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第6話   浅太郎の危機

               一 


 浅葱から浅太郎へ、次に浅葱へと目まぐるしく変化を繰り返した浅太郎は、皐月も終わりになって再び体を取り戻した。


 今朝も早朝から前川邸屯所を訪ね、文武館で沖田に一対一の稽古をつけて貰った。


 足腰が立たぬほどの激しい稽古のあと、心地よい充実感に浸りながら、沖田とともに八木邸の井戸端に来た。

 冗談を言い合えば自然に笑い声がこぼれる。

 二人して汗にまみれた体を拭くために諸肌を脱いだ。


 沖田の、鍛え上げられた鋼のような体に浮いた玉の汗が、朝の光を浴びてきらきら輝いている。

 久々に見た沖田の成熟した肉体が眩しかった。


 浅太郎は、からからと小気味よい音をさせながら、釣瓶の綱を力一杯、ぐいぐい手繰った。


「二十日の夜なんだけど……」

 沖田は浅太郎に顔を向けた。

 鼻が得意げにうごめく。


「え。なんどすえ」

 期待を込めて聞き返した。


「長州に荷担していた大坂西町奉行所の与力でね。内山彦次郎という奴がいたんだけど。長州の意を受けて交易のために灯油や篠巻きの類を買い占めたり、米相場の暴騰にも関与していた悪党でね」

 沖田は得々と語り始めた。


「探索方の山崎さんが大坂まで出張って探ったところ、ようやく確証を得たので、我々が天神橋で天誅を加えたんだ。で……」

 一度ごほっと咳き込んでから、呼吸を整えて一気に捲し立てる。


「内山だって馬鹿じゃない。不穏な動きを察知して、駕籠の脇に護衛の剣客と力士を二人づつつけていた。けどね。こちらは土方副長に原田さん、島田さんと役者が揃ってるんだ。ふふ。討ち漏らしゃしないさ」

