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第3話   島原あたりに風が吹く

               一


 祇園会も終わった八月も十二日。暦の上では秋になっていた。だが、まだまだ残暑は厳しい。


「こりゃあ、えらいことをやらかしたな」

 安藤早太郎は、夜空を紅に染める炎を見上げながら、沖田総司と顔を見合わせた。


 一条葭屋町にある大和屋が、壬生浪士組の芹沢局長らによって、焼き討ちされている。


 大屋根に乗って差配する大柄な影は、芹沢鴨だった。陣笠を被った芹沢は、火事場泥棒を追い払うべく、不心得者目がけて瓦を投げつけている。


 隊士たちは一様に、誠の文字が躍るダンダラ羽織を羽織っていた。抜刀し、火消しを寄せ付けない。羽織の浅黄色は、暗いため鼠色に見えた。


「壬生浪士組の全隊士五十二名のうち、三十五、六名というところか」  

 焼き討ちの参加者が、隊士の半数を遙かに超えている現実に、安藤は戦慄した。


「安藤さん、見てください。恐れて遠巻きにしておった野次馬どもが、騒ぎに加わり始めましたよ」

 沖田は、騒ぎが広がる様相が愉快らしかった。


「誰も彼も、『羽振りの良い、大和屋憎し』というわけか」

 白い鉢巻きを後方に長く垂らし、白い襷を掛けた隊士たちが、大小七棟もある土蔵を次々に打ち壊し、中のものを放り出して火を掛ける。喝采を送り、煽る者ばかり。火消したちも、隣家の屋根で呆然と見つめるしかない。


「相撲の入りが盛況だったことへの当てつけでしょうかねえ。安藤さん」

 今日は朝から、近藤一派が催す相撲興行が、壬生寺境内で盛大に行われた。

 興行の大成功で、近藤一派に大金が入った。

 芹沢は負けじとばかりに、大和屋へ献金の強談判に出向いたものの、あっさり拒絶された。その腹いせなのだ。


「近藤さんは『もはや、壬生浪士組は終わった』と、頭を抱えて、屯所の自室に閉じこもっておられますよ。はは」

 沖田は感情のない目で、からから笑った。


「浪士組に、どのようなご沙汰が下るものやら。ま、やらかしたものは仕方ないですけどね」

 まるで他人事のように、沖田は目を輝かせる。


「天誅の名目ゆえ、会津侯がどう判断なさるか」

 安藤は、ごくりと生唾を飲み込んだ。


 火付けは大罪である。が、芹沢らは町年寄に予告し、延焼せぬよう、あらかじめ隣家を取り壊すなど、十分な配慮の上で焼き討ちを行っている。


「大和屋親子は、生糸の買い占めで暴利を貪り、西陣の職人をはじめ、庶民から恨まれていますからねえ。なんら、お咎めなしかも知れませんよ」

 横顔に炎の影を揺らせながら、沖田はふふふと笑った。


「お咎めなしなら、ますます芹沢局長は男を上げて、勢力を拡大するだろうな」

 近藤寄りである安藤は、気が気でなかった。


 日頃は芹沢派と近藤派の、どちらつかずの連中が、今はこぞって〝天誅〟に加わり、〝義挙〟と信じ、あるいは羽目を外して騒いでいた。


「ねえ、安藤さん。真面目な近藤さんより、やはり大物然とした芹沢局長のほうが、人気がありますよね」

 沖田はどちらの味方かわからない発言をした。淡々と事実を述べているつもりだろうか。


「芹沢局長は〝巨魁局長(大局長)〟と称され、隊内外で、近藤より格上の扱いじゃったからな」

 水戸で天狗党として鳴らした芹沢と、訳のわからぬ田舎道場出の近藤とでは、江戸を出る際から大差があった。


 芹沢には水戸藩士である兄が二人もいた。京残留の際に路頭に迷いかけた浪士たちが、会津侯御預かりの身分になれた功績も、芹沢の人脈の御陰だった。


 安藤の心は大いに騒いだ。

 この先、どちらに付けばよいか。成り行きで、沖田ら試衛館出身者と親しいが、義理などない。

 両派の確執が明らかになれば、近藤一派は敗退するに違いない。

 漫然と、近藤局長派と親しくしているが、ここいらでもう少し考え直すべきかも知れない。


 風向きが変わった。熱気が肌をなぶる。

 安藤は、降りかかった火の粉を手で払った。


「六月の二十八日でしたっけねえ」

 炎に顔を紅く染めた沖田は、唐突に過去の話題を持ち出した。


「角屋での騒動のおりも、芹沢局長の独壇場でしたね」

 沖田は愉快そうに言葉を続けた。


「角屋の主は『うちは格式が高い揚屋どす』とばかりに、われわれ壬生浪士組を野良犬のごとく、軽んじていましたからね。芹沢局長が酔いと怒りにまかせて、見世の造作や調度をどんどん打ち壊して回った〝快挙〟には、私も大いに溜飲が下がりましたよ」

