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深夜。町を根こそぎにする勢いで捜索を続けたクダヘビは、すぐ手前のビルの屋上に、椿が立っている事に気が付いた。
『見つけたぞ……!』
気配は一切感じ取れなかった。ただすでに、そこに佇んでいたのだ。
いわば偶然視界に入っただけであり、だから厳密には発見できたわけではない。それでもクダヘビは、相手を恫喝するため、そう宣告する。
向けるは本体たる、四つの蛇首。いずれもが高層ビルさながら。かつて日本には伝説とまで謳われた八首の蛇がいた。
こちらの首はその半分ながら、こと総霊力においてはかの怪異など比較にならない。その気になれば天を穿ち、地を裂き、ちっぽけな島国など粉砕せしめる事すら可能であった。
だが……この娘の佇まいはどうか。かつてありとあらゆる怪異も人も恐怖へ陥れた己を前にして、表情は悟ったかの如く平常。吹きすさぶ強風を浴びて小揺るぎもしない。
――不気味であった。先ほどまでとは雰囲気からして、明らかに違う。
『あの毒女はどうした。貴様一人か?』
単身を訝しく思い問いかけると、椿が一呼吸を置いて、口を開いた。
「……工戸さんは、亡くなりました」
悲痛。紛れもない色がその一言に込められている。
『ふん、どうかは知らんがな。おおかたどこぞへ潜み、好機を待っておるやもしれん』
これでも散々人間とは関わって来た。ゆえに、椿の声音に嘘の気配はなく、真実味を帯びている事には気づいている。
されどそれでも、クダヘビは工戸リンゴが薄気味悪かった。あの、怪異なのか能力者なのか、言い知れぬ底知れなさ。
死ぬにしても、ただでくたばるとは思えない。今のこの椿の尋常ならざる様子。
“奴”が何かをした――クダヘビにそんな警戒を抱かせるには充分で。
『――だが! それでもこの俺様には届かんぞ!』
四つ首を震わせれば、四方へ弾ける威圧が、周辺一帯を地層もろとも揺り動かす。
『先ほどの逃走とて、ほとんどすべての毒をはたいたようだが……残念。スケールが違うのだなあ。俺様を一瞬くらっとさせるのが関の山……無意味な行いだ』
「そうですね。ですから……ここで私が、倒します」
椿が構えを取った。途端、指と指の間から緑色の光が漏れ出す。
その光は集まり、刀の形を作り始めた。鱗粉が舞うような、蛍が群れ集うような輝きが、端正な日本刀の姿となって掌に結実する。
柄も鍔も幾何学的な直線で構成され、刀身からは淡いエメラルドの光が立ち昇っていた。
さながら、毒を帯びた蝶が飛び立つかのように、その輝きは夜風に揺れる。
『貴様……能力者へ覚醒したのか!?』
「そのようです。工戸さんは……私に何かを渡してくれました」
神廷家の家紋を刻んだ柄を両手で握り、椿は刀を斜め下へ向けた。
「――私だけの得物。私だけの刀。……ちなみに、毒刃です」
『さ、散々俺様を卑怯呼ばわりしておいて、貴様とて毒に頼っているではないかっ!』
「先に己の手の内を明かす。これはフェアな果たし合いの作法であり、闇討ちばかり行うあなたと同質の行いではありません」
足を半歩引き、代わりに半身を出して、肩の上へ乗せるように刀身を水平にし、切っ先を向ける。八相の構えだ。
「最後にお聞きします。私の胸は今、途方もない悲しみでいっぱいです。目の前で多くの人を、家族を、友達を失いましたから。みんなの事を、愛していました」
『だからどうした……!』
「あなたにも、愛する人がいたはずです。――その方はどうしましたか? 伴侶として、未来を供にしていたはずではないのですか」
『くだらん事を思い出させるな……あんなものに価値などなかった!』
「だから人を襲う、元の怪異へ逆戻りしたというのですか!? 愛を忘れて、悲しみも忘れて……っ」
『俺は人間を殺すほど力が強まる! 貴様らを殺す理由なんぞそれだけで充分だッ』
「そんなものは真の幸せではありません!」
『偽りの幸福が……一番気持ち良いんじゃボケェッ!!』
空間が打ち震えんばかりの怒号とともに、クダヘビが椿へ襲い掛かる。最後の戦いの幕が切って落とされた。
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うなりを上げて迫る、蛇の首。ただ衝突させるだけで地上の生物を粉みじんにできる、ごくシンプルな叩きつけであった。
(どうか一緒に戦って下さい、工戸さん……!)