 沖田の身振りを交えた手柄話に、浅太郎は手に汗を握る。


「首を取る前に別の同心が通りかかったもんだから、引き揚げたんだけどね。今橋の欄干に斬奸状を張り出してやったよ。愉快だったなあ」

 沖田は楽しげに語りながら手拭いをすすぎ、ぎゅっと固く絞った。 


「じゃあ拙者は先に戻っておる。また明日も稽古をみっちりつけてやるから、そのつもりでな」

 爽やかな一陣の風のごとく、沖田は軽やかに身を翻して立ち去った。


 今朝は空気がからりとして気持ちがいい。

 八木のおばさんに朝飯を食わせてもらったら一人で素振りにでも精を出すかと考えながら、なおも体を念入りにごしごし拭いた。


 腕は上がっても体が変わらないのは、浅葱になっている間、稽古ができないせいに違いない。

 今なお細い腕を血の出るほど強く手拭いで擦った。  


 朝の稽古のため、隊士たちが文武館に三々五々集まり始め、辺りが騒がしくなった。


 なぜ浅葱とくるくる入れ替わるのか。

 重右衛門もお信も口を揃えて〝病〟と言うものの、医者に見せぬまま世間を欺いてきた。


 二人して、我が子の体がどちらかに決まる時期を気長に待っているように思えたが、一生このままなら、どうするつもりだろう。

 浅太郎は釣瓶の桶を思い切り井戸に放り込んだ。


 桶が、井戸の壁に当たる音を響かせながら、深い底にある水面に届く。


 浅葱に体を使われている間は、見聞きするだけで何もできないから窮屈で仕方がない。

 二人で一つの体なのだから、自分の一生は他人の半分しかない。


 浅葱が疎ましくてならない。

 今このときも、浅太郎の体という檻の中でじっと出番を待っている。


「浅葱がおらんようにならん限り、なんぼ頑張ったかて新撰組の一員になるのは夢のまた夢やがな」

 独り言を呟きながら綱を勢いよくからからと引き揚げていたとき……。



               二



 背後に、じっとりねっとりとした視線を感じた浅太郎は、またかと、小さく舌打ちした。


 振り向くと案の定、副長助勤の武田観柳斎がでれでれと鼻の下を伸ばして立っていた。


「浅太郎は天賦の才があるゆえ、一年もせぬ間に沖田氏を追い抜くのではないかの」

 武田は長身を折り曲げるようにしながら、浅太郎の裸足の足の先から汗で光る黒髪までを舐め回すようにじろじろ眺めた。


 浅太郎はまだ拭きらない体に稽古着の袖を通し、胸元をきっちり重ね合わせた。


「お世辞を言わはっても何も出まへんえ。うちには沖田さまみたいに〝三段突き〟を編み出す天賦の才なんか皆目おへんさかい」

 倍以上の年長者である武田に向かって、わざと生意気な態度で応えた。


 新撰組内に、浅太郎のように男でも女でもない美形などいない。勢い浅太郎を見つめる武田の眼差しはねちっこく、目尻は下がりっぱなしである。

 冷たく当たればなおさら執着されるので、どうにも手の施しようがない。


 武田は、近藤の昔からの知己との理由で優遇されているが、気味が悪くいけすかない男だった。

 壬生浪士組時代からの生え抜きではないが、試衛館はもとより多摩の一門とも深く交流があった人物で、昨秋の入隊直後に副長助勤に取り立てられた。

 近藤に軍学の素養を認められ、師範として隊士の調練を行うなど、隊内で幅を効かせている。


 武田信玄の流儀など、古くさい軍学が今の世で何の役に立つのか。

 軍学の何たるかを知る由もない浅太郎にも、武田の作法の古色蒼然さくらいはわかる。


 壬生寺境内でときおり行われる調練の場で、武田は甲高い声で威張り散らす。

 近藤は目を細めて満足げに眺めているが、柔軟な考えの持ち主で、砲術の訓練を推進する土方は終始苦々しい顔で、いつのまにかいなくなる。


「して今日は、これからどう致すのじゃ。稽古で腹が空いたろう。わしはこれより市中見廻りにでかけるゆえ、浅太郎も……」

 子供と侮って、食べ物で釣ろうとする武田の言葉は、

「武田先生。近藤局長がお呼びでござる」

 安藤の一声でぶった切られた。


「おお、そうか」

 武田はつるりと坊主頭を撫でながら相好を崩した。


「近藤殿はわしを頼りにし過ぎじゃ。一存で決めかねる問題があればすぐ呼ばれるので忙しゅうて困る」

 武田はいそいそと屯所に帰営した。


「蠅を追い払ってやったぞ。感謝せい」

 安藤は浅太郎に向かってにやりと黄色い歯を見せた。


 餅つきの一件以来、安藤さまは介錯直後だったのに、まるでいつもの調子だった。案外、肝の据わったおかただと、見直すようになっていた。


「少し頼みたい儀があってな。そこまで同道してもらいたいのだが」

 人なつっこい笑みを浮かべた安藤は、浅太郎の肩に気安く手を回してきた。



               三



 安藤に従って八木邸と南部亀次郎邸とに接する壬生寺の、坊城通に面した表門を潜った。

 土方が大砲の訓練を行えば、轟音や振動で大変な惨状になる壬生寺の境内だが、早朝である今はひっそりと静まり返り、鳩がさかんに餌をついばんでいる。


 表門を入ってすぐ右に建つ一夜天神堂の前で、安藤が足を止めた。

 一夜天神堂は菅原道真が流罪になったおりに一夜を明かしたという故事が残っている、ささやかな堂だった。


「浅太郎は、臥せっておって壬生へ来なかったゆえ、詳しい事情を知らぬと思うがの。新撰組を取り巻く事情は、どんどん逼迫しておる」

 安藤は背を反らして咳払いした。


「いよいよ長州征伐という大事を前に、我々新撰組隊士も『死をも辞さず』とばかりに張り切っておったのじゃが……。水戸浪士ら天狗党の者どもが筑波山で挙兵しおったものでな。公方様は東帰され、残念ながら長州征伐どころではのうなった」

 講釈師のように、手にした扇子で一夜天神堂の柱を二、三度叩いて調子をとった。


「先月半ばに木屋町通り松原で起こった火災を存じておるか」

 浅太郎の顔の前に扇子を突き出す。


「わしら新撰組隊士が火事場の整理で向かうたらの。往来を妨げる不審な武士が二名おった。二名のうち一名を捕縛して問い質したところ、長州藩邸の門番じゃと言い張るのじゃが、二本差しで、着ておる衣服も門番のものとも思えぬ品ゆえ、怪しんで拷問にかけたところ、驚くべき情報が得られたのじゃ」

