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第2話

 私はためらわず中に入る。少し傾き始めた陽射しが真っすぐ室内に入りこんでいる。重々しい机があることを想像したけれど、今の研究室は金属の軽い机が置いてあり、イスも普通のビジネス用デスクチェアだった。

 本棚が向かいにあり、ガラスのケースがついている。灯りを点けていないので、影の部分は読みづらい。古そうな本が多かった。ガラスケースに収まっていても、色が褪せて、開いたら紙魚がたくさんありそうだ。

 別の棚の影でよく見えないが、魔女裁判にかんした本が数冊あることに気づいた。

 多くの生娘を魔女と烙印し虐殺した中世ヨーロッパの黒い歴史。

 こんな本を持っていることが彼の性癖を示しているようで、私は軽蔑の舌打ちをした。

 音もなくドアが開いた。今の舌打ちの音が聞こえたかと焦りをおぼえたが、入ってきた教授はいかにも穏やかだった。

 明らかに、私の姿を見て驚いている。

「君は……ここの学生ですよね。何かご用ですか。申し訳ないが、ご用事ならアポを取ってくだされば」

 私はにっこりと微笑む。

「先生、何を言っているのですか? 昨日お約束をした者ですが」

 しばらく呆けたのち、ようやく教授は思い当たったようだった。

「ああ、そうか。ちょっと雰囲気が違っていたものだから。本当に、女子学生さんはね……」

 世慣れていない教授は取り繕おうとして、つい余計なことまでしゃべりそうになる。下らないおべんちゃらまで言わせるのも気に入らなくて、私は話をさえぎる。

「あらためて、先生にお話を伺いにまいりました。湯原花蓮と申します。今日はお時間をとっていただいて、ありがとうございます」

 変わった名前なので心あたりがあったのか、教授は「ああ」と小さく頷いたあと、まじまじと私を見た。

 その名に恥じない容姿であることは私がいちばんよく承知している。

 教授は最初の戸惑いを克服したように、紳士的な笑みを浮かべた。

「どうもね、研究室というのは、わりと自由に使える場所だから、むさくるしくて申し訳ないな」

「それでしたら、もしよろしければ、外でお話しさせていただいても?」

 教授は私の眼差しをちらりと盗み見て、

「そうだね、時間もとるようだし、もう少し静かで落ち着く場所で」

 と言いかけるが、

「あら、ファミレスで構いません。私にとってはまじめなお話なんですけど、なにも秘匿するようなものではないですし。東門を出たところに新しいファミレスが」

「いや、それは申し訳ないよ。ここは私に任せておいて」

 教授は手慣れたように目配せして見せた。

「近場でよい店を知っているよ。教授仲間ともよく行く店だ」

 心なしか教授は弾んだ声を出す。

「そうですか。申し訳ないです。私なんかの、それも無理なお願いのために」

「いいから、いいから」

 教授は通りでタクシーを拾って、行先を告げる。さすが、お金を貯めこんでいるものだと私は唇を噛む。

 行先は神楽坂の見るからに上品な和食のお店だった。風情のある狭い戸口。季節の花が活けられている。淡い灯り。教授は引き戸を開けた。

「急なんだが、部屋は一つ、空いているかね」

「あら、先生、ちょうどよかったですわ。今、一つキャンセルが入りましたの」

 薄オレンジ色の和服を上品に着こなし、割烹着をつけた中年の女性が明るい声で答えた。

「じゃあ、そこへ」

「先生」

 私は細い声でそっとささやく。

「あの、私なんかには不釣り合いです。こんな立派なお店」

「何、大丈夫さ。ここの個室は広いけれど、二人でも大丈夫だからね」

 確かに和紙で出来た薄黄色の障子越しに淡い光を放つ室内は、ソファが三つ用意されていてとてもゆったりしている。障子の窓はフェイクだ。灯篭のような灯りが下がっている。

 教授はあらためてしみじみと私の装いを見た。確かに、どんなお店にも対応できるような品の良さでまとめている。

「真面目な話はあとでいいかね。まずは空腹を満たしておこう。今日はお昼はどこでとったの?」

「サンドウィッチを」

「それでは、そろそろ腹も空いてくるころだろう」

 私は空腹を感じることは滅多にない。修道院での居候時代から空腹には慣れてしまった。

 立派な石造りの建物の横に建てられた施設。食事が来るのはいつも遅く、とくに朝は食パンにマーガリンだけ。あとはお茶。昼になる前に学校でお腹が鳴るのが恥ずかしくてうつむいて必死に堪えていた日々。

 慈善で送られてくるのは着古したお下がり。それは構わなかった。だけど、クラスで「おこぼれ」「お下がり」と渾名をつけられてからかわれるのには耐えられなかった。

 今ならわかる。

 孤児の私が、クラスの誰よりも目立って美しく、かつ成績が良いのが気に食わなかったのだ。しかも私は卑屈な真似などしたことがない。それがまた癪にさわったのだろう。形ばかりの「同情」さえ見せず、こちらが恥ずかしくなるような罵声や皮肉を浴びせかける子どもたち。しかも私は分かっていた。彼らがそのようにふるまうのは、彼らの親がそう話しているからなのだ、と。

 私は意図的に「友」を持たなかった。小学校ではよく「グループ分け」がされる。私はいつも取り残され、一人だった。それでも泣きべそ一つかかない。

 でも、なぜか、一人だけ、私をグループに誘い込もうとする女の子がいた。確か、ふみこちゃんといったっけ。よく図書館で本を読んでいるような、運動の苦手な女の子だった。

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