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第2話


「んー? なにこれ……どうなってんの?」


 少女はぐりぐりと身体をうねらせ、大儀そうに上体を起こす。

 眠たげな目でぼんやりとあたりを見回すや――下で悶絶している椿を見て、身を引いた。


「あ、ごめーん!」

「あ、あなたは……?」

「うーん?」


 首をかしげる少女。綺麗な長い金髪が、首の動きに合わせて揺れ、日本人離れした澄んだ碧眼が椿を捉えた。

 緑のジャケットを着込み、すらりとしたスタイルの出で立ちは、一見すると凛々しいのに――どこか抜けた雰囲気を漂わせている。ポケットの膨らんだカーゴパンツには、怪しげな薬瓶の輪郭が透けて見えた。

 その不釣り合いさは、何より妙にぽけっと開かれた目元に表れている。椿を見ている風で……どこか焦点を結んでいない。


「あたし? あたしはリンゴだよ」

「リンゴ……?」

工戸くどリンゴ。キミはー?」


 まだ椿の耳に残る、悲鳴と怪異の憎悪に満ちた声。それらと打って変わり、突如現れた少女の声には奇妙な浮遊感があった。不意に上ずったかと思えば、次の言葉では緩やかに溶けていく。そのコントラストに、わずかに戸惑いを覚えた。

 それでいて、その無防備な笑顔には打ち解けやすさと危うさが同居している。

 逆に問いかけてきた少女――リンゴは、視線を外して隣に落ちていたバッグをまさぐる。

 彼女のものだろう、そこそこサイズと重量感のある手提げバッグの口元からは、何やらたくさんの注射器がこぼれ出ている。針が月明かりに反射して不気味な輝きを放っていた。

 衝撃のせいだろう、空容器が割れているものも多く――この脳髄を犯す濃厚な血臭に紛れて、形容しがたい香りが放たれているのに、椿は気づいて。


(……もしかして、危ない人、なのでしょうか……?)