 話に釣られ、浅太郎は安藤のほうに顔を突き出した。


「なんと! 長州人が既に京地へ二百五十人も入り込みおる、というのじゃから、驚いてしもうた」

 芒で切ったような目を思い切り見開きながら、安藤はぽんと扇子で膝を打った。


「そないに仰山の長州人が潜入してるて、初耳どす。三月に水戸藩士に紛れて入京した長州人が四名おって、四名のうち水戸藩ゆかりの医者のせがれだけ捕縛されたそうどすが」

 事態の由々しさに浅太郎はさらに身を乗り出した。 


「早々に市中探索を開始したのじゃが……」


 諸士調役兼監察の島田魁、浅野藤太郎、山崎烝、川島勝司などの腕の見せ所だった。

 危険に身を晒して情報を集める密偵は、腕が立つうえに機転が利かねばならない。

 度胸と冷静さも必要である。

 話を聞くだけでむずむずしてきた。


 餌を啄んでいた鳩が一斉に飛び立ち、大空を旋回し始めた。


 黙りこくった浅太郎の表情を窺うように、安藤がじっと見つめてきた。


「腕を上げたことじゃし、そのう……。浅太郎も一働きしたいとは思わぬか」

 言葉を句切りながらも意味ありげに切り出した。


「探索を手伝うちゅうことどすか」

 浅太郎の心の糸が緊張で張り詰め、言葉が震えた。


「わしから土方殿に既に話は通してあるゆえ、浅太郎の決意しだいじゃ。応じるとあらば、子細は山崎氏から聞かせよう。おぬしならばおなごの姿で探索もできよう」

 期待を込めた眼差しで、浅太郎の目の奥を覗き込んできた。


 浅葱と二分して過ごす一生が楽しいはずがない。

 この先、浅葱が浅太郎に勝って、体を独り占めするかも知れない。


 先行きが見えないなら、いっそ太く短かく、刹那に生きるも面白い。 

 隊士になれずとも大きな手柄は立てられる。


 断る理由などなかった。


「うちで御役に立つんやったら……」

 言いかけてふと一夜天神堂の横手に目をやると、菰を纏った物乞いが眠っていた。


 大柄な物乞いは、つと顔を上げた。


「あっ。やまざ……」

 言いかけて慌てて口を噤んだ。


「こりゃあいかんな。すぐに動揺するようでは間諜など務まらんぞ」

 安藤は愉快げに浅太郎の背中をどやしつけた。


「山崎氏はこれよりまた市中探索にでかける忙しい身じゃが、浅太郎の覚悟のほどを我が目で確かめるべく、ここで待っておったのじゃ」

 山崎に目配せし、山崎は静かに頷いた。


「けど……。監察いうたら、あの葛山さまも監察の任務に就いてはるのやおへんか」

 浅太郎は懸念を口にした。


 葛山と協力して働くなどできない。 


「不服か? 葛山は虚無僧をしておったゆえ京の地理にも詳しい。虚無僧のなりで天蓋を被れば探索に好都合じゃ。監察にうってつけゆえわしが土方殿に推挙致したのじゃが」

「けど、うちは……」


 依然として仇敵だとの思いは変わっていなかった。


「探索方の頭を務める山崎氏に繋ぎを取ればよいではないか。島田や浅野、川島もおる」

 安藤の言葉に、浅太郎は不承不承で首を縦に振った。


「山崎氏に要領を聞いて指図に従えばよい。なあに危ない目には遭わさぬゆえ安心せえ。探索方の目の届く範囲で働いてくれればよい。いざとなれば、すぐ救いにまいる」

 安藤は浅太郎の背中をばんばん平手で叩いた。


 子供の使いのような簡単な任務ならお断りだ。

 自分の頭で考えて行動するのみである。

 危ない橋ほど渡り甲斐があって面白い。


 心の内で反論しながら「ほな安心どすな」と適当な相槌を打った。 



              四



 コンコンチキチン、コンチキチン。

 祇園囃子の稽古をする鉦や笛、太鼓の音がそこここの通りから賑々しく聞こえる。

 町会所の軒には祭提灯が華やかに揺れる。

 中京や下京の山鉾町では、俗にいう屏風祭――宵宮飾りを催すために、自慢の美麗な屏風絵や骨董品の類を店の間に並べていた。


 祇園会を間近に控えて、せわしなくも心が浮き立つ京の町であるが、水面下では不穏な動きが胎動していた。


 京の六花街のうち島原界隈では顔を知られているが、上七軒をはじめとして祇園甲部、先斗町、宮川町、祇園東の五つの花街で知る者はいなかった。


 山崎の指示のもと、芸妓・舞妓や茶屋の女に扮して探索を続けた。

 だがすぐに成果が得られるわけもない。


 昨日からは浮浪の孤児に身をやつし、木屋町通四条の真町にある枡屋の店先が見える路地でうずくまっていた。


 新撰組が目をつけている場所は二十数カ所もあって、なかなか絞り込めなかった。

 ここで懸命に見張っていても、手柄を立てられるか否かは皆目わからない。

 緊張を持続しながらじっと待つ任務は、思っていたより骨が折れた。


 薪炭商だが古物も扱う枡屋には、武家の出入りが多かった。

 昨日も何度か長州人と思われる武家をつけてみたものの、徒労に終わった。


 枡屋の七代目喜右衛門は文久二年に、相続で揉めに揉めた曰く付きの枡屋を継いだ。

 三十六才にもなるが妻帯せず、下男を二人雇っている割に商売に不熱心である。

 近隣の付き合いも避けている様子も不自然だった。    


