一
祇園会の宵々山――水無月五日もそろそろ夕刻になろうとしていた。
安藤は沖田とともに、祇園社にほど近い四条通に面した祇園町会所に向かった。
山南ら病人・怪我人と、山崎ら警備要員の計六名以外の隊士は、昼頃から目立たぬ姿で三々五々、祇園町会所に集結するよう命じられている。
長州勢に気取られぬよう、あくまで極秘にことを運ばねばならない。
安藤と沖田は、まるで宵宮見物か鴨東の花街にでも出かけるかのごとく、通りをぷらぷらと歩いた。
通りに面した格子を外して屏風祭の飾り付けをし、客を迎える町家が多く、道行く人々が豪華な屏風や宝物を観賞しながら楽しんでいる。
「撃剣の胴などの装備は、既に町会所に運び込まれているそうですよ」
沖田は遊郭か物見遊山に出かけるように、楽しげに笑った。
京の蒸し暑さは異常である。
夕涼みの風情でそぞろ歩いていても、汗が頬を伝った。
夕涼みに繰り出した人々は浴衣に団扇姿で、のんびりと四条通を行き交う。
「浅太郎のお手柄ですね。宮部の下僕の口から《市中に火を放って尹宮さまと会津侯を討つ》という計画や、潜入している浪士の数を引き出せて、四月に得られた情報の裏付けが取れましたからね」
頬を上気させながら沖田は道々ずっと喋っている。
安藤も多弁だが、沖田には負ける。
「井筒屋親子も捕縛し、今朝早くには枡屋喜右衛門こと古高俊太郎も捕えて屯所に連行しましたし。三崎屋に戻って療養している浅太郎も、きっと溜飲を下げていますよ。ほんとに良かった」
半死半生だった浅太郎は、駆けつけた重右衛門とお信によって三崎屋に連れ帰られたが、医者も驚く回復力で、床上げも近いと聞いていた。
「前川邸の蔵で厳しく詮議しても古高は口を割らなかったが、枡屋の屋敷内から『過日承り合わせ候とおり、激しき風を機会とす』との密書が見つかったからのお。古高もついに観念して白状しおった。愉快。愉快」
とはいえ……。
直前に舟で積み出されていたため、枡屋の蔵には少量の武器・武具等しか残っておらず、古高らの自白だけでは、裏付けとしては弱かった。
「近藤局長も土方副長も、会津侯に『手勢をお借りしたい』とお願いすることを躊躇しておられたからのお。わしらは『早く手を打たねば京は火の海になる』と、やきもきしておったが」
「拙者も業を煮やしておりました」
沖田が相槌を打つ。
「だけど旨い具合に、馬鹿な浪士どもが仕出かしてくれたわけです」
「大胆にも、わしら新撰組が封印しておいた枡屋の蔵を破って、鉄砲やら甲冑やらを盗み出してくれおったからのお」
安藤が言葉を継いだ。
年齢も性格も全く異なるが、沖田との間には阿吽の呼吸があった。
誰にでも阿吽の呼吸で応じているのではないかと、思わぬでもなかったが、幼い頃から身につけた処世術なのだろう。
「おかげで新撰組幹部の尻に火が着いたことは、却って幸いでしたよねえ」
沖田が話を引き取って旨くまとめた。
新撰組の訴えによって松平容保は、諸藩のほか禁裏守衛総督である一橋慶喜や京都所司代及び町奉行所にも、潜伏浪士捕縛のための出動を要請すると約した。
「あー腕が鳴る。桂めに出会うたら拙者が浅太郎の仇を取ってやります」
逸る心を抑えきれないのか、沖田は人波を縫うようにしながら先を急ぎ始めた。
「会津侯は出兵を夜五ツ時と約されたが。桑名、彦根、松山などに援兵を要請して、果たして刻限までに集結できるものかのお」
四条大橋が見えた。
祇園町会所が近づくに連れ、安藤の足も自然に早くなった。
「拙者はなかなか足並みが揃わないと思っています。組織が大きいと上意下達にも時がかかる。身動きが取りにくいじゃないですか」
沖田は穿った意見を他人事のように漏らした。
鴨川が近くなって涼しい川風を感じ始めた。
「新撰組が広く世に認められる絶好の機会です。近藤局長も土方副長も意気込んでおられます」
