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「はぁっ、はあっ……!」
椿は息を切らせながら、そのまま階段を駆け上がる。途中、ポケットから振動が伝わる。
電話だ。誰からだろう。無事な左手でスマホを取り出し、着信相手を認めて目を見開く。
「えっ……工戸さん!?」
廊下の壁を背に、通話を開いて耳へ当てると、なんとも太平楽な声が耳朶を打つ。
『椿ちゃーん、おなかすいたよぅ』
「く、工戸さんっ、どうして私のっ……」
『あ、ごめんね。実は昨日、椿ちゃんが気絶してた間、こっそり番号交換してたんだ……』
「どうして、そんな……」
だって、とスピーカーの向こうで、リンゴのトーンが露骨に下がり、申し訳なさそうな色が混じる。
『あたしの事怖がらずに……お話してくれたし。その、ごめんね? 勝手な事して――』
「い、いいんですよ、そんな! それより工戸さん、助けてください! みんなが……っ」
だしぬけに首に何かが巻き付き、後ろへ引き寄せられた。衝撃でスマホが手の中から弾け飛び、あらぬ方へ転がっていってしまう。
「ぐっ……!」
何事かと首元へ指を沿わせれば、つるりとした薄気味悪い感触。
それはぐいぐいと首を締め上げ、たちまち椿の呼吸を奪いにかかる。
続けざまに服の内側のあちこちが盛り上がり、生地を突き破って白い管が次々飛び出す。
『俺様がどんな所にも滑り込めるのを忘れたのか? くだらん抵抗しやがって……!』
振り切ったはずの、クダヘビの声。
接触したタイミングのどこかで、服の中へ入り込まれていたのだ。それもこんなに――。
首。腕。足。巻き付いている管の数こそ少ないが、それぞれ信じられないほどの強靭さでもって、ねじり上げるみたいに締め付けられる。
『もう逃がさんぞ! 絞め殺してくれるわッ!』
見る間に皮膚が裂けて血が滲み、椿は痛みの余り悲鳴を上げた。
だがそれもか細い。息ができない。口の端からは唾液が垂れ、首から下の力が抜け、視界がぐるりと上向き始める――。
……冷たい水滴が頬にかかり、かすかに意識が戻った。
ぽた、ぽたと。自分の涙や汗とは違う、別の液体が、頭や肩へかかってくる。
(こ、れは……)
水だ。気づいた時には、周りの生徒達の悲鳴に紛れて、静謐なまでの水音とともに――シャワーよろしくたくさんの水が降りかかってくるではないか。
「……スプリン、クラー……?」
酸素不足でろくに頭が回らないから、声もなく、口中だけでそう呟いた刹那であった。
『うぐ、ぐわ、あが、ガッ……!』
突然であった。クダヘビが呻くみたいな声を発した直後、椿の全身を締め上げていた管が、残らず緩み、ぽとぽとと――すでに水溜まりを作っている床へ落下。
解放される椿。ぜえぜえと呼気を整えながら目を向ければ、床上の管たちは、陸へ打ち上げられた魚よろしくのたうち回り、ほどなくその動きまでも鈍くなっていく。
「な、なんだ……? 急に襲ってこなくなったぞ」
「い、今のうちに逃げようよ!」
周囲の生徒達のざわめきから、この異変は広範囲にわたっている事を察する。
見回せば、そこかしこで管が力なく垂れ落ち、あるいは逃げるようにいずこかへ引っ込んでいた。
『バカな……こ、この水、ただの水では……ッ!』
視界の隅に、吹っ飛んで行ったスマホが映る。拾い上げれば、また着信が入っていた。
「く、工戸さん、ですか……?」
『……あ、椿ちゃん、無事ー?』
「一体、なにが……。今、多分学校中でスプリンクラーが作動してて、目の前でクダヘビが苦しんでいて……」
『やっぱりクダヘビだったんだ。そいつにだけ効く毒をね、さっきそこの貯水タンクに混ぜたの。こうやって、拳でタンクぶち抜いてさー』
「は、はは……」
椿はもはや、乾いた苦笑を漏らす。
『椿ちゃんいるから、人間には効かない毒だよー。でも余計おなかすいちゃった……』
「合流、しませんか? 念のために……」
『んー……今は無理かな……』
どうしてですか、と怪訝に思って聞くと、思いがけない返答が戻ってきた。
『今ので、体力使い切っちゃった……。おなかすいて、ちょっともう動けないかも……』
「え……そんなになんですか?」
うん、と応じる声は、さっき通話した時よりも弱々しい。
態度からそうは見えなかったものの、予想よりしんどい状態だったのであろう。
「なら、私の方からそっちに――」
刹那。ぞっとするものを感じて、椿はその場から転がるように下がる。
寸前までいた位置。めぎめぎと神経に触る音を立てて、床が盛り上がるみたいに膨張したかと思えば。
次の瞬間には、轟音とともに四方へ破裂した。
衝撃と強風が吹きすさび、椿の身はさらに後方へ飛ばされる。
『殺す……! もう遊びはナシだ、今すぐに殺してくれるわ!』
下階から複数の太い管が、伸びあがるように現れた。先端は鋭利に尖り、大蛇さながらに鎌首をもたげ、照準を椿へ合わせている。
「ま、まだこんなに……!」
椿は反射的に近くの教室へ逃げ込む。しかし管の群れは壁もろとも横薙ぎに叩き砕きながら雪崩れ込み、机も椅子も吹き飛ばし、床をごっそりひっぺがして巻き込みながら、椿めがけて一直線に追いすがる――。
椿は窓際へ追い込まれた。窓は閉まっていて、外へ逃げ出す余裕はない。
『これで終わりだァ!!』
亀裂だらけの天井が崩れ、瓦礫が降り注ぐ中、管の群れが椿へ殺到。
その華奢な身体を、容赦なく押し潰しにかかり。
斬り飛ばされたクダヘビの管が、えぐれた床や壁へ叩き込まれ、鮮血を噴いた。
『……なに……?』
クダヘビが、唖然に近い声を漏らす。
――相手は、ただの小娘だったはずだ。
怪異に比べてあまりに脆く、哀れな程に小さな体。容易に怯え、逃げ惑うしかない獲物。
万が一にも逃げられては小癪だから、予備としていた強力な管たちまでをも動員した。
教室へ追い込んで逃げ場を潰し、体積でもって圧殺するという、ごく簡便で確実な殺害方法を取った。
事実、クダヘビの考えは、次はどうやってあの毒女を始末するか、そちらへ思案の大半を向けていたというのに。
――なぜ。どうして自身の管が、千々に切断されている……?
