「んー? なにこれ……どうなってんの?」
少女はぐりぐりと身体をうねらせ、大儀そうに上体を起こす。
眠たげな目でぼんやりとあたりを見回すや――下で悶絶している椿を見て、身を引いた。
「あ、ごめーん!」
「あ、あなたは……?」
「うーん?」
首をかしげる少女。綺麗な長い金髪が、首の動きに合わせて揺れ、日本人離れした澄んだ碧眼が椿を捉えた。
緑のジャケットを着込み、すらりとしたスタイルの出で立ちは、一見すると凛々しいのに――どこか抜けた雰囲気を漂わせている。ポケットの膨らんだカーゴパンツには、怪しげな薬瓶の輪郭が透けて見えた。
その不釣り合いさは、何より妙にぽけっと開かれた目元に表れている。椿を見ている風で……どこか焦点を結んでいない。
「あたし? あたしはリンゴだよ」
「リンゴ……?」
「
まだ椿の耳に残る、悲鳴と怪異の憎悪に満ちた声。それらと打って変わり、突如現れた少女の声には奇妙な浮遊感があった。不意に上ずったかと思えば、次の言葉では緩やかに溶けていく。そのコントラストに、わずかに戸惑いを覚えた。
それでいて、その無防備な笑顔には打ち解けやすさと危うさが同居している。
逆に問いかけてきた少女――リンゴは、視線を外して隣に落ちていたバッグをまさぐる。
彼女のものだろう、そこそこサイズと重量感のある手提げバッグの口元からは、何やらたくさんの注射器がこぼれ出ている。針が月明かりに反射して不気味な輝きを放っていた。
衝撃のせいだろう、空容器が割れているものも多く――この脳髄を犯す濃厚な血臭に紛れて、形容しがたい香りが放たれているのに、椿は気づいて。
(……もしかして、危ない人、なのでしょうか……?)
「私は……神廷椿、と申します……」
なんとか答えた直後、強烈な吐き気と頭痛が込み上げ、背を丸めて伏せてしまう。
色々ありすぎて、もうどこがどう悪いのか、椿自身にも分からないくらい、コンディションは最悪だった。
「わわ、大丈夫~……?」
「……逃げて、下さい……っ」
絞りだすのが精いっぱい。その間にも――沈静化していた管たちが再び前進し、改めて包囲を狭め始めていた。
「え? あれ? なに、これ? どーゆー事?」
リンゴは状況がよく分かっていないのか、口を半開きにしてあたりを見回すばかり。
「に、逃げて下さい! こ、殺されてしまい、ます……!」
「……あたしが落ちて来たせいで、キミ、動けないんだよね?」
リンゴが振り返り、力なく見上げる椿と視線を合わせる。
「そんなの……ちょっと、捨てていけないかな」
『――死ね』
何の可能性もないとばかりに、あの声が短く告げ――前方の管たちが飛び出す。
その狙いはリンゴ。
椿の脳裏に、無惨な死を遂げた男達の様子がまざまざと蘇り――。
「ていっ!」
リンゴが軽い調子で、足元に転がっていた男の頭部を蹴り上げた。
鈍い音を立て、頭がサッカーボールよろしく浮き、詰めかける管の方へ飛んでいく。
刹那で千々に切り裂かれてしまった。そんな程度で防げる相手でないのは明白だ。
『くだらん……こんな児戯では延命にもなら――』
嘲りを帯びた声が、途切れる。同時に、頭をミンチに変えた管の部位が、突如として静止したかと思うと。
『な、なんだ……これは……!』
ぐにゃり、と管が歪む。まるでいきなり制御不能になったみたいに、中空でしなり、たわみ、曲がり、めちゃくちゃに暴れ始めたのである。
かと思えば、管の表面が黒ずみ始めた。その黒は形容しがたい香りを放ちながら、見る間に広がっていき――だしぬけに、ぼろりと千切れた。
炭化した部分が崩れるかのように、ぼろぼろと崩壊し、空気へ散っていく――。
『わ、我が身体が……! 貴様、何をしたァ……!』
声は明らかな苦痛の色を滲ませている。隠しきれない動揺が伝わったみたいに、他の管たちも一斉に引っ込む。
そのただ中で、リンゴは胸を張り、ドヤ顔で立っていた。
「ふふん。効くでしょ? あたしの毒」
『毒、だとォ……!』
「あたしが触ったものには、毒を注入できるんだ。すっごいキマるやつ!」
毒、と椿はおうむ返しに呟く。目線がつい、リンゴの足元のバッグへ落ちる。
『――まさか貴様、“
「だったらなにさ」
『なぜ怪異が人間を庇う! そやつは神廷の血族! 我らの怨敵なのだぞッ!』
「だったらなにさ……?」
リンゴが目をぱちくりさせる。椿を息を呑み、両者のやりとりを見つめていた。
『裏切り者め……ならば貴様も死ね!』
「やーだよっ」
凄まじい勢いで、前と左右から別の管が迫ってきた。対するリンゴは管を引き付けてから身を伏せ、頭上を通過させてやり過ごす。
続けざま、床すれすれ。獣さながらの姿勢で走る。そのスピードに、背後の管たちは追いつけない。
リンゴは手近に散乱している死体の肉片を拾い、周囲へ投げつけた。
『ぐっ……小細工を!』
近くの管は触れまいと下がるも――広く飛び散る毒化した大小の細胞片。血液の一滴一滴。
それら全てを躱しきる事はかなわず、何本かが黒ずみ、たちどころに崩壊してゆく。
「てーい! とりゃああっ」
裏返った、若干気の抜けるかけ声を上げ、リンゴが管へパンチやキックを食らわす。
ぽすっ、と軽く押し戻す程度の威力であったが、触れられた管はそれだけで毒に冒され、あっという間に塵と化した。
『――だが、決定打には欠けるようだな。ならばこれは突破できるか!?』
リンゴの目の前で、管が寄り集まって塊となり――巨大な拳の形状を取ったのである。
『管百層で作り上げたこのカタチ! 表層を毒で削ろうと、残った一部が貴様を砕くぞ!』
「……おもしろいね。でもこっちも、準備完了だよ」
リンゴが正面へ向けて、両腕をゆったりと、肘を曲げて構える。彼女の足元には、首をもがれた男の死体。
差し伸べられた掌から緑の光が染み出すように広がり、瞬く間に死体全体を包み込む。
その輝きは次第に強さを増し、肉片が溶け出しながら凝縮されていく。
例えるならば生命の誕生を逆再生させたかの如き、冒涜的光景――しかしそこには不気味さよりも、どこか幻想的な美しさを伴っていた。
吸い上げられるように溶け消えた肉体。代わりにリンゴの手の中には、光球が生まれていた。
心臓の鼓動じみて波打ち、収縮と膨張を繰り返す。
薄暗い部屋を満たす、濃密なエメラルド色の輝き。
緑色の光が広がる様は、水中で墨が拡散するよう。
美しく、同時に見る者の本能的な警戒を呼び起こした。
空気が振動するような独特の存在感が、辺りを満たしていく――。
『死体を……触媒にしているのか……!』
「くらえー……
リンゴが腕を突き出すなり、掌から弾かれるみたいに放たれた光球が、一直線に巨大な拳へと突き進んだ。
『死者を愚弄しおって、悪趣味な!』
管の集合体が、光球に貫かれた瞬間――内側から次々と毒に侵され崩壊していく。
花が咲くように緑色の光が広がり、力尽きた花火みたいに、ぽたぽたと黒く染まった残骸が落下。
気づけば管拳は崩壊し、その場には静寂が戻っていた――。