一番張り切っているのは沖田だろう。さらに足が速くなった。
「脱走が相次いだゆえ、出動が三十四名とは心許ないのお。この少人数で、多数の藩兵どもとともに働いたとして、果たして手柄が立てられるものか」
そもそも安藤は、今宵の〝掃討作戦〟に期待していなかった。
大山鳴動しても鼠ばかりかも知れない。
「実はね。土方さんには秘策があるんです」
沖田は悪戯っぽい表情を見せて、安藤の耳元に顔を寄せた。
「新撰組のみが刻限の夜五ツより半時(一時間)早く、六ツ半から作戦を開始するんです。諸藩の兵との合流前にさっさと手柄を立ててしまうってわけですよ。どのみち兵の到着は遅れるでしょう。半時も早く出れば、たっぷり探索の時間はあります」
命じられた集合刻限を守らねばならないが、多少早めの出立なら大目に見られるだろう。
狐の土方なら考えそうな小狡い謀だった。
「楽しみだなあ。賊の巣窟を見つけ出したら、拙者はいの一番に斬り込むつもりですよ」
沖田は次第に影を増す四条通の町並みを見ながら、声に力を込めた。
「沖田は〝死番〟を自ら買って出たいのか」
安藤は沖田の言葉に苦笑した。
新撰組では、四名一組で順に〝死番〟が回ってくる。
死番に当たった者は不審な家屋の内へ躊躇なく飛び込まねばならない。
「あの緊張感は堪りませんよ。敵が何処でどう待ち受けているかわからぬ屋内に真っ先に斬り込むなんて、どんな遣い手でも危険きわまりないですからね」
沖田は低くくくくと笑った。
明るく無邪気に人を斬る沖田は、自らの死にも無邪気に明るく接するのだろう。
四条大橋の袂まで来た。
《四条河原の夕涼み》は七日から始まる。
河原には芝居やら見せ物やらの小屋が立ち始めていた。
川の両側に連なる料亭や茶屋も、明日には縁台を並べるのだろうが、今はまだひっそりとしていた。
「安藤さまではございませんか。一年ぶりでございますね」
落ち着いた呼びかけに、安藤は振り返った。
二
声の主は喜三郎だった。
夏物の黒い絽の羽織に縞の小袖姿は〝それなり〟の商家の主に見えた。
喜三郎は安藤に向かって丁重に腰を折った。
鬱陶しい相手に出会ってしまったと、安藤は顎を撫でながら、髭の剃り残しを指先に感じた。
「じゃあ、安藤さん。拙者はお先に」
沖田にとって喜三郎は興味をそそられる相手ではなかったのだろう。
軽く右手を挙げるや、あっさりと去っていった。
「お急ぎですか。お二人とも急ぎ足のようでしたが」
喜三郎は安藤の瞳を見詰めた。
「いや……」
安藤は鴨川の上流に架かる三条大橋に目を逸らした。
『新撰組の幹部が二人して勢い込んで駈けていった。なにか大事らしい』などと、吹聴されるては困る。
人口に膾炙するうちに尾鰭が付いて『新撰組が大挙して不逞浪士討伐に出動した』との正鵠を射た噂が瞬く間に伝播せぬとも限らない。
新撰組の今宵の動きを敵に察知されてはいけない。
「わしらは野暮用に出かけるところじゃ。はは。連れは若いゆえ、心が逸るのじゃろう。やたら急かしおって困ったものよ」
ゆったりした動きで、四条大橋の欄干に手を置いた。
「そうでございましたか。お楽しみのところをお引き留めして申し訳ございません」
喜三郎も並んで欄干に手を掛け、四条河原の中州に目を向けた。
「今年も《四条河原の夕涼み》に小屋掛け致すのか?」
川面を吹く風に、顔に噴き出した汗が引いていく。
「知己の者が小屋掛け致しておりますので、覗きに参っただけでございます。今はまだ江戸住まいでございますが、近々故郷の熊本に戻ろうかと考えておりましてねえ」
喜三郎はしみじみとした静かな口調で答えた。
「熊本なぞという田舎に引っ込んでは、諸国での興行に不便であろうが」
疑問を口にした安藤に、喜三郎は間を置いて沈んだ声で言った。