対する椿は縁を蹴り、迎え撃つように中空へ身を躍らせる。煌々たる月明かりが、かざした緑の刀身を反射させた。
身体が軽い。能力者として覚醒した事で、具体的にどう強くなったのか、そこまで確認している暇はなかった。
それでも普段と比べ、こうも高々と跳躍できている。身内の奥深くに滾る何かを感じる。
(――斬る……! 必ず……斬る……ッ!)
視界いっぱいに広がるは、島の如き巨躯。首の表面に貼りついたコンクリートの道路やいくつもの民家。これらは本体を守るための外殻。貫かなければ、攻撃は芯まで通らない。
「やあぁぁぁぁっ!」
気合一声。空中で身を捻り、回転しながらタイミングを合わせ、刀を振り抜く。
落下の速度。遠心力。そして高められた膂力。後は刀の切れ味を信じて放った渾身の一撃。
燐光の軌跡が夜空に新たな星座を刻むかのように――首の左半分を通過した。
クダヘビの巨体が揺らめき、街並みが軋むような音を立てた。
『がっ……!?』
上下に開いた傷口を、椿自身も通り抜け――首の後ろへ抜ける。
緊張なのか興奮なのか、途方もないほどに心臓が跳ねまわって。
反対側のビルの屋上へ着地すると同時、背後で噴水よろしく血飛沫が爆ぜた。
影響はそれだけではない。首は正気でも失ったみたいに左右へぐらつき、自ら首の斬撃痕を広げるや――各所からぷつぷつと穴が開く。
『ぐああああ……!』
はっきりとした苦悶の声を轟かせ、傷ついた首がみるみる土気色へ変わる。
まるで凍った滝が溶けだすように、外殻の下から大量の腐肉がこぼれ落ち、やがて力を失った首自体も大きく傾ぐや、轟音と地震を鳴り響かせながら、横倒しになったのである。
「……まず、一つ」
周辺を埋め尽くす土煙から、椿は片腕で顔を庇いつつ――さながら脈打つかのように、断続的な光を放つ刀身を一瞥した。
『お、俺様の首が……ありえん……本体だぞ……!』
確かにサイズや手応えからして強度に関しては、これまでのどの管をも比較にならない次元だった。
それでも……斬った。斬れる。斬れた。
言葉にならない咆哮が響き渡り、直後に近くの首。その先端が肉を裂くような音を立てて開く。
先ほど椿が与えた裂傷と似ているが、違うのはその内側に多数の牙が連なっており、奥部では赤々と分厚い舌がとぐろを巻いている点。
――口だ。思うと同時、その口腔部へ渦が形成されるように、赤い光点が集まり出す。
赤光が放たれた。
大きさにして町の大通りをもたやすく上回り、触れただけでコンクリートすら蒸発させる、大怪異と謳われた英雄の誇る一撃。
巨大で極太の光条が、椿めがけて一直線に突き進む。
しかし椿は、左右、後方いずれにも下がらなかった。
前へ跳躍した。光の速さで迫る熱線。
その表面へ、傾けた刀身をあてがって。
裂帛の気合を込めて、刀身から霊力とともに毒を噴出させる。
緑の光が赤い光線を削り、毒の膜が表面に張り付く。波に乗るように、椿は破滅の奔流の上を滑り始めた。
触れれば蒸発する熱線。だが毒の膜と霊力の反発、そして高速の滑走が接触を最小限に抑え、首の下へと急接近を果たす。
背後では光線が毒に触れた箇所から細かく分散し、赤い光が宙へ溶けていった。
『来るな……来るな来るな来るなァ!』
断末魔もかくやの叫びが轟く中、椿は首の手前で刀をひねり、真上へ跳び上がる。
「はあぁぁぁっ……!」
車輪のように回転、肉薄。こうして椿は二本目の首、その先端部を口もろとも一刀両断に斬り捨て――林立する建物を三角跳びの要領で利用して衝撃を散らしつつ、再度地上へ戻ったのである。
「二本、目……」
けれど椿は片膝を突く。刀の切っ先を路上へ突き立て、ともすれば倒れ掛かる身体を支えた。
……満身創痍。とりわけ右手の出血が止まらない。包帯は黒と赤に彩られ、千切れ、細い糸くずとなって手首のあたりから垂れ下がっている。
まだ二本、残っている。
――立ち上がらなくては。