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「すごい……」
一連の攻防を見つめていた椿が、そう漏らす。
周辺の管はいつしか包囲を解かざるを得なくなり、部屋の隅や窓際まで退いて、恐る恐るといった調子でこちらを窺うにとどめられていた。
『許さん……許さんぞ、よくもこんな真似を……』
「どう? まだやる?」
『……此度は見逃してやる。だが覚えていろ、貴様の顔と名は覚えた。この世のどこにいようと……いや、宇宙船で銀河系から逃げたとしても、追い詰めて、殺してやる!』
「負け惜しみじゃーん」
『黙れッ! 俺様は負けてなどおらん。目的はすでに……達成している』
へ、とリンゴが口を開けた直後、後ろで椿が、ぐったりと倒れた事に気が付く。
「つ、椿ちゃん?」
踵を返して駆け寄るリンゴ。
椿は横たわったまま応えない。屈みこみ、具合を確かめたリンゴは目を見開いた。
「な、なにこれ、肌が青紫色に……! 血色も悪いし、チアノーゼ起こしてる! 痙攣、呼吸の浅さ、吐血まで……どうして急に!」
『ふははははは! バカめ! 毒が貴様だけの専売特許だとでも思ったか!』
背後からは、勝ち誇った声が響き渡り――徐々に遠ざかり始める。
『神廷家の娘は、すでに我が一撃を喰らっている……たっぷりと呪毒を含んだ、特製の管のな!』
「なんて卑怯な事を!」
『貴様が言うな! これは戦争であり、卑怯こそ正義! そやつはもはや助からん……残り数分の命であろう。これでどちらが勝者か、分かったはずだ!』
管たちもいつしか引っ込み、気配が消え去っていく。
『俺様こそ伝説の英雄、クダヘビ! 次は必ず、貴様を殺してくれるわァ!』
それきり、声はしなくなり――残った音は、弱った椿の浅い呼吸音だけだ。
「ど、どうしよう……」
リンゴはとりあえず椿を抱きかかえるが、その細い身体に毒が回っていくのを、ただ見ている事しかできなかった。
「この毒、怪異製みたいだし……普通のお医者さんじゃ治せないし……」
「……工戸さん」
その時、ふと椿がまぶたを開く。意識を取り戻したのである。
「つ、椿ちゃん! 良かった、目が覚めたんだね!」
「……さっきの、敵は」
「どっかいったよ……死なないで」
「そ、ですか……ありがとう、ございます……」
椿は弱々しくも、地面に手を突き――かろうじてという有様で、立ち上がった。
「ど、どこいくの……?」
「家に、帰ります……門限、とっくに、過ぎていますから……」
「そっか……厳しいおうちなんだね」
「はい……父が、父の、ところへ……」
ずる、ずる、と。椿が足を引きずり、階段を目指す。その動きは遅く、窓から吹き込む風でも倒れてしまいそうだった。
「家、近いの?」
「いえ……遠い、です……」
「えっとね……送ってこうか?」
椿が膝を折り、咳き込んだ。吐き捨てた唾液には、濃厚な血液が混ざり込んでいる。
「あのね、椿ちゃん。聞いてほしいんだけど……」
「な、なん、ですか……? ごめんなさい、よく聞こえ、なくて……」
「あたしの毒……すごく強いんだ。多分、あいつがキミに撃ち込んだ毒よりもさ」
「はい……」
椿はもう立てなかった。四つん這いで必死に突っ張り、前を目指す。
「だからさ……試してみない? あたしの毒が、キミの中の毒を倒せるか、さ」
毒をもって毒を制す。自分の毒が“世界一”強い。
リンゴはそう、内心自負していた。だからその言葉が出た。
「そこ、まで……お世話になる、わけには……いきません」
椿が動きを止め、振り返る。虚ろな目で、あるかなきかの笑みを浮かべて。
「助けて、くれて……ありがとうございました。私の事は、もう、いいですから……。工戸さんも、どうか――」
「えい」
一歩で寄ったリンゴが、取り出した注射器の針を、椿の首筋へ突き刺し、全部注入した。
「あう」
白目をむき、くたりと倒れ込む椿。
かと思えば、顔から手から足まで血管が浮き上がり、四肢がそれぞれまっすぐ硬直し。
悪霊にでも憑りつかれたみたいに、総身が前後左右に跳ね始める。
「うわわっ、すごい、すごい事になってるよ、椿ちゃん!」
口元を手で覆うリンゴの前で、椿は唇から泡を吹き、意味の通らぬ声を漏らし、発汗し、失禁し、ただひたすらに痙攣を続け――。
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「う……」
椿は目を開けた。汗ばんだ身体に、夜風が心地良い。
「……あれ……?」
何が、どうなったのだろう。何か、とても恐ろしい目に遭った気がする。
頭がなんだかとても重いが、柔らかいものの上に乗っている。
ぼんやりとしていた視界が、少しずつ像を結び始めて――。
「あっ! 起きた!」
叫びが鼓膜を容赦なく打ち、ぎょっと瞬きをした次には、目の前にいるのがリンゴである事に、椿は気が付く。
「く、工戸さん……?」
「わあっ、よかった! よかった! 生きてるよー、椿ちゃんが!」
満面の屈託ない笑顔を向けられ、困惑せざるを得ない。けれど――血の通う感覚が手足を巡り、椿は確かに、自分が生きている事を自覚できた。
「私……死んだはずでは……?」
「だから言ったでしょー、あたしの毒の方が強いって!」
若干会話が噛み合わないし、理屈もよく分からないものの――とにかく、椿は助かったらしい。
「ど、どうも、ご迷惑をおかけしまして……」
慌てて跳ね起きると、後頭部のぬくもりが消える。――どうやら、リンゴに膝枕をしてもらっていたらしい。
「あ……」
さらなる感謝の言葉を述べようとして、代わりに出たのはしゃっくりにも似た嗚咽だった。
身内が温かさを取り戻していくとともに、目元が熱くなり、頬を冷たいものが流れる。
「わ、私……っ」
「あれ、まだどこか痛いの、椿ちゃん?」
弁明も、説明も、何も言葉が出ない。ただ黙々と、涙だけが流れ出ていた。
リンゴはぽけっと顔を斜めに傾けて眺めていたが、ふとバッグからハンカチを取り出して、とめどない椿の涙を、そっと拭ってくれた。
「――泣かないで、ね?」
「……はい」