血液の溜まりに沈む管のただ中で、椿は立っていた。
その右手は言うに及ばず、穴だらけでズタボロの損傷具合。到底使い物にはなるまい。
けれど、左手はまだ無傷で。
その掌中には、上の階の崩れた窓から降ってきたものだろう――折れたカーテンレールが握られていた。
破断時に押しつぶされた端部は、さながら粗末な刃物の如き鋭い切っ先を形成している。
「この上は、確か私の教室でしたね。さっき工戸さんが外へ出る時、カーテンが嫌な音立ててましたから……この破壊の余波で運よく、落ちて来てくれたのでしょう」
『斬った、という、のか……?』
おぞましい事実を理解したくないとばかりに、声が震えた。生半可な修練ではとうてい成し得ぬ鋭利な斬撃。大して戦闘経験などなさそうな、神廷家のこの小娘が。
しかも使うのは、ただの折れたカーテンレール。
あんな、刃とも呼べぬような――握りだけが刀に似ているだけの、残骸で――。
クダヘビの前で、椿が緩慢ながらも、しっかりとした構えを取る。体の震えや傷の痛みを押し殺してなお、刃物としては似て非なるそれを剣のように構える姿勢に、どこか見覚えのある影を見た気がした。
「私……これでも毎日一時間、剣の稽古をしてますから」
『ありえん、こんな……ッ!』
再び呼び出した大量の管が、流れる滝よろしく、上方より椿へ襲い掛かる。
「牛乳も飲んで、骨鍛えてますっ!」
椿はわずかに身を沈めるや、跳んだ。中空にて交錯。
紙一重で管の濁流を躱しつつ、瞬時の剣閃を浴びせ。
床へ軽やかに着地。その背後では、遅れて亀裂の入った管の塊が、ずるりと分かたれ、崩れてゆく。
『ざ、斬撃が見えん……馬鹿な……!』
教室から引っ込む管を追い、椿が廊下へ出る。
『おのれ、クソガキがぁ! そこを動くな!』
クダヘビは、いまだ逃げ遅れた生徒達へ、残りの管をけしかけ――その身を拘束し、椿へ示す。
「う、うわぁっ!」
「やめてぇ……! 嫌あああ!」
『さあ少しでも抵抗してみるがいい、貴様の学友どもを八つ裂きにしてくれる!』
「……人質を取るなんて。卑怯ですね……」
眉根をひそめる椿。その口調は唾棄すべきものを相手にしたみたいに、刺々しい。
「大怪異としての誇りと誉はないのですか?」
『黙れ黙れ黙れ!』
この時、クダヘビは激昂しきっていた。これほどの怒りに囚われたのは、戦後かつてないほど。
こいつだけはなんとしても仕留める。もはや手段は問うまい。
『貴様だけは、確実に……ッ!?』
――烈風が奔った。
気づけば、椿の姿は廊下の端から、もう反対側の端にある。
彼女は腕を真横へ伸ばし、膝を直角に曲げ、カーテンレールを振り抜いた中腰の姿勢で、静止していた。
遅れて、ざん、ざざざんと。
手前の管が斬れる。奥の管が斬れる。生徒達を拘束していた管が、床のものも壁のものも天井のものまで、縦に斜めに横に。斬れて裂けて分割されて。
廊下中を鮮血で染め上げながら、単なる肉片と化して散乱。解放された生徒達も、何が起きたのか分からないみたいに目を白黒させている。
『……この、借りは、必ず、返す、ぞ……ッ!』
恨みがましげなクダヘビの声を最後に、残っていた管は全て逃げ去り、学校には静けさが戻った――。