「不安なご時世ですから、商売もあがったりでございますよ。私どもの興行は大がかりで大枚の金子が掛かりますゆえ、文久二年以来、太夫元としての小屋掛けは致しておりませぬ。これからは、依頼された品を作りながら細々と暮らしてまいります」
喜三郎は寂しげに苦笑しながら話を続けた。
「故郷にいた若い頃は地蔵祭の《つくりもん》で、安本亀八という男と競い合っておりましてねえ」
急に始まった昔語りに『長話になってしまうではないか。やはり足を止めるのではなかった』と安藤は後悔した。
「亀八は早くから上方に出て活躍しておりました。私も鬱勃とした意欲を胸に嘉永元年に上方に参ったものの、資金がありません。小もの細工で生計を立てながら一体づつこつこつと作り貯める、気の遠くなるような毎日でした」
喜三郎は肩頬だけ笑みながら、安藤に顔を向けた。
「安政元年、三十路にして、ようやく初の興行を打てました。大坂は難波新地での『鎮西八郎嶋廻り』は一日の木戸札が千数百枚という大入りでしたから、そりゃあ天にも昇る嬉しさでございました。上方での成功を足がかりに念願の江戸にも進出できて、亀八を見返せました。江戸でも大いにもて囃されて諸国を巡りました。夢のような十年間でございましたが……」
喜三郎はまた鴨川の中州に目を落とした。
中州に設営された小屋は、どれもこれも貧弱で粗末だった。
「大勢の衆が見せ物を楽しめる世の中に、いつ戻るのでしょうね」
遠くに霞む北山に目を転じた喜三郎の問い掛けに、安藤まで物悲しい思いに駆られる。
「安心せえ。国が安らかになるべく、わしらが日夜邁進しておる」
安藤は胸を反らせた。
今宵の作戦の成功が鍵を握るはずだった。
京で長州を叩き、長州征伐に弾みをつける。
隊務として漫然とこなすつもりだったが、性根を入れて一旗揚げねばと、安藤は決意を新たにした。
喜三郎の眼差しには、真剣勝負を繰り返す者特有の鋭さと狂気じみた真摯さが備わっていた。
一剣に生きる剣客と相通じる気迫が、日置流竹林派の弓術に命を懸けた遠い日の記憶を呼び覚ます。
武芸など無縁で無力な町衆に気圧されるとは、どういうわけかと、安藤は汗の引いた首筋をぼりぼり掻いた。
喜三郎に向かって《〝我が子探し〟はもう諦めたのか》と意地悪く聞いてやりたくなった。
だが、それではなおさら藪蛇になって話が長引きそうなので、やめにした。
三
「わが新撰組は三手に別れて四条通から北上致す。二条通から南下する会津の兵とは三条通にて合流する」
気合いのこもった声音で、土方が隊士の組み分けを告げた。
「参るぞ」
夜六ツ半。
近藤の号令一下、新撰組は勇んで祇園町会所をあとにした。
手槍を手にして鎖帷子を着込んだ隊士の姿に、通行人が恐れ戦いて道を空ける。
近藤隊は沖田総司、永倉新八、藤堂平助、谷万太郎らの精鋭を含む十名で、高瀬川沿いの木屋町通を北上した。
残る二隊は井上源三郎、原田左之助、斎藤一ら十一名と、松原忠司の率いる十二名だった。
土方が二隊を統括しつつ、祇園界隈から縄手通の探索に向かっていた。
土方隊ではなく近藤隊に組み入れられた安藤は、急に気がかりになった。
土方は今なお浅葱を憎からず思っているのではないか。
浅葱の弟浅太郎を危ういめに遭わせたとの理由で、心象を悪くしているのではないか。
近藤よりも土方が恐ろしかった。
近藤なら感情が顔に出るので至極わかりやすいが、土方の腹の内は読めない。
突如、何らかの責めを負わされ、腹を切らされぬとも限らない。
木屋町通を黙々と歩く安藤は、高瀬川の瀬音を聞きながら首を左右に振った。
「機転が利く土方殿が二隊を自在に統合・分離しながら、入り組んだ花街の一帯を当たるというわけじゃな」
傍らを歩く沖田に小声でささやいた。
「ははは。安藤さんは艶っぽい茶屋や料亭を探索するほうが良かったんでしょ」
沖田は的外れな冗談を言った。
目星をつけている場所を順に急襲した。
