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街灯が瞬き、集まった蛾が揺れるように踊る。
ひっそりと静まり返った住宅地を、椿は歩いていた。大通りを進んだ方が家には近いのだが、今の自分の格好を見るにつけ、到底人前には出られない有様だと判断したのである。
何せ髪はぼさぼさ、制服もスカートもところどころが裂け、あちこちには誰のものかも分からぬ血痕。土や砂がびっしりと纏わりつき、払うのさえあきらめざるを得ない有様。
知らず、溜め息が漏れた。世間体というものがある。ただでさえ深夜帯、こんなざまで堂々歩けるほど豪胆ではなかった。親に合わせる顔がない。
「んー……すー……っ」
後をついてくる足音が、やや鈍くなった。続くは、そんな妙な呼吸音。
振り返ってみれば、自分の数歩後にいるリンゴが、バッグから何やら袋を取り出して口元へ押し付け――中の白い粉を気持ちよさそうに吸引しているではないか。
「ふぃー……キマるぅ……」
リラックスした風な声音とは対照的に、袋を外したリンゴの両目はぐるぐる回転。椿のこめかみを冷や汗が伝う。
「あの……それって……」
「つばきちゃんもすう? とべるよ」
「結構です。それより……」
椿の身体の節々はまだ痛み、熱を持ったまま――先ほどの騒動の余韻が残っていた。
網膜に焼き付くは、血と肉の繚乱。脳裏によぎるは、去り際にクダヘビと名乗った声と、群れ寄る奇怪な管たち。
「先刻のあれは、怪異……なんですよね」
「怪異知ってる? 椿ちゃん」
「はい。この世ならざる怪物たちの事です。不思議な力を持ち、人を襲い殺す、邪悪な異形――まだ生き残りがいたなんて」
百年くらい前だっけ、と、リンゴが人差し指で顎を突きながら続けた。
「怪異と人間の、戦争があったんだよね。誰が呼んだか『無能戦争』。勝ったのは人間側で、怪異は大きく数を減らして散り散りになり、後は絶滅を待つ一方だけって話」
「そうですね。私のひいおじいちゃんも、その戦争に参加していました」
「へー。強かったの?」
「蛇神を宿した大いなる神剣を振るい、並みいる怪異を倒したそうです。ゆえに神廷家……私の家は、その功績を政府に買われ、代々怪異を討滅する家系へ生まれ変わりました」
「へー」
「話を戻しましょう。そうして世界中で多くの怪異が討たれたものの、なお力と知恵ある怪異は、人里へ潜み、力を蓄え続けているとか」
であれば、あのクダヘビはそんな力と知恵ある怪異の一匹であり――言動から察するに、怪異を狩る側たる神廷家に、何らかの怨恨を抱いている可能性が高い。
「でも、あたしがボコったし、もうどっか行ったんじゃないの?」
「恐らくですけど……工戸さんが相手にしたものの多くは、クダヘビが寄越した手下に過ぎないかもしれません」
「手下」
「配下でも、分身でも、使い魔でも、なんでもいいですけど……とにかく、本体はまだ遠くで見ていて、手足だけを伸ばして攻撃していた感じに見えました」
「分かるんだ?」
「なんとなく……ですけど。私も神廷家の長女ですから」
「えっ、じゃあ、椿ちゃんも強かったりする?」
私は、と椿は足を止める。まがりなりにも怪我人の椿より、下手すれば千鳥足で歩いていたリンゴが、おわっと声を上げながら背中にぶつかってよろめいた。
「おじいちゃんや父に比べれば、私など全然……未熟で。だから神剣も、まだ受け継いでいないです。力さえあれば、こんな事には……」
「よくわかんないけど、元気だしなよ。助かったんだからさー」
へらへら笑うリンゴへ、椿は振り返り、真っ向から見つめた。
「私からも、質問をいいでしょうか。……工戸さんは、何者なのですか?」
口を開け、あたし、と自分を指差すリンゴに、椿はこくりと頷き。
「工戸さんも、もしかして……怪異ではないのでしょうか?」
「……えっ、あたし、退治されちゃう?」
「そ、そんな事しませんよ! 工戸さんには命を助けてもらいましたし――毒を使うのは卑怯だと思いますけど――それに」
「それに……?」
「怪異の中にも、良い人はいるって、おかげで教わりましたから」
椿は真一文字に引き結んでいた唇をゆっくりと和らげ、かすかな微笑みを浮かべる。
「えへっ、そっかあ。なんか嬉しいなー」
目をまん丸にしていたリンゴも、つられたみたいに笑う。
自分より背は高く、年上にも見える美女なのに、かえすがえすも子供のような人だ――と椿は感じた。
「でもあたし、そんな良い人じゃないよー? 何も起きなかったら、普通に逃げてたし」
「え、そうなんですか?」
再び二人で歩き出した矢先、思い出したみたいにリンゴがそんな事を言い出した。
「あたし、毒を集めるのが好きだからさー。あそこにいたのも、一人で楽しみたかったからだし。面倒ごとに巻き込まれるのは嫌だから、すぐに町を出ていたと思う」
「町……この枯沼市ですか」
「うん。元々行くアテのない根無し草だからね。だけど、あたしのせいで他人が死ぬと、キマってても理性戻って来ちゃうから」
何とも独特な理由である。とはいえいずれにせよ、リンゴの常人離れした、いかにも怪異らしい価値観によって、椿が救われたのは事実で。
「それでも、私は恩義に思ってますよ。いつかぜひ、返させてください」
「お礼参りしたいのはクダヘビもじゃないかな? あっちもあっちで、つい最近この町に来たみたいな感じだったし。三者三様っていうの? お互い運が悪かったって事で」
クダヘビの名を聞いて、椿の眉根をひそめられる。
露骨に神廷家を狙うと宣言していた、邪なる怪異――やはり、このままで済むとは思えない。
「いずれにしても、この件は……父へ相談しようと思います。私は無力でも、神剣を授かった父ならば、きっとクダヘビを討ってくれます」
「んー。まぁ頑張ってよ。この町ってあちこちから負の痕跡がするから、変に荒れるとあたしもやりにくいんだよねぇ」
「負の痕跡……ですか?」
「ううん、こっちの話」
屈託のない笑みを向けられては、追及する気にもならない。
それ以上に疲労が溜まっており、椿の頭には次第に霧がかりつつあった。
「工戸さんは……これからどうするのでしょうか?」
「ホテルに泊まる!」
「ホテルですか……すごいですね、憧れちゃいます。お金持ってるんですね」
「ない!」
「え……それなら、泊まれないじゃないですか」
「泊まれない!」
「なら……どうするのですか?」
「野宿!」
それは大変だ……椿はふらふらしつつ、鞄へ手を突っ込み、財布を取り出す。
「お金、貸しますよ。ほんのお礼ですから、気にせずに受け取って、ゆっくり休んでください」
適当に札束を渡せば、リンゴの顔が目に見えて綻んだ。
「うわぁ、こんなに!? わーい! 今日はベッドで寝れる! ご飯も食べれる!」
「私から言うのもなんですけど……変なクスリを吸うのは、やめた方がいいと思いますよ」
「クスリじゃないよ、毒だよ!」
「あは、そうですね、毒でしたね。うふふ……」
「あはははははははははっ!」