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「……はぁ」
本を閉じ、深々と溜息をつく。
昨日の出来事。その痛苦は、いまだ心身にこびりついている。それが悔しかった。
受けた屈辱を晴らすには……払拭するには、打ち勝つには。
怪異を――クダヘビをこの手で討つしかない。父となら、きっと達成できると思った。
でも、現実はこの有様。協力してくれるような怪異もいない。それ以前に、怪異への印象は現状、最悪もいいところだ。とてもではないが、良心的な怪異がいるとは思えない。
「私に、覚醒なんて……」
言いかけた矢先、どさどさっ……と、本棚の奥で何かが崩れる音がした。
ちょうど首を伸ばせば見える位置で、いくつもの本が重なり落ち、山を作っている。
「いけませんね……」
席を立った所、視界の端で図書委員と目が合った。にこりと笑み。
「あ、大丈夫です。私が直しておきますから」
「いいの? ごめんね、神廷さん。わざわざ……」
断りを入れて、自分が奥へ向かう。埃が舞う現場へ屈みこみ、上の方の本を手に取ろうと右手を近づける。
ぶつり、と音を立てて、手の甲から何かが突き出した。それも、何本も。
鋼線がより合わさったみたいな、白い管めいたものが。
「……え?」
赤い液体の付着した先端がぐりり、とうごめき、手の中の筋線維と肉が好き放題に引っ張られ、いくらか千切れた。どこか見覚えのある色と形だった。
「神廷さん? どうかした?」
硬直した椿の様子をおかしく思ったのだろう、怪訝な目顔をした図書委員が、本を抱えながら顔を出す。
「あ、あの……これ……」
何が起きているのか。半ばどうしたらいいのか分からず、右手を見せる。管は本の中から突き出していた。まるでそこから生えてきたみたいに――否、潜んでいたかのように。
「それって――え?」
きょとんとした図書委員が、ぴたりと動きを止めた。その腹部から背中にかけて、椿の手を貫通しているそれとよく似た管が生えている。出所は抱えている本に見えた。
こっちのよりも幾分サイズが大きい。腕みたいだ。それで。
「ご、ふっ……」
彼女は咳き込むみたいに唇から血をこぼし、困惑した表情のまま、ぺたりと膝を突く。椿の手から腕にかけて、激痛が突き抜けたのはその直後だった。
「ぅアっ……!!」
右手を抱え込もうとした刹那、管が猛烈な勢いで動く。身体もろとも軽々と引き寄せられ、手前の本棚へ投げ込まれるかのように叩きつけられた。
「あが……っ!」
衝撃で本棚が揺れ、倒れ込む。下敷きになったのは肩から下。押し潰された臓器が損傷し、床にへばりつかされた椿は思い切り吐血した。
『かかりおったな、バカめ!』
つい昨日、嫌というほど聞いた声が、勝ち誇ったように響き渡る。
『お前が俺様の事を調べに来るのは分かっていたぞ! 腹ぁ空かせながらカビくせぇ本の中に隠れていた甲斐があったわ!』
「……クダ、ヘ、……!」
言い終わる前に管が奥へ飛び退き、合わせて椿も引っ張り込まれた。
閉じられた図書室のドアを身体ごとブチ抜かされ、廊下へ引きずり出される。
「うわあぁぁ!」
「た、助けてえぇぇ!」
廊下は混乱に陥っていた。天井。床。窓。そこかしこから出現した大量の管が、授業のため教室へ戻ろうとする生徒達を襲っている。否――教室の中も似たようなものだ。
あちこちで肉片が散乱し、立ち込める血臭が鼻を強烈に突く。だが、愕然としている暇もなかった。
『そらそら、校内引き回しの刑じゃ! 優等生の貴様にはショックであろうが! ぐわはははは!』
声の言う通り、椿は手を貫いている管によって、糸をくくりつけられた人形が如く、上下左右に振り回され、あちこちへ叩き込まれた。
「ぐ、うぅっ……!」
もがいても、重心を管に取られている以上、まったく意味をなさない。腕で頭を庇い、なんとか致命傷を避けるのが精いっぱいである。
『さてさてお嬢様よ、昨日は毒で俺様の管をボロボロにしてくれたよなぁ?』
(毒を使ったのは、工戸さんです……!)
廊下の壁から壁へ、一面管が生え始める。さながらラケットで、その形状は先端が平たい傾斜を作っていた。
『だから今日は【見世物小屋】で一芸披露といこうではないか! 本日の演目は……人体すりおろし打ち返し!』
表面にはおろし金よろしく荒々しい、無数の突起が形成されていく。
『往復一回ごとに、貴様の肉がどんどん削れていくというワケだ! どこまで削れるか、数えてみようぞッ!』
猛スピードで引き寄せられる椿。あそこまで持っていかれれば最後、文字通り生きたまま刻み下ろされるのは明白であった。
「くっ……!」
椿はとっさに、無理矢理身をひねる。
打ち込まれる寸前、管部分を踏みつけるように足を叩き入れ――逆に蹴りつける事で、跳ねあがる勢いを利用して、階段の踊り場へ跳躍した。
『……は?』
何拍か置いて、あっけにとられたような声が続く。
かなりの勢いを味方につけていたためか、手を貫通していた管も抜けており――遠ざかる廊下には管が何本か所在なさげに取り残されていた。