 喜右衛門は怪しい人物には違いないが、新撰組が大勢で踏み込むほど大物かどうかはわからなかった。


 四条小橋にほど近い枡屋の門前には、高瀬川が流れている。

 筑前福岡黒田家の御用達を掲げる枡屋の邸宅の北には船入りがあって、以前は手広く商いをしてきたさまが伺えた。


 店のうちは暗く、動きが全くなかった。


 菰を被って眠るふりをしていると、いつしか瞼が下りかける。

 浅太郎は自分の頬を平手でぴしゃぴしゃ叩いた。


 枡屋の店先の提灯に灯が灯るには、まだ間があった。

 京の蒸し暑さを紛らわすように、路地を涼やかな風が通り抜ける。

 打ち水をされた通りはあらかた乾いて、風が砂塵を舞い上げる。


 目を細めて透かし見た通りの向こうから、すらりとした虚無僧が歩いてきた。

 葛山武八郎だ。

 思わず舌打ちしたが……。


 虚無僧は浅太郎が潜む路地の前でぴたりと足を止めた。


「安藤殿に利用されてはいかん」

 告げた低い声は、まさしく葛山だった。


 浅太郎は聞こえぬふりで菰を被り直した。


 葛山は路地の脇に立つ仕舞た屋の礎石に腰を落ち着けるや、切れた鼻緒を直す振りを演じ始めた。


「返事はよい。そのまま聞いて欲しい。安藤殿は副長助勤の地位を失わぬかと、極度に恐れておる。山南さまの例もあるゆえ」

 天蓋に隠された顔は伺えないが、葛山の口調は重く暗かった。


 浅太郎は、小柄で穏やかな山南の、学者のような風貌を思い浮かべた。


 文武両道に優れた山南敬助は、試衛館時代から近藤の信任が厚く、土方より上席の扱いだった。

 ところが、一月の在坂中に、高麗橋の呉服屋岩城升屋へ乱入した浪士を討ち取った際、刀が折れて深手を負った。

 その後、四月頃まで他所で養生していたが、左手が使い物にならなくなり、この頃では影が薄くなっていた。


 組織は非情である。

 過去は華やかでも、役に立たなくなった者は隅に追いやられる。



 安藤の場合、役立たずというだけではない。

 土方は、安藤が三崎屋で小遣いをせびってることを知っている。

 三崎屋以外でも悪行を重ねているだろう。

 安藤が近藤や土方を恐れる気持ちは重々わかった。


 葛山は『安藤は土方に取り入って点数を稼ぐため浅太郎を利用している』と言いたいらしいが、余計なお節介である。


「そないなこと百も承知どす」

 馬鹿にされたと思うと、浅太郎の語気は思わず知らず強くなった。


「浅葱が聞いたときは返事しはらんかったけど、やっぱし如月が死んだ責任は葛山さまにあるのどすな」

 浅太郎の口から浅葱の名が出て、葛山は一瞬だけ沈黙した。

 鼻緒を直していた手が止まる。


「浅葱殿を誤解しておった。如月殿を憐れと思えばこその詰問であったに」

 天蓋のうちから漏れる声は、血の通った人間らしさを滲ませた。


「拙者は……」

 袈裟が触れ合って、しゃりんと小さな音を立てた。


 浅太郎は息を詰めて葛山の次の言葉を待った。だが……。


「責めはすべて拙者にある」

 相も変わらぬ台詞の繰り返しに、浅太郎の堪忍袋の緒が切れた。


「もう行っとくれやす。探索の邪魔どすえ」

 浅太郎の剣幕にさすがに腹を立てたらしい。

「我が身を大切にせえ。おもしろ半分で首を突っ込めば、痛い目どころではすまぬ」

 葛山は捨て台詞を残して立ち去っていった。



               五



 夜も更けてから交替の見張りがやってきて、張り番から解放された。

 浅太郎は高瀬川対岸の堤に立つ、名もない辻堂まで戻った。


 いつ誰が建てたかわからない辻堂は、額に書かれた文字も年月に消し去られて、参る者とて皆無のまま朽ち果てようとしていた。

 隠していた品々を、木の茂みから取り出した。 


 川の水で汚れた顔をごしごし洗うと、葛籠から大原女(おはらめ)の衣装を取り出して着替え始めた。

 茂みの奥には、菰に包んだ仕込み杖や短刀まで準備万端を整えている。


 山城国大原から京に薪を売りにやってくる大原女は、独特の風情有る姿をしている。

 浅太郎は紺の筒袖に白脛巾を前で合わせ、二本鼻緒の草鞋を履いて手拭を被った。

 島田髷に結っていないので、手拭いから見える髪を島田に見えるように工夫して整えた。


 薪を頭上に載せれば立派な大原女だった。

 衣装が替われば気分も一新し、またも活力が漲ってきた。


 夜が明けたら京の町中を探索するか。

 竹筒の水で喉を潤して、交替の密偵から貰った握り飯をほおばった。


 高瀬川の対岸には枡屋の邸宅や蔵が黒々と建ち並び、目の前には枡屋の船入りが見える。

 枡屋から目を離した直後に何かが起こるかも知れない、と思えば、立ち去りがたかった。 


 蚊さえ我慢すれば、かなり涼しい。

 ここで朝を待とうと考えた浅太郎は、川辺に菰を敷いてごろりと寝転がった。


 見上げれば満天の星空だった。

 川の瀬音が心地よい。

 川風に吹かれてうとうとし始めた頃だった。

 水の流れだけではない音に、浅太郎はむくりと起き上がった。


 闇を透かせて川面を見た。

 岸に沿って植えられた柳が、黒い触手をひらひらさせてそよいでいる。


