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第14話

『……終わったか。手間かけさせおって』


 大量の管が椿たちを潰した地点を、巨大な蛇の首の一つが見下ろしていた。

 あれほどの一撃だ、逃げおおせたはずもない。赤黒い染みとなって飛び散っているはず。

 ――しかし。


『ん……?』


 一点から、異様な緑色の霧が立ち昇っていく。

 毒女の最後の抵抗だろうか。どうせ分身が喰らっても、影響など微々たるもの――。


『な、なんだ……これは』


 突如、周辺地点の管が痙攣を始める。ただの一角で発生したにしては、妙に範囲が広い。

 急ぎ、毒を浴びた管を切り離さなくては。

 だが消し去る前に、異変は次から次へ伝染した。

 ただでさえ火事の熱で乱れていた気流が、緑の霧を予想を遥かに超えた速さで運び広げていく。

 折り重なる残骸の隙間から、建物の陰から、さらなる毒霧が見る間に噴き出し、高熱に煽られながら混ざり合い、渦を巻いて上昇――。


『ぐ……切り離しは間に合ったが……!』


 あらゆる場所へ張り巡らせた管を通じ、嫌でも吸い込まざるを得ない。大量の分身たちが制御を失い、近いものから順に崩れ落ちていく。

 本体で目を凝らすも、現場にはすでに二人の姿はない――。


『この局面で――逃げられた、だと……!? おのれ……おのれぇ……っ!』




「う……」


 椿は目を覚ました。コンクリートが見える。右頬から肩口、腕や足が冷たい。ほとんど横になって倒れていたようだ。

 ひんやりとした空気が肌に纏わりつき、近くでは水の流れる音がする。嫌な臭いがしていた。ゴミ捨て場の前を通る時、よく嗅いだつんとする感じの――。


「え……っ?」


 身を起こす。起こした途端節々が刺すように痛み、怯んでしまう。

 あたりは暗い。上を見れば天井。壁には照明が並び、横には水路が伸びて、アーチ状にくり抜かれた道が前後へ続いている。


「もしかして……下水道……?」


 町の地下。いつの間に、こんな所へ。

 あの絶体絶命の瞬間。吹っ飛ばされて以降、記憶がぷつんと途切れているのだが――。

 ……目を慣れさせるため慎重に見回していた折、左手の先が、温かい何かに触れた。

 ぎょっと身をすくめながら振り向く。そこにはひどく乱れた金髪を広げ、ズタズタになった緑のジャケットを着た――リンゴがうつ伏せに倒れていた。


「く……工戸さん……!」


 重い身体を引きずって向き直る。リンゴの身体は真っ赤に染まり、下側がべっとりと濡れている。血の気が引いた。

 そっと手をかけ、仰向けになるよう引き起こす。リンゴは完全に脱力しており、まぶたは降りたまま動かない。されるがままに腕も足もだらりとしている。


「工戸さん……工戸さん、しっかりして下さい……!」


 震える手で揺すると、リンゴの口元がかすかに動き――苦悶に似たうめきを漏らした。

 胸は動いている。息はある。でも、それだけだ。


「苦しんでいる……毒を飲ませないと……!」


 闇に慣れた視界が、少し離れた位置で転がる毒入りバッグを認めた。手をついて這いながら、右腕を通して引き寄せる。

 口は開かれていて、中はほとんど空であった。どうしてと思い、すぐに察する。

 あの時。恐らくリンゴは、手持ちの毒を全て使い、クダヘビの目をくらませたのだ。

 けれど椿は離れるのが遅れて気絶。だからリンゴは椿を抱え、この地下へ逃げ込んで来たのだろう。

 そしてここで、力尽きた――奥の方から引きずったような赤い足跡が、無言でそう物語っている。


「うぅ……そんな……!」


 顔が歪む。熱いような寒いような悪寒をひっきりなしに感じながら、藁にもすがる思いでバッグを探った。

 ない。中身は何も。


 ――否。


 隅の方に、一本だけ瓶が残っていた。紫色の液体がなみなみとさざめく、髑髏のシールが貼られた小瓶である。

 そういえばと思い出す。リンゴが持っていた他の毒物には、こんな警告用のシールは張られていなかった。単にそれだけ危険な毒なのか、特別な意味があるのか――。

 ――毒飲むと怪我や病気は全部治るんだ。

 本人が答えられる状態でない以上、あの言葉を信じて、試すしかない。


「工戸さん……飲んで下さい……!」


 蓋を取り、飲み口を斜めにあてがう。

 しかし完全に意識がないのか、液体は口の中に溜まるだけで、喉が動く気配はなかった。