 沖田は甲高い笑い声を上げた。


 沖田は幼い頃から試衛館の先代近藤周助に育てられた。弟子の中なら見込まれて周助の養子となった勇とは一蓮托生である。安藤のように、どちらにつこうかと迷う余地などなかった。


 沖田は何も疑問に思わず何も考えず、どこまでも近藤とともに生きるつもりなのだろう。安藤のような根無し草は、どうとでもなるから気楽でよかった。


 ふと沖田が憐れに思えた。


 いやいや。憐れなのは、迷うばかりの我が境遇ではないかと、安藤は思い直した。


 思えば、わしにも華やかな時代があった。

 奈良東大寺大仏殿での通し矢では、一昼夜で一万本以上の矢を通して〝射術の名人〟と謳われたものだが、あとがいかんかったのお。詰まらぬ理由で蟄居を命じられたり、藩士の子弟に乱暴を働いたため、国を捨てざるを得なくなったり致した。


 虚無僧となったは、三十五のおりじゃった。虚無僧時代は長かった。

 十数年経って、今年四月に浪士組に入隊し、ようやく武家らしい境遇に戻れたわけじゃが……。


 今の状況に満足していなかった。序列でいえば、安藤より低い隊士が多数いるものの、入隊時期の差に過ぎない。新参者も、実力が認められれば、安藤を追い越していく。古参ゆえ副長助勤の立場にあるが、いつ降格させられぬとも限らない。

