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第4話

 私は今日の計画を思いとどまらなければならないことを確信した。準備は万端のはずだった。けれど、どんなに緻密な計画を立てたとしても、外部からのイレギュラーな要因で中断せざるを得ないことはあるのだ。そこで後ろ髪を引かれるような気分になってはいけない。きっぱりと諦めるのだ。

 芙美子が今私が私であることに気が付いているならば、これは間違いなく邪魔ものだ。私を知っている人間に、私が今この場にいたことを知られたらアウトだ。

 私は芙美子に気づかないふりをしてメイクポーチをハンドバッグにしまいながら、彼女の横をすれ違った。どこか視線を感じたが無視した。

 教授の席に戻ったけれど、私はすっかり気が削がれてしまっていた。

「先生、本当に申し訳ないのですが」

 できる限り残念な表情を浮かべて私は言った。

「急な用事で……。あの、先ほどお話した修道院の……私の後輩が病院に運ばれたらしいんです」

「何」

 それは大変だ、という表情をつくりつつも教授はその目に露骨に残念そうな色を浮かべた。

「本当に、申し訳ありません。自分でも、何でこんな。あ、いえ。でもあの子は小児喘息からずっと治らないままで、最近の湿った気候が祟ったらしいんです。でも、もう中学生だし、そろそろ丈夫になってくるんじゃないかという期待もあったのですが、残念です。急な発作で救急車を呼んだって」

 だんだんと諦めの表情へと落ち着いた教授が優しい声音で言う。

「早く行って上げなさい。喘息は思われているより危険な病気だ。病院に行って処置を受けたのなら大丈夫だとは思うが……先ほど君に聞いた修道院の処遇を考えても、君のような立派に成長した先輩の顔を見れば勇気がでるだろう」

「はい。ありがとうございます。本当に申し訳……」

「いいから早く行っておやり」

 さすが、こういうところは「先生」らしい。内心苦笑しながら私は手荷物をとって座を立った。教授はついては来ず、彼にとっては行きつけであるらしいこの店でしばらく時間をつぶすつもりのようだ。彼の家庭がうまくいっていないことは調べ済みだ。おそらく今夜は学会か何かで遅くなると家には連絡を入れているのだろう。成人した娘が一人、大学生の息子が一人。お見合い結婚の先輩の教授の娘さんの奥さま。

 仕事のための結婚。

 何ととらわれたこの男の人生だろう。

 そんなことを思いながら、私は店の出口に向かうときに、再び薄オレンジ色の着物の袖のあたりを見たような気がした。けれど、この店は二度と来ないつもりで目もやらず外へ出た。

 濃い闇にぽっかりと浮かぶ提灯や障子から漏れる灯り。往来は今の時間一時的に人がいなかった。

 私はすぐに地下鉄の駅の方に向かう。

 こういうし損なった日は、どこか悔しく、でもどこか安堵している。

 いつまでこういう日々が続くのだろう、いな、続ければいいのだろう。



 私は撚れたTシャツに、色の褪せたジーンズ、髪はまたきつい三つ編みにして眼鏡をかけ、角の禿げたリュック型の鞄を持って大学の構内に入った。

 あの日から一週間。ずっと息をひそめてきた。油断はまさに大敵なのである。過剰なほどに注意に注意を重ねるのが私のやりかただ。

 何の後ろ盾もない私だから、事を行うにもすべてが自己責任。

 そこは重々自覚している。

 学部事務所の横の掲示板を眺めながら横切ろうとして、はっともう一度そこに目をやった。

 何と迂闊だったのか。

「縣先生、お別れの儀」

 どういうことだ。

 あの宗教学の教授、一見ダンディーで知的なおじさまに見えたあの教授が、亡くなったというのか。

 私は掲示板に近寄って、張り紙の下の細かい字を目で追った。周りでは、教室に急ぐ同じ学部の学生たちが右に左に行きかっている。私の目は釘付けだった。

 7月6日。

 まさにあの日ではないか。

 私が施設の後輩の急病を理由になかば強引に先生のもとを去ったあの夜、神楽坂。

 その夜、教授は自由が丘にある自宅マンションに帰りついたあと、急に倒れて翌朝にはなくなったらしい。心不全。

 こんな偶然はありえるのか。

 ふと、薄オレンジ色の着物の袖が目の前に揺れた。

 いや、芙美子とあの教授に何か関係があったというのか。芙美子があの教授を殺したと。そういうふうに思考がまわる自分に私は呆れていた。何という妄想。私はあの縣教授を亡き者にしようとして、教授を誘い出した。たまたま訪れた神楽坂の店で、給仕として働いている芙美子らしい女に出会った。気を削がれた私は計画を一時断念。そのまま店を後にした。

 はっきりしているのはこれだけだ。

 思考が跳びすぎていることを自覚しながらも、私は落ち着かない。

 今日は縣教授の宗教学の講義の日だったが、当然ながら休講。永遠に再開されることのない講義の続き。

 私は重すぎる教科書を早々にキャンパス内に設置された百葉箱のような仕様のゴミ箱にそっと捨てた。

 この件はもう何も知らなかったことにしてもいいかもしれない。しかし、不明快なものが自分の中に残るのが気味悪かった。これまで私が手掛けたことの中で、こんなに意味が分からないのは初めてのこと。

 私は正門をくぐってキャンパスを後にした。


 それから数日、私は再び大学の講義を休んだ。出席日数は十分だ。学生生活課に施設の後輩の急病という嘘の事情も話してある。多少の便宜は図ってくれそうだった。表向きは大学というものは学生サービスが充実しているものだ。

 マンションの自室でその夜私は念入りにメイクしていた。白いレースと黒いリボンのついたワンピース。髪を下ろすと、清純な女子学生が現われる。男はいつの時代でもこういう女を好む傾向があるらしい。

 ハンドバッグにメイクポーチと例の薬物の容器を入れて外に出る。

 今日の目的ははっきりしていた。

 いつもの男狩りのスタイルではあるが、本当の目標は芙美子。あの神楽坂の店。

 もしも芙美子が偶然あの店にいたというだけで無関係なら、私がいきなり真正面から現れても、彼女は驚くだけだろう。今の私を見て驚くかもしれないし、振り返って今の己の身を恥じるかもしれない。そういうことはどうでもいい。彼女が「シロ」の確証を得られれば。

 だが、もし彼女が縣教授の死に何らかの関係を持っていたのだとしたら、彼女はどういう態度を見せるだろう。

 私の知りたいことはたくさんある。

 彼女はしらばっくれるかもしれない。いや、ふつうに考えれば自分の犯罪を告白すると考える方がおかしい。私の獲物だと知っていてそうしたのか。いやもしかしたら、あの店は教授の行きつけであったようだし、彼女はもともと彼を知っていて、亡き者にしようとたくらんだのかもしれない。

 私は思わず微笑んでいた。

 もしかしたら、芙美子にとってこそ、私は邪魔者だったかもしれないのだ。けれども、私のように用心して決行を先延ばしにすることもなかった。ただそれだけのことかもしれない。

 いずれにせよ、真相を知るいちばんの近道は、彼女に湯原花蓮として正面から再会することだと私は結論付けた。

 多少危ない橋かもしれない。でも、私はあの夜決行をしていないのだし、私のこれまでの犯罪(犯罪だとは思っていないが)を知る由もないのだから、何ら危険はないはずだ。

 自分の背後に何の証拠も残していないことを熟考し確認して、私はあの店に向かった。


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