「私は……神廷椿、と申します……」


 なんとか答えた直後、強烈な吐き気と頭痛が込み上げ、背を丸めて伏せてしまう。

 色々ありすぎて、もうどこがどう悪いのか、椿自身にも分からないくらい、コンディションは最悪だった。


「わわ、大丈夫~……?」

「……逃げて、下さい……っ」


 絞りだすのが精いっぱい。その間にも――沈静化していた管たちが再び前進し、改めて包囲を狭め始めていた。


「え? あれ? なに、これ? どーゆー事?」


 リンゴは状況がよく分かっていないのか、口を半開きにしてあたりを見回すばかり。


「に、逃げて下さい! こ、殺されてしまい、ます……!」

「……あたしが落ちて来たせいで、キミ、動けないんだよね?」


 リンゴが振り返り、力なく見上げる椿と視線を合わせる。


「そんなの……ちょっと、捨てていけないかな」

『――死ね』


 何の可能性もないとばかりに、あの声が短く告げ――前方の管たちが飛び出す。

 その狙いはリンゴ。

 椿の脳裏に、無惨な死を遂げた男達の様子がまざまざと蘇り――。


「ていっ!」


 リンゴが軽い調子で、足元に転がっていた男の頭部を蹴り上げた。

 鈍い音を立て、頭がサッカーボールよろしく浮き、詰めかける管の方へ飛んでいく。

 刹那で千々に切り裂かれてしまった。そんな程度で防げる相手でないのは明白だ。


『くだらん……こんな児戯では延命にもなら――』


 嘲りを帯びた声が、途切れる。同時に、頭をミンチに変えた管の部位が、突如として静止したかと思うと。


『な、なんだ……これは……!』


 ぐにゃり、と管が歪む。まるでいきなり制御不能になったみたいに、中空でしなり、たわみ、曲がり、めちゃくちゃに暴れ始めたのである。

 かと思えば、管の表面が黒ずみ始めた。その黒は形容しがたい香りを放ちながら、見る間に広がっていき――だしぬけに、ぼろりと千切れた。

 炭化した部分が崩れるかのように、ぼろぼろと崩壊し、空気へ散っていく――。


『わ、我が身体が……! 貴様、何をしたァ……!』


 声は明らかな苦痛の色を滲ませている。隠しきれない動揺が伝わったみたいに、他の管たちも一斉に引っ込む。

 そのただ中で、リンゴは胸を張り、ドヤ顔で立っていた。


「ふふん。効くでしょ? あたしの毒」

『毒、だとォ……!』

「あたしが触ったものには、毒を注入できるんだ。すっごいキマるやつ!」


 毒、と椿はおうむ返しに呟く。目線がつい、リンゴの足元のバッグへ落ちる。


『――まさか貴様、“怪異かいい”なのか……!?』

「だったらなにさ」

『なぜ怪異が人間を庇う! そやつは神廷の血族! 我らの怨敵なのだぞッ!』

「だったらなにさ……?」


 リンゴが目をぱちくりさせる。椿を息を呑み、両者のやりとりを見つめていた。


『裏切り者め……ならば貴様も死ね!』

「やーだよっ」


 凄まじい勢いで、前と左右から別の管が迫ってきた。対するリンゴは管を引き付けてから身を伏せ、頭上を通過させてやり過ごす。

 続けざま、床すれすれ。獣さながらの姿勢で走る。そのスピードに、背後の管たちは追いつけない。

 リンゴは手近に散乱している死体の肉片を拾い、周囲へ投げつけた。


『ぐっ……小細工を!』


 近くの管は触れまいと下がるも――広く飛び散る毒化した大小の細胞片。血液の一滴一滴。

 それら全てを躱しきる事はかなわず、何本かが黒ずみ、たちどころに崩壊してゆく。


「てーい! とりゃああっ」


 裏返った、若干気の抜けるかけ声を上げ、リンゴが管へパンチやキックを食らわす。

 ぽすっ、と軽く押し戻す程度の威力であったが、触れられた管はそれだけで毒に冒され、あっという間に塵と化した。


『――だが、決定打には欠けるようだな。ならばこれは突破できるか!?』


 リンゴの目の前で、管が寄り集まって塊となり――巨大な拳の形状を取ったのである。


『管百層で作り上げたこのカタチ! 表層を毒で削ろうと、残った一部が貴様を砕くぞ!』

「……おもしろいね。でもこっちも、準備完了だよ」


 リンゴが正面へ向けて、両腕をゆったりと、肘を曲げて構える。彼女の足元には、首をもがれた男の死体。

 差し伸べられた掌から緑の光が染み出すように広がり、瞬く間に死体全体を包み込む。

 その輝きは次第に強さを増し、肉片が溶け出しながら凝縮されていく。

 例えるならば生命の誕生を逆再生させたかの如き、冒涜的光景――しかしそこには不気味さよりも、どこか幻想的な美しさを伴っていた。

 吸い上げられるように溶け消えた肉体。代わりにリンゴの手の中には、光球が生まれていた。

 心臓の鼓動じみて波打ち、収縮と膨張を繰り返す。

 薄暗い部屋を満たす、濃密なエメラルド色の輝き。

 緑色の光が広がる様は、水中で墨が拡散するよう。

 美しく、同時に見る者の本能的な警戒を呼び起こした。

 空気が振動するような独特の存在感が、辺りを満たしていく――。


『死体を……触媒にしているのか……!』

「くらえー……毒瘴波どくしょうはぁッ!」


 リンゴが腕を突き出すなり、掌から弾かれるみたいに放たれた光球が、一直線に巨大な拳へと突き進んだ。


『死者を愚弄しおって、悪趣味な!』


 管の集合体が、光球に貫かれた瞬間――内側から次々と毒に侵され崩壊していく。

 花が咲くように緑色の光が広がり、力尽きた花火みたいに、ぽたぽたと黒く染まった残骸が落下。

 気づけば管拳は崩壊し、その場には静寂が戻っていた――。

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