 もやもやと案じながら、ふと野次馬の群れに目を転じた。


 あの姿形はもしや……。 

 取り巻く町衆の中に、ひとりの虚無僧を見つけた。


 天蓋越しでは見難いからだろう。天蓋をぐいと引き揚げた際に、現れた白皙は、まさしく葛山だった。



               二



 葛山をからかってやろう。

 安藤は、下世話な興味に頭を入れ替えた。


 沖田と別れた安藤は、人混みに紛れていまにも消え去りそうな葛山に声を掛け、大和屋から三町ほど離れた馴染みの居酒屋に連れ込んだ。


「葛山。その後、どう致した。如月が、貴公にえろう懸想しておるそうではないか」

 長床机に片足を上げて、矢大臣座りした安藤は、燗徳利の酒を勧めながら、早々と本題を切り出した。


「実は、甚だ閉口しております。世事に長けた安藤殿のお知恵を拝借致したいくらいです」

 葛山は猪口の酒を一口、口に含みながら小さく頷いた。火影に葛山の影が揺らぐ。


 今夜の葛山は、だんまり戦術ではなさそうだった。如月との仲を、あれこれ聞き出してやろうと、安藤はほくそ笑んだ。


「如月殿が、あまりに懇願されるもので……」

 葛山は訥々と話し始めた。丹波国篠山の田舎訛りが、ときおり顔を出す。


「昨日、とうとう如月殿の部屋に上がり申した。尺八の音色を聞かせたり、一弦琴の弾き唄いを聞かせてもらったり……。ひとときを過ごして部屋を辞しました」

 葛山と如月のぎくしゃくしたさまが目に浮かんだ。


 どこまでも品行方正を絵に描いたような男だった。据え膳を食わぬとは、まさに石部金吉金冑。

 安藤は噴き出しそうになるのを堪えた。


「はっは。今まで気付かんかったが、まさか貴公、おなごが苦手なのか」

 猪口を葛山の前に突き出しながら、安藤は軽く身を乗り出した。


「抱いてやればよいではないか。なあ、葛山。相手はおぼこではないぞ」と、横目で葛山の顔つきを窺いながら畳み掛けた。


「拙者は、遊びでおなごを抱くような真似は致しかねまする」

 葛山はきっぱり言い切った。口をへの字に結ぶ横顔は、男から見ても、ぞくりとする、名付しがたい色気があった。


「拙者は、しがない虚無僧。男女の深みに踏み込めば、お互いが不幸になり申す」

 意固地とも感じられる口ぶりに、安藤はようやく気付いた。


 惚れるのが怖くて、懸命に拒否している。請われるたびに出向くからには、心の底では好いているに違いない。

 じれったさを通り越して、腹立たしくなってくる。 


 虚無僧寺である一心院へ紹介する際も、〝上納金〟が必要と称して、京へ流れ着いたばかりの葛山の、なけなしの銭を騙し取ってやった。

 虚無僧時代、なにかと理由をつけて頼めば、僅かな布施から融通してくれおった。


 とろい男よ。品行方正、馬鹿正直、鴨葱が衣を着ておるわ。

 安藤は袖についた埃を指で払った。


「葛山。ただで遊ばせてもらえて相手にも功徳となるというに。何を頑なになっておる」

 葛山のほうへ、ぐいと顎を突き出した。


「拙者は……。そのような僥倖を手に入れる資格など欠片もござらぬ。忘れようにも忘れられぬ過ちがあるのです」

 葛山の口調に熱が籠もる。


「おお。過ちとな。貴公が故郷を出奔した訳を、わしが言い当ててしんぜようか」

 男として下り坂にさしかかった安藤に比べ、若くて見栄えも良い葛山を、いたぶりたくなった。


「国許で、上司の妻とできてしもうて、二人して手に手をとって出奔したものの、活計(たつき)が立たず。おなごには逃げられ……。あー、いやいや、女敵討に来た亭主が……」

 色男の葛山ならありそうな妄想を口にして煽った。


「おやめください。そのような卑しい色恋沙汰ゆえではありませぬ」

 墨で一掃きしたような葛山の眉が、ぴくりと動いた。


 安藤は、さらにからかいたくなった。

「では、何だというのじゃ」


「若気の至りと人はいうかも知れませぬ。なれど拙者はあくまで正しかった、武士として間違っていなかったと、いまだに信じております。だが……」


「だが、何じゃ。早ぅいわんか」

 猪口を片手に、安藤は執拗に迫った。


「正しい行いの先に、何の罪もない人たちの不幸が繋がっていたとすれば……。拙者は、己だけ、のうのうと幸せに生きることに引け目を感じてしまうのです」


「ようわからぬ。もっと子細に言うてみぃ」


「端的に申せば、恩ある人を手に掛けもうした。国を脱した後、風の噂によれば、妻子は路頭に迷う有様となってしまもうて、あげく……」

 安藤は皆まで言わせず、


「わしなら気にせぬな」

 顔の前で手をひらひらさせた。


「武士たるもの、そこまで考えておっては、大小を手挟んでおれぬ。わしが任務として斬った不逞浪士も、国許に妻子がおったやも知れぬ。年老いた親を悲しませたかも知れぬ。際限のない話ではないか」


「とにかく浮かれたことは、拙者には似合いませぬ」

 葛山は絞り出すように言い切った。


「まあまあ。おぬしの言い分はようわかった」

 安藤は剽軽な仕草で、葛山の猪口に酒を注いでやった。


「じゃが、ようく考えてみい。一途に惚れ込んだ男が、指一本も触れてくれぬとは。おなごにとって、これほど酷な仕打ちがあろうか。如月を不幸にしておるとは思わぬか」

 安藤の言葉に、葛山の唇が細かく震え、猪口を手にした指も、ぎこちなくなった。


「一度、媾うてやってみい。如月も気が済んで、激しい執着を解くやも知れぬぞ。じらされる身は辛い。思いが積もり積もって、恋い焦がれておったに相違ない。気が済めば、おぬしも普通の男と同じじゃったと納得がいこうものよ」

 葛山を説き伏せながら、安藤は沖田の末成り顔を、ふと思い浮かべた。


 沖田は、四月半ば過ぎ、土方や井上源三郎らと大坂新町の悪所に登楼したものの、いまだ清童を保ち続けている。

 沖田と同じく葛山も、この歳まで清童なのではあるまいか。


「そういうものでござろうか。しかしながら……」

 葛山は猪口の文様を眺めながら、消え入るような小声で呟いた。


「わしは伊達に歳を取ってはおらぬ。こう見えて、こなしたおなごの数は両の手に余る。おなごの気持ちの機微くらい、手に取るようにわかる」

 安藤の断言に、葛山は静かに酒を呷った。



              三



「まかり成らぬものは、ならぬのじゃ」

「通さんか。われらを何と心得る」

 壬生浪士組と会津藩兵との押し問答が、延々と繰り広げられている。


 小具足姿で烏帽子を被った、芹沢・近藤両局長率いる、ダンダラ羽織の隊士五十名は、御所の門を前に立ち往生を余儀なくされていた。


 大和屋焼き討ち事件から六日後、秋風の立つ八月十八日。

 会津藩と薩摩藩は、早朝から御所を囲む各門に兵を集め、長州藩の堺町御門警備を解任して、倒幕派の京からの追い出しを計った。


 出動が命じられた壬生浪士組は、六尺四面の隊旗を押し立て、意気揚々と御所の蛤御門まで乗り込んだ。だが門は固く閉じられ、警備の兵たちに阻止されて、御所警護の任に就けぬ有様だった。


