校の勉強などつまらなくて、私は私の「言語」を生み出したかった。

 一人だけの「言語」だけど、もしパートナーがいたら、絶対に解読できない暗号にもできる。

 気配がした。案の定芙美子がテーブルの横に立っていた。すでに私のノートを凝視している。

「何」

 ぶっきらぼうに私は言った。それから思い直して、彼女に向かいの席を指し示した。芙美子は木製の椅子を引き、そこに腰かける。薄化粧が残り、美しかった。昔の冴えない、しかし一度見たらなぜか忘れられない顔貌を思い出す。相変わらず小づくりではあるが、それは大人の女の顔だった。

 ただ、着ているものはまるでふだんの私のようで、Tシャツにジーンズのラフな格好。それが薄化粧とアップにした髪型との間に奇妙なアンバランスさを感じさせた。

「花蓮ちゃん」

 はっきりと彼女は発音した。

 昔は「湯原さん」と呼んでいたはずだ。数年ぶりに出会ったのに、昔と違う呼び名を受けて、私はなにとなく警戒心をおぼえた。

「芙美子ちゃん。姓は何だっけ。私覚えてないわ」

「やだ。本当に、私には無関心だったものね。でも名前を憶えていただけで良しとしましょうか。秋山芙美子。芙美子って読んでもらって構わないわ」

 それを聞いて微かに思い出した。彼女は出席番号の最初の方。私は後ろの方。

「よく私が分かったわね。名前もちゃんと憶えていたの」

「だって、ずっと芙美子ちゃんを意識してきたんだもの」

「意識? そういえばずっと私に声をかけてくれたわよね。私は物好きな人だと思ってたけど」

「だって好きだったから」

「え」

「湯原花蓮さんが、好きだったの、ずっと」

 芙美子はグラスの水に口をつけた。

「仲間に入れようとしていたのも、本当はあなたともっと親しくなりたかったから。あなた、気づいてた?」

 私は沈黙した。この女、どういう気だろう。なぜ今こんなことを言っているのだろう。

 私が口を開かないつもりなのを見てとって、芙美子は薄く笑った。

「お気の毒だったわね」

「え」

「縣教授のことよ」

 内心の動揺を私は押し隠す。やはり芙美子はあの店に馴染みだった縣教授を知っていたのだ。

「あなたが教授と一緒に来たのを見たときはうれしかった。ずっと気になっていたの。花蓮ちゃんはあの後どういう人生を歩んでいるのかって。でも、あの教授と一緒にいるということは、彼の教え子だということでしょう。やっぱり私の見込んだ人。聡明で強くて、育ちの不遇を自力で超えたんだと思ったのよ。それでうれしくて」

「修道院にいたこと? 私は別に育ちの不遇なんて思ってない。私に与えられた、人とは少し違う環境だったというだけ。両親もきょうだいもいないのは身軽でよかったし」

「やっぱり」

 そう言って芙美子はふふ、と意味ありげに笑う。

「家族がいたらやりにくいこともあるものね」

 私は芙美子の目を見た。芙美子はただ偶々私に出会ったわけではないと確信した。芙美子はどこまで私のことを知っているのだろう。

「でもね、花蓮ちゃんは自分の生い立ちの特殊さに気をとられ過ぎていたわね。私もけっこう波乱にとんだ幼少期を過ごしていたのよ、知ってた?」

「え」

「やっぱり。クラスの中では皆知ってたけど、それに裏ではさんざん悪口を書かれたり言われたりしてたけど、花蓮ちゃんはクラスメートにそもそも無関心だから気が付いていなかったのね」

 芙美子の表情は変わらない。

「私、父親の顔を知らないの。まあ知りたくもないけど。私、母親がレイプされて生まれた子なのよ。錯乱した母は、なぜか私を堕ろし損ねたのね。本来は生まれていなかったはず、というかそれがふさわしかったのに」

 さすがに私は芙美子から語られる言葉に心を奪われていた。ある予感が胸を過っていた。

「産んじゃった母は私を始末することもできず、一人で育てることにしたわけ。馬鹿よね、実直っていうか」

 いつの間にか芙美子の話に引き込まれている自分がいた。

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