どこで〝当たり目〟が出るかわからない。
不審な動きがあれば、表と裏を固めてから踏み込む。
室内は元より天井裏まで隈なく調べるため一軒につき時間が掛かった。
いつの間にか土佐藩邸の前を遙かに通り過ぎた。
「またも空振りか。いったい敵は何処におる」
近藤は通りに置かれた天水桶を手槍で突いて道端に転がした。
苛立ちがびんびんと安藤ら隊士に伝わった。
はて。近藤殿は、このような御仁であったか。
安藤が壬生浪士組に入隊した当時の近藤は、武骨だが気の良い田舎剣士だった。
無口ながらも隊士と気さくに言葉を交わした。
局長と隊士は同志であり、隊士が近藤の家来という主従関係では決してなかった。
芹沢鴨という目の上のたんこぶを始末し、壬生浪士組は近藤の天下となった。
新撰組と名を変えてからも隊は変貌を続けている。
当初は一途で攘夷に懸命だった近藤も、大きく変わった。
近頃の近藤は新撰組を私物化しているのではないか。
土方が後ろで知恵をつけている。
山南は土方を《悪い狐》呼ばわりしていた。
気楽なつもりで参加した浪士組も居心地が悪くなる一方である。
最近は隊規も厳しくなった。
新撰組内の倒幕系寄りの隊士に厭戦感が広まり、脱走が相次ぐようになったせいで、脱走禁止を定めた壬生浪士組掟が定められ《出奔せしものは見つけ次第、同志にて討ち果たし申すべく》云々と定められた。
もともと隊規などなかったものの、仲間内ばかりの集まりではなくなった以上、必要かも知れなかった。
だが新撰組は、いったいどこへ向かうのか。
しかるべき理由をつければ脱退は可能であるものの、昨年から今年にかけてしみついた贅沢の味を忘れての浪人暮らしにはとうてい戻れなかった。
この先、新撰組はもっと大きくなる。
食らいついておれば、今よりさらに良い目が見られる。
ゆくゆくは、島原の苦界であえぐ野路菊を見受けしてやりたかった。
安藤も幹部の端くれである。
ほかの幹部のように〝休息所〟という名目の妾宅を持ち、野路菊を囲ってやりたいとの欲が、新撰組から離れさせない。
彦根井伊屋敷の黒い影を高瀬川の川向こうに眺めながら、ついに三条通まで到達した。
時刻は四ツ時を過ぎた。
十町もない距離に一時半も費やした。
成果がまったくないだけに隊士の疲労の色は濃かった。
「とうとう空手のまま、ここまで来てしまいましたねえ」
沖田がいかにも残念そうに近藤に語りかけた。
土方の率いる二隊はまだ鴨東を探索している模様で影も形も見えない。
「あと一カ所を残すのみか」
近藤がうめいた。
受け持った不審箇所は、三条小橋の旅籠池田屋しか残っていなかった。
「土方さんの隊もだめみたいですね。目下のところ連絡もないですし」
沖田は悔しげに足下の小石を蹴った。
「会津侯に申し訳が立たぬ。拙者は腹を切る」
近藤は、いかつい顔に小さく窪んだ目を精一杯見開いて、見得を切った。
会津侯が信頼を置く近藤の切腹を許すはずもないが、心意気はまんざら大袈裟ではなかった。
長州毛利屋敷の三町ほど南に位置する池田屋は、長州藩の定宿で、店の看板にも藩紋を掲げていた。
あまりにも怪しい場所ゆえ、却って鼠の一匹もおらぬのではないか。
見込みは薄かったが、残り一カ所に望みを託すしかなかった。
「まずは拙者が、一足先に様子を見て参ります」
安藤は三条小橋の手前で近藤隊を待機させ、池田屋を目指して単身で駈け出した。
三条大橋は、東海道五十三次の西の起点である。
三条通には旅籠が何軒も軒を連ねて建ち並んでいた。
安藤は三条小橋から三軒目の池田屋の前を、さりげなく通り過ぎる。
大戸は既に下ろされて間口全体が閉め切られていた。
池田屋の中を窺うべくもない。
見上げた二階も暗かった。
落胆しながらぐるりと裏手に回った。
京の町家は鰻の寝床と言われ、間口は狭いが奥にやたら長い。
裏通りから塀越に見上げた二階の奥座敷は明々と灯りが灯されていた。
