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「キマるぅ……」
陶然とした声が、夜に響いた。
漏らしたのは廃ビルの三階の中心でうずくまる、金髪碧眼の少女である。
「頭ん中、どろどろしてぇ……アー……あえええ……」
どろんとした眼差しを左斜め上の虚空。蜘蛛の巣の張った隅へさまよわせ――手の中に握った、零れ落ちんばかりの錠剤を、白く細い指先でひとつまみ。
「あむぅ……」
水も飲まずに含み、嚥下する。ごくり。食道から胃へ。胃粘膜が錠剤を優しく捉え、くるみ込む。
ふぅー……と鼻先から、うっとりとした息が押し出される。脳髄に伝わる刺激感。
体中を苛む、むずがゆさ。たまらない。ぞくぞくとした悦びで、勝手に肩が跳ねた。
「だめ、もうほんのちょっとしかないのに……とまんない……」
ろれつの回らない独り言を紡ぎつつ、傍らに置いた迷彩柄のバッグ――閉じられたそのチャック部分をなぞる。
今日の分はもう全部食べてしまった。これ以上手をつけたら、明日どうなるか分からない。
ただ――すでにまともな思考能力すらとろけてしまった少女は。
「……いいや。たべちゃえ」
押されるように、こらえきれずバッグを開く。
中から顔を見せたのは、色とりどりの液体が詰め込まれた、大量の注射器であった。
「えへぇ……」
まるで宝の山でも検めるみたいに、少女がしまりのない笑みを浮かべた矢先。
――どこかから悲鳴が聞こえた。
「……んん?」
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「あの……泣いてる女の子って、どこですか……?」
枯沼市郊外の廃ビル。すすけた空気と、ヒビだらけの壁。散乱した細かな残骸。
地面に転がる、いくつかのライトの照明。そして窓から差し込む月明かりの他、光源は何もない、荒廃しきった空間――その二階で、一人の少女が男達に取り囲まれていた。
紺のブレザーに赤リボン。プリーツスカートは丈正しく膝下まで。前髪は少し長めのぱっつん。
身長はやや小柄ながら、すっきりと伸びた姿勢と、こわばった表情ながら凛と前を向いた目つきから、妙にその小ささを感じさせない雰囲気を放っている。
「おい……なんかこいつ、あんまりびびってなくねぇか?」
「気にすんな。最近のガキは無菌室育ちだから、大人の恐ろしさを知らねぇんだ」
男達は皆体格がよく、揃って黒服を身に着けていた。とはいえ汚れ一つない少女とは対照的に、服装には汚れやほつれが目立ち、ガラの悪さが見え隠れしている。
「お前……
リーダーらしき男が、顎を引きながら問うた。大抵のガキはこれですくみあがる――そんな確信が込められた風な、威圧するための動作と声音。
「はい……そうです」
少女――椿は一つ頷き、踵をずらしながらあたりを見回す。すかさず男達が、回り込むように左右へ移動したが、椿の視線は、しげしげと誰かを探すようなもので。
「えっと……女の子はどこですか? 悲しい思いをしているのなら、早く――」
「バーカ。こんなとこにいるわきゃねぇだろ!」
一人が、こらえきれないとばかりに吹き出す。つられてもう一人の男も、くつくつと背を丸めて笑い出した。
「まさかここまで疑う事を知らねぇとは思わなかったぜ! ちょっと声かけるだけで、簡単についてくるんだもんなぁ、ハハッ!」
「だが俺らにとっちゃ好都合だ。こいつを人質にすりゃ、たんまり身代金がもらえる」
交わされる不穏な会話に、流石の椿の顔色も、次第に青ざめていった。
「え……えっ? 私、騙されたんですか!?」
「この世の大人はな、みんな嘘つきなんだよ! イイ教訓になったじゃねぇか、ああ?」
「そんな……人助けと嘘をついて誘い込むなんて、卑怯ですよ! け、警察に通報します!」
自分の鞄へ手を突っ込む椿の腕を、横の男が鷲掴みにする。
「勝手な真似すんじゃねぇ!」
「勝手な真似をしているのはあなた達です!」
「な、なんだこいつ……恐怖を感じてねぇのか?」
別の男が、少し気味悪そうに半歩後ずさる。だがリーダーの男は逆に踏み出し。
「ふんっ!」
壁に立てかけていた金属バットを手に取るや、椿の側頭部めがけてフルスイング。
「ぐぎぇっ!?」
目を飛び出させ、血を噴いてブッ飛ぶ椿。取っ組み合っていた男が、ひぇっと呻き。
「お、おい、やりすぎじゃねぇのか……?」
「植物人間になろうが、命があるだけで儲けもんだよ、俺達にとっては」
「誰が上手い事言えってんだよ!」
どっと笑いが起きる中――椿は朦朧とした動きで、打ちっぱなしの床を手で掻き――生まれたての小鹿よりも頼りない遅さで、何とか身を起こそうとしていた。
「ゆ、ゆるせ、ない……こんな……」
口から血と共に洩れるのは、命乞いよりも、恨み言よりも――相手の卑劣を責める言葉。
「とにかく、これでやっと大人しくなったろ。おい、さっそく神廷家に電話を――」
