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第9話



「はぁっ、はあっ……!」


 椿は息を切らせながら、そのまま階段を駆け上がる。途中、ポケットから振動が伝わる。

 電話だ。誰からだろう。無事な左手でスマホを取り出し、着信相手を認めて目を見開く。


「えっ……工戸さん!?」


 廊下の壁を背に、通話を開いて耳へ当てると、なんとも太平楽な声が耳朶を打つ。


『椿ちゃーん、おなかすいたよぅ』

「く、工戸さんっ、どうして私のっ……」

『あ、ごめんね。実は昨日、椿ちゃんが気絶してた間、こっそり番号交換してたんだ……』

「どうして、そんな……」


 だって、とスピーカーの向こうで、リンゴのトーンが露骨に下がり、申し訳なさそうな色が混じる。


『あたしの事怖がらずに……お話してくれたし。その、ごめんね? 勝手な事して――』

「い、いいんですよ、そんな! それより工戸さん、助けてください! みんなが……っ」


 だしぬけに首に何かが巻き付き、後ろへ引き寄せられた。衝撃でスマホが手の中から弾け飛び、あらぬ方へ転がっていってしまう。


「ぐっ……!」


 何事かと首元へ指を沿わせれば、つるりとした薄気味悪い感触。

 それはぐいぐいと首を締め上げ、たちまち椿の呼吸を奪いにかかる。

 続けざまに服の内側のあちこちが盛り上がり、生地を突き破って白い管が次々飛び出す。


『俺様がどんな所にも滑り込めるのを忘れたのか? くだらん抵抗しやがって……!』


 振り切ったはずの、クダヘビの声。

 接触したタイミングのどこかで、服の中へ入り込まれていたのだ。それもこんなに――。

 首。腕。足。巻き付いている管の数こそ少ないが、それぞれ信じられないほどの強靭さでもって、ねじり上げるみたいに締め付けられる。


『もう逃がさんぞ! 絞め殺してくれるわッ!』


 見る間に皮膚が裂けて血が滲み、椿は痛みの余り悲鳴を上げた。

 だがそれもか細い。息ができない。口の端からは唾液が垂れ、首から下の力が抜け、視界がぐるりと上向き始める――。

 ……冷たい水滴が頬にかかり、かすかに意識が戻った。

 ぽた、ぽたと。自分の涙や汗とは違う、別の液体が、頭や肩へかかってくる。


(こ、れは……)


 水だ。気づいた時には、周りの生徒達の悲鳴に紛れて、静謐なまでの水音とともに――シャワーよろしくたくさんの水が降りかかってくるではないか。


「……スプリン、クラー……?」


 酸素不足でろくに頭が回らないから、声もなく、口中だけでそう呟いた刹那であった。


『うぐ、ぐわ、あが、ガッ……!』


 突然であった。クダヘビが呻くみたいな声を発した直後、椿の全身を締め上げていた管が、残らず緩み、ぽとぽとと――すでに水溜まりを作っている床へ落下。

 解放される椿。ぜえぜえと呼気を整えながら目を向ければ、床上の管たちは、陸へ打ち上げられた魚よろしくのたうち回り、ほどなくその動きまでも鈍くなっていく。


「な、なんだ……? 急に襲ってこなくなったぞ」

「い、今のうちに逃げようよ!」


 周囲の生徒達のざわめきから、この異変は広範囲にわたっている事を察する。

 見回せば、そこかしこで管が力なく垂れ落ち、あるいは逃げるようにいずこかへ引っ込んでいた。


『バカな……こ、この水、ただの水では……ッ!』


 視界の隅に、吹っ飛んで行ったスマホが映る。拾い上げれば、また着信が入っていた。


「く、工戸さん、ですか……?」

『……あ、椿ちゃん、無事ー?』

「一体、なにが……。今、多分学校中でスプリンクラーが作動してて、目の前でクダヘビが苦しんでいて……」

『やっぱりクダヘビだったんだ。そいつにだけ効く毒をね、さっきそこの貯水タンクに混ぜたの。こうやって、拳でタンクぶち抜いてさー』

「は、はは……」


 椿はもはや、乾いた苦笑を漏らす。


『椿ちゃんいるから、人間には効かない毒だよー。でも余計おなかすいちゃった……』

「合流、しませんか? 念のために……」

『んー……今は無理かな……』


 どうしてですか、と怪訝に思って聞くと、思いがけない返答が戻ってきた。


『今ので、体力使い切っちゃった……。おなかすいて、ちょっともう動けないかも……』

「え……そんなになんですか?」


 うん、と応じる声は、さっき通話した時よりも弱々しい。

 態度からそうは見えなかったものの、予想よりしんどい状態だったのであろう。


「なら、私の方からそっちに――」


 刹那。ぞっとするものを感じて、椿はその場から転がるように下がる。

 寸前までいた位置。めぎめぎと神経に触る音を立てて、床が盛り上がるみたいに膨張したかと思えば。

 次の瞬間には、轟音とともに四方へ破裂した。

 衝撃と強風が吹きすさび、椿の身はさらに後方へ飛ばされる。


『殺す……! もう遊びはナシだ、今すぐに殺してくれるわ!』


 下階から複数の太い管が、伸びあがるように現れた。先端は鋭利に尖り、大蛇さながらに鎌首をもたげ、照準を椿へ合わせている。


「ま、まだこんなに……!」


 椿は反射的に近くの教室へ逃げ込む。しかし管の群れは壁もろとも横薙ぎに叩き砕きながら雪崩れ込み、机も椅子も吹き飛ばし、床をごっそりひっぺがして巻き込みながら、椿めがけて一直線に追いすがる――。