影が障子に映ってゆらゆら揺れ、大勢の人の気配がある。
これは当たりじゃ。
古高を召し捕られたゆえ浪士どもが慌てて会合を開いておるに違いない。
新撰組が大手柄を立てれば、土方も、浅太郎を利用しての探索の功績を認めるに違いなかった。
当分はわしの地位も安泰じゃと、安藤は小躍りした。
「ご注進。ご注進」
息せき切って、待ち構える近藤まで報告に走った。
四
「少人数でこそこそ寄り集まっているとは、どうあっても思えませぬ。多数だからこそ気が大きくなり、明々と灯火を灯して声高に論じておるのではありますまいか。我ら十名では、とても足りませぬ。ここは内外を固めながら土方副長の到着を待つことが得策かと」
安藤は早口で近藤に進言した。
「馬鹿者。臆したか」
近藤は肩を怒らせて一喝した。
「こんな小さな宿に、大勢が潜んでおるとは思えないですよ」
子供じみた目を輝かせて、沖田も近藤の肩を持った。
「新撰組に柔な者などおらぬ。不逞の輩がいかにおろうとモノともするものではない」
永倉も威勢がいい。
「おっつけ土方副長も来られるでしょう。ほんの暫時、待つが得策かと」
重ねて自重を説く安藤に、永倉が斬り掛からんばかりの剣幕で応じた。
「くどい。土方副長の到着が間もなくゆえ、踏み込むのじゃ」
「大丈夫ですよ。安藤さん。安藤さんは何事にも慎重過ぎますよ」
沖田も聞く耳を持たぬふうで鼻息も荒い。
「わしと総司、永倉、藤堂で表戸から参る」
近藤はすぐさま兵員配置を決定した。
「表口を谷万太郎、浅野薫、武田観柳斎の三名が固め、安藤は奥沢、新田とともに裏口で番をせえ」
腰抜けと判断された安藤は、悔しい気持ちと同時に、斬り込み隊に配置されずに済んで安堵した。
斬り込み隊と表部隊は即座に抜刀した。
谷は得意の槍を構える。
「では、我らは直ちに裏へ」
安藤は奥沢栄助、新田革左衞門を伴って池田屋裏手へと駈け出した。
裏の新道へ回ると、塀の前で、奥沢と新田に配置を指図した。
抜刀して油断無く腰を落とし、身構える。
奥沢、新田の肩に力が入り過ぎていると気付いた。
当然ながら、斬り込み隊には精鋭が揃えられた。
表から逃れ出る者が多数と見て、次善の三名を三条通側に配置し、裏手には屑を並べたと考えられる。
裏手では、安藤がひとり奮闘するしかない。
「一名たりとも逃すまいぞ」
緊張で固くなった奥沢と新田に声を掛けたが、両名の返事は妙にうわずっていた。
奥沢も新田も目立たぬ平隊士だった。
撃剣の腕前もさほどではない。
新撰組に名を連ねる以上、人を斬った験しはあるだろうが、少ないに違いなかった。
実際の戦闘となれば豊富な経験が物を言う。
いかに撃剣の腕が立とうと、竹刀や木刀での試合と実戦ではわけが違う。
「はは。頼むから俺を敵と間違うなよ」
冗談半分で奥沢と新田に注意した。
入り乱れての戦闘となると、初心者は誇張ではなく本当に目の前が真っ暗となり、視野が極端に狭くなる。
刀を振り回すうちに同士討ちさえしかねなかった。
若い頃の安藤にも、夢中で剣を遣ううちに気がつけば相手を倒していた経験があった。
場数を踏んでいても、いよいよとなれば、手の内にびっしょりと汗を掻く。
袴に掌をすりつけて拭った。
裏手からでは表側の様子は皆目わからなかった。
二階は相変わらず何事か議論している様子である。
一瞬のはずが長い時間に思われた。
今時分は、近藤が戸を開けさせて踏み込んだところだろうか。
旅籠の探索の折りの決まり文句『今宵、旅宿御改め』との近藤の一声も、裏にいては聞こえない。
浪士たちの声高な叫びや物音に掻き消される。
やはり敵が多すぎる。
近藤らは二階の様子を見ていないから、甘く見ている。
ごくりと生唾を飲み込んだ、そのとき。
屋内で物音が響いた。