リーダーが肩をすくめ、そう言いかけた矢先であった。
『神廷家』
ぞくりと。部屋中に響き渡るような重苦しい声が、彼らへ覆いかぶさる。
同時に、やっと暖かくなり始めた春先にも関わらず――部屋の温度が急激に低下したかの如く、身震いするほどの寒気が襲う。
「な、なんだ? 今誰か――」
リーダーがバットを構え、あたりを見回す。
『神廷家。二度聞こえたぞ』
「ほ、ほら! 二回も聞こえた! 誰か他にいるぞ……!」
「マジかよ、目撃者か……!?」
他の男達も緊張感をたたえ、それぞれナイフや拳銃を取り出し、警戒へ務めた。
探り合うような、ほんのしばしの沈黙――は、数秒も経たず破られた。
『神廷家。……おお、忌まわしき怪異狩りの、神廷家ェッ!』
今度はビル中に響かんばかりの、怨嗟を含んだ大音声で。
ふらついていた椿も、びくりと身を震わせ、なんとか壁へすがりながら立ち上がる。
「だ、誰ですか……?」
『殺す』
椿の問いに応じたというより、ただの事実確認よろしく、その一言が告げられ。
ライトが照らす物陰の奥から、ずるりと。
白く細長い、筒めいた何かが、這うように――彼らの前へ現れたのである。
「な、なんだありゃ、ホースか……?」
「にしちゃ、太いぜ。それに妙に長い。一体なにガッ!?」
男の一人の声が、不自然に途切れた。ほんの一瞬の出来事であった。
それまでのたくるかのような動作を続けていたその白い管が、突如高速で伸びるや――男めがけ、その腹部を先端で穿ったのである。
「ごぼ、ばっ……!?」
男は得物を取り落とし、半ば反射的に腹に刺さっている管を引き抜こうとするも、吹き出す血で手が滑り、まともにおぼつかない。
そうして、次の瞬間には、その動きもぴたりと止まった。白目をむくと同時に、脳天から管の先端が突き出したのだ。
「な、なな、なんだよこれ……!」
もう一人の男が拳銃を構えた。男の死体はいまだ支配されたみたいに、手足をだらんとさせ、管の動きに合わせて左右へ揺れている。
冒涜的すぎる光景に、引き金が指を叩くのは早かった。
乾いた音が何度か連続する。ぱん、ぱん、と死体の胴体がいくらか弾けたが、それだけであった。
「ちくしょう、なんだよ、なんなんだよこいつ!」
「お、おい、後ろだ!」
リーダーが飛ばした警告は遅かった。
忍び寄っていたのか。対峙しているものとまったく同じ管がもう一本現れるや、拳銃を乱射していた男の首元を、無造作に薙いだのである。
頭部が、重い音を立てて、埃だらけの地面へ転がった。
残されたリーダーは、もはや手に負えない状況と悟ったのか、バットを放り捨て、階段へ走る。だが。
「うわあぁぁっ!?」
階段の前には、先ほどの管が今度はびっしりと、何十本も蠢き、くねり、通せんぼをしていたのだ。
ならばと開けっ放しの窓へ走るが、近づいた途端、下側から同じように大量の管が伸びて来るではないか。
「あ、ああ……ぎゃあああぁっ!」
仲間達と似たような運命を辿った。大量の管に襲われ、八つ裂きにされたのだ。
「そん、な……」
一人残された椿は、喘鳴交じりに後ずさっていた。
――先ほどより意識はハッキリしていたものの、状況は遥かに悪くなっている事に、膝を震えさせる。
『神廷の血族は……根絶やしにする……ゥ……!』
空間を塗りこめんばかりの憎悪を宿した声。呼応するかの如く、床下から、壁から、天井から――ヒビを広げながら、無数の管が這い出て、寄り迫る。
とっさに振った腕をしたたか切り裂かれ、椿は転倒。
すぐ目の前に、鋭利な先端を月明かりに光らせる管がかざされる。
「う、うあぁ……」
『死ね――ェ!』
「父さま……!」
目をつむった刹那であった。
ぴしばしと。異音が鳴る。ぱらぱらと小石が頭の上へ降って来る。
その冷たい感触に、椿は思わずまぶたを開け、とっさに上方へ視線を投げた。
三階とを隔てる天井。ただでさえボロかったそこを、たくさんの管が這い進んで来たものだから――これまたいつの間に亀裂が放射状に広がって、今にも崩れ落ちそうに。
崩れた。大小に爆ぜた瓦礫が、椿の頭上で容赦なくぶちまけられる。
「ひゃあああああ!?」
すっとんきょうに響いた声は、椿のものではなかった。
少女が一人、瓦礫と一緒くたに落ちて来た。
「ごふぇっ!」
腹部へ直撃。少女を受け止める格好となった椿は見事に身体をくの字に折り、今度こそ意識が飛びかける。
『何事だ……? この気配は……』
痛み。耳鳴り。吐き気。ありとあらゆる苦痛的症状が椿を襲う中、謎の声がわずかに困惑を交えた言葉を呟くのが聞こえた。
集まっていた管たちも下がり、周囲で様子を窺うようにしている――。
「いったーい」
殺到する無数の奇怪な管。三人の男の死体。飛び散った鮮血。
真冬の如く冷え込んだ空気。惨劇の満ちる廃ビルの二階。何より椿の身体の上で。
能天気極まりない声を、その少女は発したのである。