 石垣の間を流れる水路から高瀬川に向かって、滑り出すように漕ぎ出す舟の姿があった。

 灯りも点していない。

 三艘連なって川を下る舟には筵が被せられており、積み荷が何であるか皆目わからなかった。


 心ノ臓が火事場の半鐘のごとく騒ぎ出す。

 走っても舟には追いつけない。


 他にも動きがあるに違いない。

 辻堂に駆け戻ると、菰に巻かれた仕込み杖を茂みの奥から取り出した。

 これから祭にでも出かけるように心が浮き立つ。


 仕込みの刀身は一尺六寸の直刀だった。

 軽い刀身なので相手に深手を負わせられないが無腰よりはよほど心強かった。


 安藤らは浅太郎をただの見張り番としか認識していないから、刀剣の類を渡されていない。

 仕込み杖は『蘭学の高い書物を買うよってに』と嘘を吐き、重右衛門から金を引き出して購った。


 遠ざかる舟を横目に、高瀬川の対岸に駆け戻った浅太郎は、裏木戸の辺りの気配に気付いた。

 商人風体が二人、武家が三人、裏木戸からぞろりと姿を現した。


「ご苦労はんどした。ほなら……さまによろしゅう」

 声や背格好から見て、商人らしい身のこなしで頭を下げているのは枡屋喜右衛門だった。

 隣に立つ男は、枡屋の裏借屋の店子である大高又次郎である。


 具足師を生業とする大高は、昨年八月に起こった天誅組の乱に関わる人物として公儀に把握され、動向を監視されていた。

 大高は、もともと河原町長州屋敷に住み込んで甲冑製作に携わっていたが、年明けになって枡屋の裏店に移った。


 深い子細があるに違いない。

 浅太郎は武家三名の顔が判別できぬかと目を凝らした。


 後ろ向きで顔はわからないが、浪士風体のうち一名は身なりが立派で首班格らしく二名は護衛と思われた。


 月明かりに首班格の浪士の横顔が浮かんだ。

 宮部鼎蔵ではないか。

 先日、山崎から見せられた人相書きの中の一枚に酷似していた。


 宮部はもと熊本藩士で吉田松陰の同志だったが、今は長州系浪士の重鎮として暗躍している。

 山崎から聞いた話では、長州へ退いたはずが、今年になって舞い戻ったという大物である。

 浅太郎の体は、口からも耳からも湯気が出そうなほど熱くなった。


 宮部たちは無言で会釈すると路地に姿を消した。


 喜右衛門と大高が戸口から奥に引っ込む。

 木戸が閉まる瞬間を待って、浪士三名の後を追った。




 町行燈や茶屋の暖かな灯りと、白く照らす月明かりを頼りに、宮部たちは他人の目を避けるように先を急いだ。

 浅太郎も寝静まった京の町を、ひたひたと早足で歩む。


 四条小橋に次いで四条大橋を渡った。

 四条通りに面した北芝居と南芝居の間を抜けて左へ折れ、縄手筋を北へ上がる。


 宮部らは井筒屋という呉服問屋の前まで来て、ようやく足を止めた。

 すぐに出迎える人影が見えて、宮部らの姿は店の中に吸い込まれた。


 屯所へ報告に走るべきか。

 このまま、外で見張るか。

 浅太郎は迷った。


 まだ何も掴めていない。

 いっそ、井筒屋に忍び込んでみよう。


 心躍る冒険をして胸の空洞を埋めたい。

 浅太郎は意を決した。



                六



 井筒屋の裏手は川だった。

 川沿いの小道が続く石垣の下を、浅い川が黒くゆるゆると流れている。

 高い塀が張り巡らされ、忍び返しがついていて、取り付く島もなかった。


 隣家は仕舞屋だが、今は灯りもなく静まり返っている。

 低い垣根だけの隣家に侵入した浅太郎は、庭木を登って、井筒屋一階の瓦屋根へ飛び移った。

 屋根伝いに土蔵の屋根に移動し、庭木を足がかりに、蔵の裏に音もなく飛び降りる。

 蔵の表側に向かい、横壁に張り付いて屋敷のうちを窺った。


 井筒屋の奥座敷は明々と燭台が灯され、今しも酒が運ばれて銘々が座についたところである。


「首尾は上々じゃな」

 上座に陣取った宮部鼎蔵が、井筒屋の内儀らしき年増女の酌で、一献ぐいと飲み干す。

 上機嫌らしく声も大きい。


「枡屋には船入りがあったけえ、鉄砲と大筒を……屋まで運ぶにゃあ好都合でしたのー」

 小柄な浪士が小女に酒を注がせ、長州訛りで語りながら旨そうに盃を傾けた。

 店の名がよく聞き取れず歯痒い。


「あとは風の強い日を待って決行あるのみじゃけぇ」

 宮部に向かって盃を高く掲げた長身の浪士は、向かいに座す小柄な浪士と親子ほど座高の差があった。


 事態は予想以上に切迫している。

 明日、明後日にも騒擾が引き起こされるのではないかとの推測に、浅太郎の体中が冷たくなっていく。

 鼓動が激しくなった。


 京の町が戦場になる。

 千年の都が灰になってしまう。


 そして……。

 煌びやかな島原が失われる。

 百年を数える島原の楼閣が夢幻へと消え去ると思えば、思いの外、愛おしさが込み上げた。


 平穏無事な一日一日の積み重ねがいかに大事であったかを、思い知らされた。


「忘れもせぬ昨八月、やむなく七卿を擁して西下の際、妙法院にて三条実美卿の下知を賜ったわしは、密かに洛中に戻って苦心惨憺。軍資金調達に邁進致して参ったが。今こそ義兵を挙ぐるときぞ」