階段をどかどかと駆け上がる音とともに「二階のお客さま。お宿改めどす」の叫びが上がったと思うと、語尾は悲鳴に変わった。
始まったぞ。
沖田、死番を全うしろよ。
大刀の柄を力一杯握り締めていると気付き、わしらしゅうもない。奥沢や新田を笑えぬではないか、と意識して肩の力を抜いた。
階段を駆け上る足音。
怒声と何かが倒れる物音。
たちまち池田屋全体が阿鼻叫喚の戦場と化した。
「我らも参るぞ」
裏戸を体当たりで壊すと池田屋の庭に突入した。
奥沢、新田も続く。
二階の障子が蹴破られた。
抜刀した浪士が飛び降りてくる。
奥沢が、呆気なく袈裟懸けに両断された。
五
一階の雨戸が蹴り倒された。
座敷の天井からぶら下げられた〝八間〟の灯りで、一階の内部が見えた。
屋内で敵味方が入り乱れて死闘を演じている。
目を凝らした。
一階奥の座敷には近藤の姿しか見えなかった。
沖田、永倉、藤堂は動向すらわからない。
近藤局長の誤算も甚だしい。
裏庭に逃れ出る浪士の数は予想外に多かった。
これはたまらぬ。
二階の手摺りを乗り越えて飛び降りた浪士と、一階から逃れ出た浪士を相手に、安藤と新田は奮戦した。
「新撰組は少数じゃ。血祭りに挙げてくれる」
慌てて屋外に逃れた浪士たちにも状況が読めたのだろう。
味方が多勢と知って意気盛んである。
安藤らに向かって無二無三に斬り掛かってきた。
気付けば新田は松の木に凭れ掛かるようにして庭の片隅にうずくまっていた。
「新田、大丈夫か」
無駄と知りつつ声を振り絞った。
生死は判別しがたいが、戦闘不能であるには違いなかった。
庭の設えの間を移動しながら、敵の隙を窺って攻撃した。
安藤は稽古着の下に鎖帷子を着用している。
滅多な斬撃では掠り傷も負わない。
てこずる浪士に太刀を振り下ろし、撫で切り、突く。
まるで悪夢のなかで『永遠に終わらぬ鬼ごっこ』をしている心地だった。
浪士の乱刃を掻い潜っての斬撃なので、腰を据えて斬るわけではない。
浪士どもに手傷を負わせるものの、致命傷とならない。
精根尽き果てたら最後だった。
一人では手に余る。
ひとまず塀の外へ退却しようと、破られた塀から新道へ足を向けたときだった。
「一歩も出さぬ」
庭に飛び出した二名の敵を追って近藤が庭に駆け下りた。
「近藤じゃ。討ち取ればこれ以上の手柄はないぞ」
安藤と戦闘中だった浪士たちも加わって近藤に殺到した。
死にもの狂いで白刃を振り回す。
さすがに近藤は強かった。
日頃から『拙者の愛刀は《虎徹》である』と豪語しているだけに、白く光る刀身は刃こぼれ一つなく、近藤の力強い腕で唸りを上げる。
頭をかち割られた若い浪士が棒立ちのまま、安藤のすぐ前に倒れた。
浪士どもはたちまち逃げ腰になった。
「安藤。ここはわしに任せよ」
近藤は短く指示した。
庭は狭い。二人して動き回れば、同士討ちしかねなかった。
「承知つかまつった」
池田屋のうちに走った。
縁側に躍り上がるや奥座敷に足を踏み入れる。
ようやく同志の持ち場が了知できた。
一階の台所付近では永倉が奮戦していた。
中庭では藤堂が敵と対峙している。
二階は沖田一人ではないか。
近藤が無傷なくらいだから沖田も当然、無事だろうと思いながらも、奇妙な胸騒ぎが波紋のように広がった。
狭い裏階段から急いで二階へ駆け上がった。
控えの間に踏み込む。
二階の八畳の間で戦う沖田の姿が目に入った。
既に二名の浪士が斬り伏せられ、畳の上は血の海だった。
事切れてぴくりとも動かぬ遺骸の上を跨ぎ、あるいは飛び越えながらの乱戦が展開されている。
よく見極めれば、浪士二名は大きく肩で息をして足下もふらふらだった。
動きも鈍っている。
沖田を取り囲みながらも間合いに誰一人として入ろうとしない。
敵は沖田を恐れて右往左往しているだけではないか。
心のうちに余裕が生まれた安藤は息を整えた。
流石の沖田も肩で息をしている。