「飲んで……飲んで下さいよ……! お願い、だから……っ」


 液体は唇の端から垂れ落ちるだけで、中身は無情なまでに減っていくばかり。リンゴの傷が癒える様子など見られない。

 ならばと注入しようにも、注射器自体一つもなかった。

 駄目だ。――助けられない。

 椿は助けられたのに。命を救われたのに。

 気づけば、リンゴの呼吸は止まっていた。もう吐息も、うめきも聞こえない。


「あ……あぁ……」


 瓶を持っていた手から、力が抜ける。走馬灯みたいに、脳裏を映像が駆け抜けていた。

 出会った時間の短さなんて関係なかった。


「今度は私が……助けないと……って……」


 友達になりたいと――そう願っていたのに。

 この時、椿の思考は信じがたいほどの勢いで回転していた。全ての集中がリンゴへ向いていた。

 自分の傷も決して浅くない事や、さして時を置かずクダヘビに察知されるだろう事などは、あらぬ虚空へ追いやられていた。

 リンゴを助けたい。助けたい助けたい助けたい。

 毒。毒を体内へ送り込まなければ。何かもっと――確実な手段で、大量に。

 ふと蘇ったのは、この屋敷にリンゴを運んで食事をあげて、就寝前に交わした言葉。




 ――工戸さんは毒を飲んでも、疲れまでは回復しないのですか?

 ――うん。どうせなら元気いっぱいになってもいいのにねぇ。

 ――不思議ですね……。けれどそれなら、昨日、怪異毒を打たれた私は、どうして無事なのでしょう……?

 ――んー。クダヘビの毒とイイ感じに相殺した、とか? もしくは……。

 ――もしくは……?

 ――椿ちゃんに、怪異毒への耐性があったから、とかかな。よっ、流石怪異狩りの血統!

 ――もう。ふざけないでくださいよ……。




「工戸さん……」


 唇を引き結んででもこらえていた涙が、一筋こぼれる。


「……諦めませんから……」


 同時に導き出された回答が、椿を狂気の行為へ走らせた。

 自らの制服を剥ぐ。むきだしになった胴体には、数本の管が刺さっていた。

 道場で父もどきから攻撃された時、避けきれず受けてしまった分である。

 それらを引き抜き、なるべく長さを残している本数をいくつか選び、他は投げ捨てた。

 もう片手に、蓋を開けたままの瓶を取り、顔の前へ持ち上げる。

 そうして傾け――まだ半分以上残っている中身を、一気に飲み込んだ。


「ぐっ……ごふっ……!」


 浸透する。怪異毒が。それもとびっきりヤバそうな逸品が。あまりにも即効で。

 口の粘膜を、食道を、胃を介して体内へ広まり、血液中へ拡散していく。


「あは……き、きました、イイ、のが……」


 視界がぶれて、頭がぐらつく。リンゴが毒を大好きな理由が少しだけ分かった。

 気持ち悪くて、生理的に最悪で、死ぬより惨めな気持ちなのに――気持ち良いのだ。

 椿は握っていた管を、自分の身体へ突き刺した。太い血管が張り巡らされているであろう部位へ、次々と。

 肘の内側をめがけて一本。両腕の付け根に一本ずつ。首筋へは手が震えながらも、なんとか二本通した。

 正確な位置など分からない。ただ血の気配を頼りに、めちゃくちゃに押し込んでいく。

 制服の裾をまくり上げ、腿の内側にも。指先は震え、汗が滴り落ちる。全身が燃えるように熱い。耳の奥でひっきりなしにドクンドクン言っている。


 ドクドク。ドクドク。


 吐き気を堪えながら、リンゴの方へ向き直る。もう頭がぼうっとして、視界も定まらない。

 意識のない友の身体に、おぞましい管を突き刺すのは、想像以上に胸が締め付けられた。

 首筋。両腕の内側。最後は太腿。ズタズタになったスカートをたくし上げ、内側の柔らかな部分へ。

 ……繋がった。全て。

 互いの血液が混ざり合い、毒とともに身体を巡る。

 四肢が脱力した。顎が勝手に浮いて上向き、浅く呼吸をしながら、循環するに任せた。

 意識が遠のく。視野が白く染まる。現実味が薄れていき、ただ血の感覚が全てだった。

 ふと、リンゴの声が聞こえた気がした。


 ――椿ちゃん。


「……工戸、さん……?」


 ――あたしの、大事なものを、捧げるよ。


 一際強い拍動が、椿の全身を揺らした。血流が纏めて逆流したみたいな衝撃。


 ――ありがとう、ね。


「……工戸、さ――」


 そこで意識が途切れた。



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