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地平から覗く朝陽が、神廷家の屋敷をまどろみから覚めさせる。
縁側に差し込む陽の光が、磨き上げられた板張りの床を照らしていく。柱と柱の間に巡らされた廊下は明治の世より続き、その太く頑丈な梁は無能戦争の戦火にすら耐えたという。
二階建ての本館を中心に、東西へと平屋の離れが広がる。古き良き時代の伝統建築であり、家柄を示す象徴の一つであった。
そんな離れの一つ、椿の部屋にも柔らかな光が忍び込んでいた。障子の模様を投影したような、枡目状の光明が、床や壁をそっと彩っていく。
椿は白無垢の布団の中で身じろぐ。敷き布団も掛け布団も純白で、枕に至るまで同色に統一されていた。
「う……」
いまだぼんやりとした意識の中、枕に顔を埋めて布団に身を包み――。
時計の針が七時を指す寸前、けたたましい音が鳴り響いた。
「はっ……!」
上体を跳ね起こす。荒っぽい起き方に、首の辺りがぎくりと痛む。
同時に、昨夜の記憶が洪水よろしく意識へ流れ込んできた。
暴漢に襲われた事。クダヘビの襲来。リンゴとの出会い。そして――。
……制服に着替えて、部屋を出る。予備を買っておいてよかった。
茶の間へ続く戸を開ければ、朝食の乗った机を挟み、壮年の男があぐらをかいて座っている。
手には茶碗と箸がそれぞれ。目線はテレビへ注がれ、ニュースを眺めている風だ。
「おはようございます、父さま」
「うむ……」
こちらの呼びかけに応じ、頷きを返して来る。
椿は一呼吸おいてから――当然の質問を口にした。
「あの……どうして甲冑を着込んでおられるのですか?」
朱塗りの兜。胴は黒漆塗りに金の紋様。襟には神廷の家紋を施した布を巻き、篭手も心もち袖を通した程度。しかも茶碗を持つため手首は外している始末。
陣立ての中で休息をとる、戦国時代の武将さながらの出で立ちだ――。
「知れた事。昨晩、お前の話したクダヘビを警戒しているにすぎん」
父が茶碗を置き、代わりに腰に差した刀へ手をやり、鞘ごと上へ持ち上げ、椿に見えるようにする。
鞘には濃藍の漆地に金銀で荘厳な龍紋を配し、八つの玉をくわえさせた意匠。最も目を引くのは、朱と黒の組紐で結わえられた柄である。
八枚の小判型金具が取り付けられ、それぞれに神廷家に伝わる神紋が刻まれていた。鍔は上質な白銅で作られ、複雑な透かし彫りが施されている。
――かつての無能戦争。神廷家は八岐大蛇と呼ばれる、八つ首の蛇型大怪異を倒した。
その折り、失われゆく力を刀のカタチへ変え、そうして残ったのが、父の握るそれ――“オロチ”と呼ばれ、代々受け継がれている神剣であった。
「まさかずっと……昨日から、そうしていたと……?」
「蛇の怪異は狡猾で、執念深い。なればこちらは常在戦場。いつなんどき隙を見せるわけにはいかんからな」
一見度肝を抜かれた父の身なりであったが、そういう理由なら納得がいった。
無様にも気絶に等しい勢いで寝入ってしまった椿の代わりに、ずっと家を守っていてくれたのだ――。
父と遅めの朝餉を囲む。二人暮らしには広すぎる邸宅ながら、椿にとっては慣れた日常の一時だった。
だが――。
『えー昨晩、町外れの廃ビルで、いくつものバラバラ死体が発見されたと……?』
『はい。通報された方のお話によれば、中は瓦礫と血まみれで、それはもう酸鼻を極める有様だったとか……』
ニュースから流れる内容に、つい目が吸い寄せられる。
――ワイプで映し出されているのは、間違いない、昨日椿と男達、クダヘビ、そしてリンゴらが出会い、悶着を起こした例の廃ビルだ。
「……ここか?」
言葉少なに、父が問うてくる。はい、と椿も短く返した。
直後、画面が映したのは枯沼市の大通り。そこには多くのパトカーと救急車が停められ、警察や救急隊員でごった返している。
アスファルトの上では、盛り上がったブルーシートが、等間隔に並べられていた。
立ち入り禁止の線に集まる住民達の近くで、ニュースキャスターがカメラへ話している。
「えー、このように、たった一晩で数十を超える殺人事件が多発しております。犠牲者は百人とも二百人とも……恐ろしい数です」
『この近辺は特にひどかったらしいですからね。難を逃れた方々の証言によれば、犯人は何か奇妙な……ホース? 管? のような凶器を扱っていたとか! いやー怖いねぇ!』
『戦後最悪の大量殺人事件といっても過言ではないでしょう』
「こ、これは……!?」
椿は動揺のあまり、慄然と中腰になる。膝が机の裏を蹴り、湯呑みが跳ねた。
「奴の仕業で間違いあるまい。お前が生き残れたのは、ひとえに幸運だったからだ」
父のそっけない発言に、椿は力なく座り込む。
「……クダヘビは己を、伝説の英雄などとのたまっていました。しかし、あのように荒れ狂い、殺戮を繰り返す怪異など、妄言にしても到底許しがたいと、私は思います……」
「クダヘビが英雄なのは事実だ。誇張でもなんでもない」
あまりのショックゆえ、とりあえずお気持ちを吐露したかった椿は――父があっさり告げたその言葉に、思わず瞠目する。
「……え……?」
「無能戦争の真っただ中。クダヘビは他の怪異達とたもとを分かち、たった一人、人間の味方につき、戦った。……言ってみれば、人類の救世主と呼んでいい」
「そ、そのような者が、どうして今になって、こんなひどい真似を……」
「そこまでは知らぬ。だが、無辜の人々の命をいたずらに奪う怪物と堕したのであれば……例え古の英雄であろうと、討たねばなるまい」
落ち着いた語り口ながらも、確固たる意志を込めて紡がれる父の言葉に、椿も唾を呑む。
「でも……勝てるのでしょうか」
「すでに手は打っている。昨晩の段階で、応援を呼んだ」
首をかしげる椿の前で、父はテレビを朝の教育番組へ変え、みそ汁を啜ってから言った。
「無能戦争の後、政府は内々に、この国に潜む怪異を討つための専門機関を設置した。名を“
「有能部……」
「所属しているのは我らと同じ、怪異狩りを生業とする者達ばかり。先遣隊が到着するのは明日の朝。俺は彼らと協力し、クダヘビを討伐する」
気づけば食器は全て空だ。ニュースに衝撃を受け、今後の話をしながらではあるが、なんだかんだ食欲はあり、無事に食べきれた。
「椿。お前はいつも通り、学校へ行け。ただし、気を付けてな」
学校。確かに今日は平日。そろそろ支度を始めなければ、間に合わなくなるだろう。
でも――脳裏をかすめるは、昨日の恐怖。痛み。苦しみ。死に瀕した刹那の、冷たさ。
「……父さま。私は、その、今日は……できれば、休みたくて……」
「ダメだ。約束だろう。学校には行け」
父の口調は断固としたもので――それ以上の抵抗は、椿には許されていなかった。