 宮部は熱情を込めて重々しく言い放った。 


「もはや謀は相成ったも同然。過日の屈辱を晴らすべく、まさにまさに捲土重来。天下に長州人ありと知らしめる時が参りましたけぇ。前祝いと参りましょう」

 小柄な浪士が心の昂ぶりのままに声を上擦らせた。

 灯火に照らされた横顔は鬼面に似ていた。


「『君側の奸』である会津と薩摩を、今こそ排除すべし!」

 大柄な浪士が今にも立ち上がらんばかりに叫んだ。


 長州は必死の奴儕である。

 どう暴発するとも限らない。

 背筋が寒くなった。


「まあまあ。お気持ちはわかりますけど、隣近所の耳もおます。もうちょっと、お静かにお願いできまへんかいな」

 井筒屋の主らしき壮年の男が、はんなりといさめた。

 主の後ろには息子らしき若者が膝に手を置き、身を乗り出すように座っている。


「大事の前じゃ。近頃は新撰組の探索方が市中をうろつき嗅ぎ回っておるゆえ、心せねばなるまい」

 真っ先に冷静さを取り戻した宮部は、浮かれる浪士たちをいさめた。


「今宵はそろそろ……さまもおいでになりますえ」

 どうやら重要な人物が訪れるらしい。

 だが、またも肝心の人名が判然としなかった。


「おお。誠においでになるのか。わしのほうからも実は……」

 宮部の言葉が急に低くなった。


 美味しそうな情報が語られているようだが、浅太郎の耳までは届かない。

 じわじわと庭木伝いに座敷に近づいた。


 庭木の間に鳴子が仕掛けられていた。


 おっと、危ない。

 つんのめりそうになって、白樫の太い幹に手を突いて体を支えた。

 木の幹の震動に驚いたカラスたちが大声を上げながら、ばたばたと飛び立つ。



 万事休す。

 背後には高い塀があって、逃走は難しかった。


 戦ってこの場を斬り抜けるしかない。

 汗がどっと滝のごとく流れた。


「曲者だ」

 濡れ縁にいた二人の下僕が木刀片手に庭に飛び降りた。

 続いて浪士が縁に走り出る。

 庭の敷石の上に駆け下りた。


「おなごじゃ」

「おもしろい。おなごの間諜じゃ」


 浅太郎の姿を見て女と侮った四名は

「おなごなら可愛がってやるけぇ」

「おお、なかなかの美形ではないか。忍び込まずとも、喜んで酌をさせてやったに」

 口々に勝手な言葉を吐きながら浅太郎に迫った。


 浅太郎は仕込み杖を抜き、短さを知られぬよう背後に隠し持った。


「おお。やるつもりけぇ。そちらがその気なら容赦せんけえ」

「いやいや。斬るのはもったいないけ。捕えて今宵の一興とせんけえ」

 宮部の下僕二人を押しのけた二人の浪士が、鯉口を切って浅太郎に迫った。


 大男は抜刀し、小柄な浪士は居合いが得意なのか、柄に手をやったままである。


 仕込み杖の刀身は身幅が厚い。

 細身だが簡単に折れない。

 短い刀のほうが狭い庭や座敷内では大刀より有利だった。


 こんなへなちょこ浪士に負けるかい。

 浅太郎は呼吸を整えて対峙した。



               七



「唐竹割りじゃ」

 体格で大いに勝る浪士がことさら大仰に大刀を振り上げた瞬間。

 ガラ空きになった懐へ躍り込んだ。

 腰撓めで体当たりする。


「ぐえっ」

 言葉にならぬ叫びが浪士の口から迸った。


 突きは見事に決まった。

 刀身はずぶりと浪士の腹に吸い込まれた。

 験しのない手応えが柄を通して伝わった。

 だが……。


 深く刺さり過ぎたために刀身が抜けない。

 大きな力でもぎ取られるように、柄が浅太郎の腕から放れる。

 浪士は背中から突き出た刀身を食い込ませたまま、たたらを踏むように二歩三歩と後じさったと思うや、仰向けにどっと倒れた。


 刀なしでは戦えない。

 浅太郎は慄然とした。

 鳩尾に氷の刃が突き刺さるような感覚に、満身の血が逆流する。


「うおらあ」

 憤怒の形相も凄まじく残る浪士が斬り掛かってきた。


 浅太郎はすくんで臆する心を懸命に立て直した。

 冷静さを取り戻せば、敵の太刀筋が読めた。


「斬る。斬り刻んじゃる!」

 冷静さを失った浪士は遮二無二、大刀を振り回した。


 怒りが剣を鈍らせる。

「女狐め。ちょこまかしおって。待たんか!」

 身軽に逃げ回る浅太郎を狙った剣尖は空を切って楓の枝を払った。


 勝機ありと見た浅太郎は、さらなる落ち着きを得た。


 浪士が右袈裟を打ち込んできた。

 浅太郎が半歩ひらりと下がる。


 大刀が竹垣を両断した。

 慌てて体勢を立て直した浪士が袈裟を撃った。

 浅太郎が右前に飛ぶ。

 浪士の踏み出した左足の向こう脛を目がけ、仕込み杖の鞘をたたきつける。


 浪士がよろめいた。

 浅太郎は鞠のように体を丸めて、渾身の力で浪士に体当たりを食わせた。


 庭の石灯籠にしたたかに体をぶつけた浪士は、大刀を取り落とした。

 浅太郎は素早く大刀を拾い挙げた。


「こ、こしゃくな」

 狼狽した浪士はよろけながらも脇差を抜いて斬り掛かってきた。


 身を沈めて横に払う。

 脇差の切っ先だけが頭上を掠めた。


 浅太郎が立ち上がったとき。

 胴を横に断ち割られた浪士は内臓を撒き散らしながら、木偶のように庭の踏み石に体を打ち付けていた。


「ひいい」

 頼みの浪士二名がやすやすと倒された。

 木刀を手にした二人の下僕は縮み上がって声も出ない。

 井筒屋夫婦も座敷の壁にへばりついたまま、動かない。


「宮部はん。どないしはるえ?」

 雨傘のしずくを振り落とすように血振りしながら、座敷に土足で踏み込んだ。 


 今度は大刀対大刀の戦いである。

 沖田直伝の《三段突き》を実戦で試す好機だった。


 一拍の間に敵の喉や鳩尾などを三度突く、沖田独特の三段突きを、浅太郎は修得していた。

 室内では大刀を振り回し難いが、突きは威力を発揮する。


「おのれ。いったい何者なのじゃ」

 学者肌の宮部は抜刀しているものの顔色がなかった。


 浅太郎は宮部も斬ると決断した。


 沖田の気持ちがわかる気がした。

 詰まるところ、沖田は人斬りが好きなのだ。