双方、疲労の極みに達したのか、ぴたりと動きが止まって睨み合う。
立ち入る隙がないような緊張が場を支配していた。
張り詰めた糸が切れた刹那が勝負だった。
勝負は沖田の楽勝に思えた。
突如、場が動いた。
堪えきれなくなったのだろう。
浪士が獣じみた叫びとともに沖田に殺到した。
決まった。
沖田と雑魚では〝役者〟が違う。
沖田が難なく斬り伏せると思った瞬間……。
支えをなくした人形のように、沖田の身体がゆっくりと頽れ、畳に突っ伏した。
「総司。危ない!」
安藤は沖田を下の名で呼んでいた。
間に合わない。
総司が斬られる。
沖田を庇う体勢で浪士との間に割って入った。
六
白刃が降りかかる。
沖田の背中を力任せに足で蹴って部屋の隅まで転がした。
瞬間。
痛みが安藤を襲った。
左の膝頭を横に払われていた。
「総司。起きろ!」
庇いながら肩を揺するが、意識を失ったままの沖田は動かない。
極度の疲労で貧血を起こしたのか。
近藤が全幅の信頼を置く戦力のはずが、足手まといではないかと、心の中で悪態をつきながら、勢いづいた浪士と斬り合った。
走るたびに膝の傷が疼く。
気付くと、斬り込まれた右手の人差し指と中指の間から血が流れ出している。
鎖帷子とて、まともに突かれれば最後だった。
首はむろんだが、頭を狙われて額の鉢金を割られれば無事では済まない。
必死に暴れ回った。
だが、沖田を守りながらの動きは自ずと制限される。
思うように戦えない。
刀の刃筋を通すなど思いも寄らなかった。
刀が流れるばかりである。
敵の手傷も増えるが、確実に安藤の傷も増えていった。
池田屋のあちこちで間断なく、怒声や悲鳴、物音が続いていた。
一階で近藤、永倉、藤堂が手こずっている間は、助勢は現れない。
やはり突入に慎重になるべきだった。
土方隊が到着する気配など、まるでないではないか。
土方は何をしているのか。
どれぐらい奮戦したのか。
足がふらつき息が苦しくなった。
「し、しまった」
刃こぼれで鋸のようになっていた刀が、敵の刃に当たった途端、ポキリと折れた。
「好機到来。糞親父を仕留めるぞ」
敵はぴたりと動きを止めた。
息を整えながら安藤と沖田を扇形に取り囲む。
間合いが縮まる。
狙いを定め、力を溜めて突きに来るつもりだろう。
鋭い切っ先が安藤に向けられた。
じりじりと包囲が狭まる。
安藤と浪士たちは息を詰めて睨み合った。
目の前がすっと暗くなり、床柱に手をついた。
わしが斬られれば総司もやられる。
二人ともこれまでかと、覚悟を決めたそのとき。
表階段側から躍り込んだ人影があった。
たちまち浪士の包囲陣が乱れて、無様に右往左往する。
「新手か」
浪士の一人が破れかぶれの体(てい)で、逆光になった人影に殺到した。
白刃が灯火に一閃する。
血煙を上げてのけぞったのは、浪士だった。
「安藤殿。ご無事ですか」
葛山の必死の形相が安藤の霞む目にぼんやりと映った。
間を置いて裏階段からも井上源三郎と平隊士が姿を見せた。
待ちわびた土方隊の到着で、階下の騒擾が一段と激しさを増した。
「かくなるうえは逃げるにしかず」
浪士の一人が廊下の手摺りを越えて中庭に飛び降りた。
断末魔の鋭い悲鳴が上がった。
二階の床が抜けて残る浪士が一階に転落した。
床の裂け目から、武田が斬り伏せるさまが、はっきりと見て取れた。
「捕縛いたせ。これよりは斬り捨てず捕縛せよ!」
近藤の甲高い声が、斬り捨てから捕縛制圧への方針転換を力強く告げた。
沖田が井上に抱き起こされ、意識を取り戻したさまを目の隅に見ながら、へなへなと座り込んだ。
今になって手傷がぴりぴり痛み出した。
激しく痛む膝頭を見ると、大きく肉が削ぎ取られていた。
「葛山がもう少し遅ければ、わしは死んでおったぞ」
かいがいしく傷口を縛ってくれる葛山に、素直に感謝の言葉を投げかけた。