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第5話

 駅からすぐ早稲田通りをそれて裏道に入る。静かなようでいて、滲んだ灯りが続く盛り場。私はまっすぐにあの店に足を向けた。夜になって少し暑さはやわらぎ、湿った風が頬に当たった。

 ほんの少し店内の活気を漏らすあの店の入り口の前に来た。あの夜と変わりはない。私はいったん立ち止まったうえで、もう一度店の名を確認して中に入った。

 なぜ正面突破なのか。心の声が問いかけるが、それを無視して「こんばんは」と声掛けした。

 すっと見事な動作で目の前に現れたのは、芙美子だった。薄オレンジ色の着物に白い割烹着。

 小学校の頃、この私を仲間に入れようと気を配っていた少女。容姿は十人並みだが、妙に小づくりの顔貌が印象を残す。優し気に笑うが、なぜか当時から私は彼女をどこか警戒していた。

 今目の前の芙美子は、どこか荒んだような風をまとっていたが、お化粧のためかはかなげな美しさを見せている。

 けれど、私には似つかわしくない一瞬の感傷はすぐに断ち切られた。

 彼女はまっすぐに私の目を見て言う。

「ご予約ですか。御芳名を」

「はい。木山真理子です」

 空々しい偽名を言う。彼女の目はもう気づいていた。私が湯原花蓮であるということに。

「お待ちしておりました。お席にご案内します」

 彼女が私のハンドバッグに手をかけようとしたので、私は手ぶりでそれを制した。気に留めた風もなく、芙美子は私を丁寧に手招きしてほのかな灯りのともった奥の座敷に案内した。二人用の狭い個室になっている。

「今、お通しをお持ちしますね」

 柔らかく人好きのする声音で言うと、彼女はいったん下がった。

 私は案内された個室の一方の席に腰を下ろし、前後左右の客の入りを確認する。平日の早い時間、まだあまり席は埋まっていないようだ。

 しばらく待つと、障子が開けられ、芙美子が現われた。両手で運んできた小さな盆を卓に載せる。

「ご注文は」

と言いかけた芙美子は、気がついたようなそぶりをして、

「ジンでよろしいですか」

 予測はしていなかったわけではない。でも、自分の心臓が想像以上にショックを受けていた。ジンは、縣教授と先週来たときに注文した飲み物だった。

「ええ、頼むわね」

 私は声を殺すように返事をした。芙美子は俯いたまま表情を見せず、これまた見事な身のこなしで下がっていった。

 私は軽く天井を見ながら考える。

 分からない。彼女の狙いは何なのだろう。どこまで知っているのだろう。男ならうまく操れる自信があったが、女、とりわけ芙美子のような女は私にとっては鬼門だった。そういう自分に今さら気づきつつ、内心のさわめきを押さえ込む。

 腹を括って、知るべき情報をこの邂逅で獲得するのだ。

 程なくして芙美子は盆に載せたジンを運んできた。結いあげた髪のおくれ毛がなまめかしさを添えていた。

 あの頃から約十年。私も変わったかもしれないが、芙美子も変わった。

「ねえ」

 私は声をかける。

「私、すごく今誰かと話したい気分なの。少しだけ、あなたのお時間を頂戴していいかしら」

 出ていきかけていた芙美子の目はよく見えなかったが口元が微笑んだのが分かった。やはり芙美子は私だと気がついている。彼女が形ばかり逡巡する気配を見せるので、私は畳みかけた。

「芙美子ちゃんに会えて、うれしい。あの頃は本当に親切にしてもらったわね」

 今度は芙美子の口角は間違いなく上がり、くすくすとした忍び笑いまで聞こえそうだった。

「ええ、いいですわ。でも、私は勤務中だということを忘れないでくださいね。仕事がはけた後なら、お付き合いします」

 向うを見たまま芙美子は言った。驚くほどスムーズな展開だった。しかもあまつさえ彼女は聞こえるか聞こえないかの声音で付け加えたのだ。

「あの先生、お亡くなりになったのね」

 なぜこんなにもスムーズに話が通ってしまうのか。私はうそ寒い心地になりつつ、好奇心を押さえることは出来なかった。

 私は個室に一人、芙美子の運んできたジンを味わって飲んだ。何と美味しいのだろう。私が美味しいと思うお酒は、ジンと日本酒だけ。何かをお腹に入れる気分にはならなかった。かといってお腹が満ちているわけではないので、ほんのりと酔いが回ってくる。この快さを楽しんだ。少しくらいの酒で私の刃が鈍ることはない。経験上そう知っていた。

 しかし、今日は、これまで相手にしたことのない「女」、しかも芙美子だ。

 私はぼんやりと小学生の頃の芙美子の像を脳裡に思い浮かべてみた。けっして経済的に豊かではなかった。少し黄ばんだシャツ、プリーツのスカートは型崩れしていたし、お下がりだと言っていた。

 それでも修道院のお下がりを着ていた私からすれば数倍もまともな格好だった。

 あの頃の芙美子はおせっかいな子どもに見えた。ただ、実を言うなら私は苦手だった。邪険な態度をわざと見せても繰り返し仲間に入れようと声をかけてくる彼女。まるでうるさい蠅のように感じていた。

 本能的に忌避した方がいいと感じる類の子供だった。

 学業成績は悪くはなかったはずだ。その後、高校では県下二番目の学校に進学したと噂で聞いた。それ以上何の興味も持ってはいなかったが。

 私は常に全教科一位をとっていたので、彼女はずっと私のうしろに控えているような恰好だった。私は県下一の公立高校に進み、ひたすらに勉強をした。そこでも友人などは作らなかった。境遇の違いすぎる人間とかかわる気にさえならなかったから。

 修道院の吝嗇家の先生たちを黙らせることの出来るくらいの大学には行こうというのが目的だった。本来は中卒で修道院を出て働きに出る人も多い世界だったが、私は抜群の成績をずっと維持していたので、修道院側も何かの宣伝に使えると思ったのか、私には退所のほのめかしはしなかったのだ。

 ふっとほの暗い過去の亡霊が自分を覆っていたことに我に返る。

 あの芙美子は私の調子を狂わす。

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