 椿は窓際へ追い込まれた。窓は閉まっていて、外へ逃げ出す余裕はない。


『これで終わりだァ!!』


 亀裂だらけの天井が崩れ、瓦礫が降り注ぐ中、管の群れが椿へ殺到。

 その華奢な身体を、容赦なく押し潰しにかかり。

 斬り飛ばされたクダヘビの管が、えぐれた床や壁へ叩き込まれ、鮮血を噴いた。


『……なに……?』


 クダヘビが、唖然に近い声を漏らす。


 ――相手は、ただの小娘だったはずだ。

 怪異に比べてあまりに脆く、哀れな程に小さな体。容易に怯え、逃げ惑うしかない獲物。

 万が一にも逃げられては小癪だから、予備としていた強力な管たちまでをも動員した。

 教室へ追い込んで逃げ場を潰し、体積でもって圧殺するという、ごく簡便で確実な殺害方法を取った。

 事実、クダヘビの考えは、次はどうやってあの毒女を始末するか、そちらへ思案の大半を向けていたというのに。

 ――なぜ。どうして自身の管が、千々に切断されている……?


 血液の溜まりに沈む管のただ中で、椿は立っていた。

 その右手は言うに及ばず、穴だらけでズタボロの損傷具合。到底使い物にはなるまい。

 けれど、左手はまだ無傷で。

その掌中には、上の階の崩れた窓から降ってきたものだろう――折れたカーテンレールが握られていた。

 破断時に押しつぶされた端部は、さながら粗末な刃物の如き鋭い切っ先を形成している。


「この上は、確か私の教室でしたね。さっき工戸さんが外へ出る時、カーテンが嫌な音立ててましたから……この破壊の余波で運よく、落ちて来てくれたのでしょう」

『斬った、という、のか……?』


 おぞましい事実を理解したくないとばかりに、声が震えた。生半可な修練ではとうてい成し得ぬ鋭利な斬撃。大して戦闘経験などなさそうな、神廷家のこの小娘が。

 しかも使うのは、ただの折れたカーテンレール。

 あんな、刃とも呼べぬような――握りだけが刀に似ているだけの、残骸で――。

 クダヘビの前で、椿が緩慢ながらも、しっかりとした構えを取る。体の震えや傷の痛みを押し殺してなお、刃物としては似て非なるそれを剣のように構える姿勢に、どこか見覚えのある影を見た気がした。


「私……これでも毎日一時間、剣の稽古をしてますから」

『ありえん、こんな……ッ!』


 再び呼び出した大量の管が、流れる滝よろしく、上方より椿へ襲い掛かる。


「牛乳も飲んで、骨鍛えてますっ!」


 椿はわずかに身を沈めるや、跳んだ。中空にて交錯。

 紙一重で管の濁流を躱しつつ、瞬時の剣閃を浴びせ。

 床へ軽やかに着地。その背後では、遅れて亀裂の入った管の塊が、ずるりと分かたれ、崩れてゆく。


『ざ、斬撃が見えん……馬鹿な……!』


 教室から引っ込む管を追い、椿が廊下へ出る。


『おのれ、クソガキがぁ! そこを動くな!』


 クダヘビは、いまだ逃げ遅れた生徒達へ、残りの管をけしかけ――その身を拘束し、椿へ示す。


「う、うわぁっ!」

「やめてぇ……! 嫌あああ!」

『さあ少しでも抵抗してみるがいい、貴様の学友どもを八つ裂きにしてくれる!』

「……人質を取るなんて。卑怯ですね……」


 眉根をひそめる椿。その口調は唾棄すべきものを相手にしたみたいに、刺々しい。


「大怪異としての誇りと誉はないのですか?」

『黙れ黙れ黙れ!』


 この時、クダヘビは激昂しきっていた。これほどの怒りに囚われたのは、戦後かつてないほど。

 こいつだけはなんとしても仕留める。もはや手段は問うまい。


『貴様だけは、確実に……ッ!?』


 ――烈風が奔った。

 気づけば、椿の姿は廊下の端から、もう反対側の端にある。

 彼女は腕を真横へ伸ばし、膝を直角に曲げ、カーテンレールを振り抜いた中腰の姿勢で、静止していた。

 遅れて、ざん、ざざざんと。

 手前の管が斬れる。奥の管が斬れる。生徒達を拘束していた管が、床のものも壁のものも天井のものまで、縦に斜めに横に。斬れて裂けて分割されて。

 廊下中を鮮血で染め上げながら、単なる肉片と化して散乱。解放された生徒達も、何が起きたのか分からないみたいに目を白黒させている。


『……この、借りは、必ず、返す、ぞ……ッ!』


 恨みがましげなクダヘビの声を最後に、残っていた管は全て逃げ去り、学校には静けさが戻った――。


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