 運命に従って迷いもなく無邪気に《敵》を斬る。

 沖田は近藤や土方の手駒なのだから、良心の呵責など無用だった。



 浅太郎は沖田得意の平晴眼に構えた。


「ば、化け物め」

 宮部は呻きながら八方破れで浅太郎に殺到した。


 浅太郎が勝利を確信したとき……。



               八



「そこまで!」

 裂帛の一喝が、浅太郎と宮部の動きをぴたりと止めた。


「拙者が相手致そう」

 悠揚迫らぬ物腰でのっそりと現れた武士は、二ヶ月前に長州藩留守居役を正式拝命した桂小五郎だった。

 桂の背後には浪士三名と小者の姿も見えた。

 桂の前に出んとする配下を、桂は目で制した。


 井筒屋が『大事な客が来る』と、言っていたのは、桂の話だった。



 桂と間近で対峙する機会は初めてだった。

 一目で桂の〝気〟に呑まれた。



 桂は江戸三大道場の一つ――斎藤弥九郎の神道無念流練兵館で塾頭を務めた剣豪として天下に名を轟かせている。

 佐幕派に命を狙われているにもかかわらず、京師各所に出没して果敢に活動する剛胆さには新撰組もお手上げで、躍起になって行方を追っていた。


 抜刀せず巧みに追捕を逃れる桂は、志士の間では《逃げの小五郎》と仇名されていた。

 無闇に威勢を張って無為な戦いで命を失う行いを、勇気ではなく愚挙だと知る才気ある男である。

 過激で性急な長州にあって異色の存在だった。


 桂が一歩ぐっと浅太郎に近づいてきた。

 もう一歩踏み出せば間合いに入る。


 桂の周りには冷たいくせに触れれば焼かれそうな熱い炎が見えた。

 浅太郎は桂の気組みに押された。


「宮部氏は大事な御仁。抜刀するは拙者の本意ではないが、やむを得ぬ」

 桂は愛刀の五郎左衛門尉清光をすらりと抜き放った。

 燭台の灯に白刃が煌めく。


 大柄な桂はゆったりと上段に構えた。

 誰もが静謐な気魄に圧倒されるというが、浅太郎も例外ではなかった。

 桂の背後の炎がさらにめらめらと燃え立つ。


 いつ斬撃が来るか知れない。

 足に根が生え、一歩も踏み出せなくなった。

 桂の姿が異様に大きく感じられた。

 汗が滝のごとく全身を濡らす。

 桂を前にすると、剣客として尊崇する沖田も近藤も土方も田舎道場の百姓剣法でしかないと思えた。


 耐え難い死の恐怖が奔流になって浅太郎の背を流れた。

 まるで蛇に見込まれた蛙だった。


「ほれ、今のうちだ」

 誰かが大声で叫んだ。


 動けなくなった浅太郎は、あっという間に取り押さえられた。

 首根っこを押さえられて畳に組み伏せられた。

 誰かが馬乗りになり、手首が万力のような力で押さえつけられる。

 ばたつかせる両足首が折れんばかりに掴まれて動きを封じられた。


「この縄をお使いやす」 

 頭上で井筒屋の女房の息を切らせた声がしたかと思うと、荒縄でぎりぎりときつく縛り上げられた。


 大原女の衣装の胸元がはだけ、裾が捲れ上がって太腿があらわになった情けない姿で畳の上に転がされた。


「驚いたやおへんか。まだ小娘どすがな」

 痘痕面をした井筒屋の息子が好色な眼差しで、浅太郎の肩肌脱ぎになった鎖骨あたりを舐めるように見詰めた。


「桂さま。いかが致しましょう」

 宮部が桂に指示を仰いだ。


 桂が返答する前に

「あーっ。こやつは……」と、下僕の一人が頓狂な声を上げた。

「こやつ男でございます。憎むべき新撰組に出入りする者でございますよ」

 下僕は浅太郎の髪を掴んで顔を灯火の前に晒した。


「まさに相違ございませぬ。沖田の子分で、確か島原の置屋の息子だったかと」

 もう一人の下僕が浅太郎のはだけた胸元をぐいと両側に広げて、膨らみのない胸を指し示した。


「新撰組も落ちたものよ。このような少年を間者に仕立てるとは」

 桂は浅太郎の緊縛された体をじっと見下ろした。


「可哀想だが、大事の前の小事ゆえ……。今この場で処置せぬわけにいかぬな」

 切れ長な目には哀れみに似た光があった。 


 庭では小者や店の者の手で浪士の遺体に筵が掛けられ、何処かへ運び去られていく。


「悲願成就寸前であったに。さぞ悔しかったであろう」

 庭に下りた宮部は遺体に向かって丁重に手を合わせ、懇ろに念仏を唱えた。


 立ち上がった宮部は、浅太郎をきつい眼差しで睨め付けた。


「宮部殿。拙者らが責めてみます。屯所に出入りして間者まで引き受けているとなれば、種々の情報を知っておるに相違ございませぬ」

 桂に従って来た浪士の一人が、鼻息も荒く肩を怒らせた。


 ひと思いに首を刎ねようと思うだけ、桂のほうが情け深い。

 どのような責め苦や辱めを味わわされるかと思えば、全身が総毛だった。


「それがよろしおますやろ」

 井筒屋の主がすぐさま賛同し、宮部の下僕も張り切る。

「わしらにも手伝わせてくださいませ」


 すぐには死ねぬ運命に浅太郎はうんざりした。



「任せたぞ。じゃが、殺さぬ程度に手加減するのだぞ。わしが後ほど一寸刻みに料理してくれる」

 宮部が酷薄な笑みを浮かべながら指図を下した。



                 九



「餓鬼のくせに強情な奴だ。これで終わりだと思うな」

 靄に閉ざされた意識の淵で、野太い男の声がした。

 続いて、蔵の重い扉が閉ざされる音、というより振動が、素裸で縛り上げられた浅太郎の体に伝わってきた。


 自分は、まだ生きているのか。

 浅く、荒い息づかいが他人の命の残り香のように遠く感じられた。


 どこが痛むのかどう苦しいかもよくわからず、すべてが他人事と思えた。


 苦痛を感じる肉体と、別の世界に身を置いて傍観する心を上手く切り離せたため、過酷な拷問に耐えられた。



 体を勝手気儘に使ったあげく、壊すのだ。

 生まれ落ちて以来の宿敵、浅葱に勝ったと思えば、小気味よかった。




 胸の中の空洞が埋まらなかった結末だけが残念だった。




 浮かび上がりかけていた意識は、またも底のない暗い淵へと吸い込まれていく。

 目の前を昔の出来事が走馬燈みたいに流れていく。



