憎しみは何も生まないなんて言う人を私は信じられない。
だって、エネルギーを生み出すじゃないの。
負のエネルギーだなんて、言えばいい。
それを燃料にしてしか生きられない人間もいるんだ。
それは、間違ったことではない。
憎悪でこそ生きる!
そうでしょ?
憎しみを抱く方ではなく、抱かれるようなことをした人間の方が悪いに決まっている。
*
「え、知らなかった? 私、修道院で育ったのよ」
ベッドから片身を出したまま私は答える。男はまるで想像のつかないことを言われたという顔をした。皆、初めて聞くとこういう反応をする。そして思いついたように、
「あ、じゃ、もしかして」
「そう、みなしごだったの」
悪いことを聞いてしまったという色が浮かぶことにも慣れている。サイドテーブルの上からぬるいミネラルウォーターをとってキャップを外しながら、私は口角を上げて微笑んでみせた。
「気にしないで。いまさらって感じなんだけど。私の方は」
ごくごくと喉を潤し、残りを男に差し出した。
男の瞼を閉じさせて、私はホテルの部屋を出た。殺すことは平気な癖に、断末魔の目を見るのは得意ではない。あの目は永遠に残るような気がする。だから。瞼を閉じさせて、隠すのだ。
隠してしまいさえすれば、あとはもう気にならない。
毒はもちろん、あのミネラルウォーターに入っていたわけではない。だって、私も飲んでいるもの。
その前に軽く飲んだワインの方。
グラスにそっと毒を仕込んだ。何の警戒心もなく欲望に気が立っている男を欺くなんて、たやすいこと。遅効性の毒だった。
私はごくさりげなくフロントの前を抜けて、自動ドアから外に出る。
真っ黒な猫が1匹、目の前を横切って逃げた。
すぐに闇に紛れてしまう。
私はといえば、闇に紛れる必要はないので、純白のカシミヤのコートの裾をふわりとさせて、大股で歩いた。
市街の外れにあったホテルを後にして路地に入り、お気に入りのライターでシガレットに点火する。
*
季節は初夏になっていた。
私はピンクの安っぽいTシャツにジーンズ、サンダル履きで大学の門をくぐる。
それなりに名を知られた大学なので、そんな恰好をしている人はごく少ない。女子は上品なワンピースやブラウス、ミモレやロング、あるいはタイトのスカート。髪も手入れしてストレートパーマやゆるふわパーマの人が多い。
私は一つにきつく編んだ三つ編み。化粧っ気もゼロ。
修道院の慈善事業のおこぼれで育ってきた私にはちょうどお似合いの髪型と服装。高校卒業と同時に大学に上がれた私はかなり恵まれていた。大概の子は高卒で働きはじめる。しかもその多くは最低賃金ぎりぎりのパート・アルバイトの接客業。彼ら・彼女らが風俗に足を踏み入れるのは時間の問題だ。
けれど、私は自分が選ばれた存在などとはもちろん思っていない。
たまたま運がよかっただけ。
けれど、この運が、私に長年の望みを叶えさせてくれるようになった。
そういう意味では「神」は私を見捨ててはいないようだ。
たとえ「憎悪」の権化のような「神」であっても。
階段教室の教壇の真ん前に私はいつも座る。誰かとつるむこともない。もっとも、誰も私なんかに声をかけはしない。この姿恰好では、異質に映るのは計算済み。それが狙いなんだから。
宗教学の一般教養。修道院で育った私には簡単すぎる。本当は私は、修道院のおこぼれで生活しながら、いろいろな宗教を独学で勉強してきた。イスラムもユダヤも、神道も仏教も。ヒンズーもゾロアスター教も。
それが私の慰めだった。
そして、歴史を見れば宗教の名のもとに流されたおびただしい血。そういう歴史を知るのが好きだった。
教授はロマンスグレーの黒ぶち眼鏡をかけた素敵なおじさま。
ひそかに憧れている女学生は多い。
私は貧乏くさい恰好で、真ん前で先生の講義に耳を傾ける。流されたおびただしい血の色と臭いを感じながら。
「わたくしはクリスチャンではありますので、講義内容ではとくにキリスト教の教義に比重をおいてはいますが、あくまで我が国は信仰の自由が保障された国であります。また、無宗教ももちろん許されます。あなた方の多くが単なる歴史や文化の背景として学ぶことを否定しません。ただし、ひとつだけ念頭に置いておいていただきたいのは、宗教は人がいかに生くるべきかという問いから生まれてきたということです」
教授の眼鏡の奥の黒い瞳が潤んだように見えた。そのタイミングで私はノートをとる手をとめ、まっすぐに教授の目を見つめた。ただし彼の目は階段教室のもっと後ろのほうに注がれている。華やかな女子学生たちの塊、振り返ると、折しもそこだけに陽の光が差し込んでいる。
教授は顔色一つ変えることもなく、再び自らが著したテキストに目を落とす。
私も自分のテキストのページを繰る。
たったこれだけで五千円もした本。大学近辺の指定書店と大学生協でしか取り扱われない書籍。
講義が終わった後、教壇を降りて出ていこうとする教授を私は追いかけた。
怪訝そうな表情が浮かんだ。私は少しうつむいて上目遣いにもじもじする。
「何だね」
低い声だが声音は優しい。
「あの、今日の講義で『人はいかに生くるべきか』ということが宗教の核心だと先生はおっしゃられました。私は……実はとても悩んでいることがあって、自分の生き方について見直したいと考えています。どうか、どうか相談にのっていただけませんか?」
教授は興味なさげではあったが、紳士気取りの手前、無下にはねつけるようなことはしない。
「今日はこの後会議もあるからね。でも明日なら……3限で講義は終わりだ」
私はぱっと顔を輝かす。
「本当ですか? 私もこの後はアルバイトがあるので……。明日3限のあと、研究室にお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「ああ、お待ちしてますよ」
そういうと教授はくるりと背を向けて立ち去った。
真っ白い衣装には意味がある。
この衣装を深紅に染める日を楽しみにしてきた。
私は昨日とはうって変わった服装になる。きつい三つ編みは肩先まで流し、丁寧に櫛を入れる。もとが艶のある髪なのだし、まとまりもよいのだ。整髪剤も要らないくらい。そして、ほのかにアロマをしのばせる。ほんの少し、香るかどうかくらい。
私の肌はすっぴんでも抜けるように透明感がある。滅多にお化粧をしていなかったからだ。修道院育ちにメイクをする余裕などあって?
それでも今日は肌の白さや肌理を生かしながら丁寧に下地クリームとファンデーションで整える。まつ毛はもともと長い。だからアイメイクは控えめにしている。コンシーラーで目の下に少し青みを足す。悩める女学生らしく見せるために。
頬紅もあるか無きかの薄い紅色。
いちばんの決め手は口紅だ。薄い唇に少し暗めの紅色。きっとこの方がワンピースの色にも映えるから。
翌日、3限までの授業は無視して、3限の後に教授の研究室に向かう。
気がはやったのか、教授は留守で、研究室に鍵はかかっていなかった。