 鬱陶しいと思っていた重右衛門の暑苦しい笑顔や、泣き笑いを浮かべた辛気くさいお信の顔が懐かしく思えてきた。

 貰い子なのに大事にしてくれた。

 貰い子だからこそ、放すまいと甘やかしてくれた。



 間もなく仏になるらしい。

 浅太郎は日頃に似合わず悟ったような心持ちになっていた。



 浅葱も悩んでいたんだ。

 心が突如として広くなった。



 もうすぐ彼岸へ行く。

 あの世では如月に気持ちを打ち明けたい。


 だが……。

 ここで死ねば、浅太郎は大人にならぬままである。


 如月は『うちは葛山さまがきはるまでずーっと待っておるなまし』と、見向きもしないだろう。



 やはり葛山は許せない、と憎しみがわく。

 まだ仏になりきれていない証なのだろう。


 悟ったような悟らぬような。

 奇妙な波間で浅太郎がたゆたっていたときだった。


 土蔵の扉が開く音がした。


 また拷問か。

 死にかけてるのだから堪忍して欲しい。

 眩しい光に、瞑っていた目を薄く開いた。


 目を見開く。


 目の前には葛山の暗く沈んで無表情な顔があった。


「動けるか。浅太郎」

 手早く縄を断ち切るや、着ていた羽織を脱いで、裸の体に羽織らせてくれた。


「助けに来て欲しいていうてまへんえ」

 浅太郎は肩を貸してもらいながら、土蔵の外に出た。


 暗かった庭も明るい日差しに満ちていた。

 祇園囃子の稽古の音が聞こえる。


「井筒屋の者もおおかた出払っておる。今は桂も浪士もおらぬゆえ」

 葛山は浅太郎を抱きかかえながら土蔵の裏手に回った。


 高い塀の上から顔を覗かせているのは、安藤だった。

 へらへらした笑みを浮かべながら『早くせえ』とばかりに手招きしている。


 綱が下ろされた。

 葛山が下から押し上げ、安藤が上から引っ張る。


 浅太郎は辛くも虎口を脱した。


「ようやった。井筒屋が巣窟の一つとはっきり致したゆえ、見張りを強化し、敵が大勢が寄り集まった機会を捉え、踏み込んで一網打尽と致そう」

 安藤は調子よく言明した。



 平隊士に背負われた浅太郎は、井筒屋の裏を川沿いに辿った。

「浅太郎、葛山の御陰じゃぞ。ちゃんと礼を言え」

 横を歩く安藤は、後方を警戒しながら歩く葛山を振り返った。


「昨晩、葛山は、隊務終了後、枡屋に引き返したが、そこもとの姿はなかった。八木邸に戻った気配もない。虫の知らせを感じた葛山は、辺りを探索しておったらしい」

 追従笑いめいた色を浮かべながら早口で続けた。


「井筒屋に張り付いておった見張りから『奥で何か動きがあったみたいどす』と聞いた葛山が中を窺ったところ、浅太郎が蔵に連れ込まれるところであったのじゃ」

 黙ったままの浅太郎に目を向けながら、一つ咳払いし、

「葛山は張り番にわしへの連絡を頼み、援軍を待ちながら、救い出す機会をじっと待っておった。まさに間一髪。とにかく無事で良かった。浅太郎が責め殺されては、わしも寝覚めが悪うなるところであった」

 安藤はかかかと豪傑笑いした。 



               十



 一行が四条通に出ようとしたときだった。

 彼方を歩いている二人の中間風体の男が目に入った。

 宮部の下僕たちだ。


 半殺しにされた憎き相手を見間違うはずがない。


「安藤さま。あの中間たちは宮部の下僕どす」

 脇を歩く安藤に小声で告げた。


「なに。捕えて詮議してくれる」

 安藤は、たちまちいきり立った。


「あの中間どもを捕えよ」

 平隊士と葛山に小声で命じる。


「拙者は先回り致します」

 京の地理に詳しい葛山は、ついと脇道に逸れるや全力で駈け出した。

 残る安藤と平隊士は気取られぬ程度に歩を早めて下僕の跡を追った。



 身体のあちこちに刻まれた傷が急に痛み出した。

 ふつふつと怒りが湧き上がる。


 浪士たちに拷問されたあと、下衆な下僕の手で屈辱的な目に遭わされた。 

 仕返しをせねば気が済まない。


 この手で斬り刻みたい。

 綺麗さっぱりこの世から抹殺してやりたい。


 とはいえ、いまの浅太郎には何もできない。


「うちは大丈夫どすから追うとくれやす」

 背負ってくれている平隊士に早口で告げた。


「おう。ここで待っておれ。必ず捕えてやる」

 平隊士は、浅太郎を町家の仕舞屋格子の前におろすや、安藤らの後を追った。


 浅太郎は格子に身を寄せて座りながら、まさに始まらんとする〝捕り物〟を凝視した。


 下僕二人の前方。

 葛山が横合いの路地から姿を現した。

 手を大きく広げて阻止する。


 一瞬、下僕どもが立ち止まった。


「止まれ。止まれ」

 踵を返して大慌てで逃げんとする先には、安藤と平隊士二名が待ち構えている。


「新撰組である。そこなる中間どもに詮議の儀がある。おとなしく縛につけ。さもなくばこの場で斬って捨てる」

 安藤が大音声で呼ばわり、すらりと白刃を抜き放った。

 残る三名も抜刀する。


 通行人たちがわっと声を上げて逃げ惑う。

 水撒きしていた茶屋の使用人たちが我先に見世の内に逃げ込む。

 途端に誰もいなくなった。


 さして広い通りではない。

 下僕たちに逃げ道はなかった。


「どりゃああ」

 下僕の一人が破れかぶれで葛山の方向へ駆け出した。

 葛山の脇をすり抜ける。


 葛山の大刀が一閃した。

 下僕は二度三度と宙に向かって掻き毟るような動きを見せてから、仰向けに倒れた。


「ひいいい」

 残る下僕が腰を抜かして地面に尻餅をついた。

 安藤の指図で平隊士が下僕に縄を打った。


 斬り倒されたもう一名にも縄を掛ける。

 無理矢理ぐいぐい引きずって立たせるが、重傷であるのか足下が定まらない。


 よいざまだ。前川邸にある〝拷問蔵〟で、せいぜい可愛がってもらえ。

 浅太郎は大いに溜飲を下げた。



 と同時に『白状ついでに、うちをどないな目に遭わせたかまでつまびらかにせえへんやろか』と思えば、冷や汗が背筋を伝った。

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