「こりゃあ困りましたねえ。安藤さん」

 伸び上がって様子を見ていた沖田が、後方で見守る安藤のほうに振り返った。


「守備の藩兵は、八日に京へ上ってきたばかりらしいな。われわれ壬生浪士組を知らぬも無理ないが、困ったもんじゃ」

 会津兵は交替部隊の者たちばかりで、話が噛み合わない。会津訛りで、言葉さえ通じ難い。


「芹沢局長殿の言が聞けぬのか。味方といえども容赦せぬぞ!」

 安藤のさらに後ろで、永倉新八が威勢良くがなり声を上げた。


 永倉は試衛館の食客だった男で、近藤派だが、芹沢と同じ神道無念流の遣い手であるだけに、芹沢贔屓な面があった。


「皆、大張り切りでやって来てますからねえ。ここで味方同士、一戦交えますか」

 沖田が部外者のように、無責任に笑った。


「ほれほれ。突いてみんか。槍は伊達なのか」

 槍を突き出す会津藩兵に向かって、芹沢が悪態を吐く。剛胆にも、刃先五寸まで詰め寄るや、槍の先を愛用の鉄扇でぱたぱた扇いだ。


「さすが巨魁局長じゃ。まさに、漢。男の中の男だ」

 若造の野口健司が頬を紅潮させ、声高に賞賛した。

 贔屓目で見ずとも、ほれぼれする男ぶりには違いない。


「まあ、巨魁隊長殿が大得意なのも、今のうちってね」

 沖田が小声で気になることを呟いた。


「あの噂は誠なのか。会津侯公用方に近藤局長が呼び出されたと申すのは」

 耳打ちするように、沖田に問い返した。


「安藤さんもやはりご存じでしたか。大和屋焼き討ちに、会津侯はたいそうご立腹とか。近藤さんは『芹沢召し捕り』を指示されたそうですよ」


「わしは〝処置〟を命じられたと聞いたが」


〝処置〟の意味が曖昧である。『良きに計らえ』という玉虫色の御指図だった。


「まあ、どっちだっていいじゃないですか。安藤さん。会津侯のお墨付きをいただいたわけですからね。芹沢局長と取り巻きをぶった斬っちゃえば、あとはこっちのもんですよ」

 同意を求める眼差しで、沖田は首を竦めた。


 近藤・土方と沖田は、鉄の結束どころか一心同体であるから、芹沢派の粛清は近藤の意向だ。

 試衛館の生え抜きでもない安藤に大事を打ち明けた訳は、信頼の証を見せて仲間に引き込みたいのだ。

 沖田のいじらしいほどの親愛の情に、ほだされそうになる。


 信用するにも、ほどがあろう。わしが芹沢に注進すれば、どうするのじゃ。

 安藤はむず痒くなった鼻の下を指で擦った。


 壬生浪士組の巨魁隊長芹沢は、名実ともに圧倒的優位な立場に胡座を掻いている。芹沢には油断があろう。やはり近藤に荷担すべきだと、安藤は腹を括る決心をした。


「会津侯は、早々にも処置を、とお考えだったのでしょうけどねえ。こんな大事が起こっては、しばらく延期って流れになりますか」

 沖田は顎をつるりと撫で上げた。


 長州との大きな戦になるやも知れぬ情勢では、芹沢を捕縛するにせよ抹殺するにせよ、しばらくは実行に移せないだろう。

 安藤が大きく息を吐き出した、そのとき。


「開いた。開いた」

 門の周辺で歓声が上がった。


 壬生浪士組を見知った会津藩士が駆けつけ、両者は事なきを得た。蛤御門が開かれ、壬生浪士組は仙洞御所前に集結していた会津藩兵と無事合流した。


 具足櫃に腰を下ろした芹沢と近藤の勇姿は、大将然として晴れがましい。隊士には、会津藩の合い印である黄色の襷が配られ、大いに奮い立つ。


「ことあらば、真っ先に駈け、討ち死にの覚悟じゃ」

 若い隊士が熱く叫んだ。


 青いのお。

 単純に張り切る隊士の姿に、安藤は耳の後ろを掻き掻き苦笑した。


「そうそう。安藤さん。三崎屋の如月太夫が亡くなったのって、知ってましたか」

 唐突に沖田が切り出した。


「昨晩だそうで。ゆうべ島原に行った者たちが耳にしたとか」

「殺されたのか、自害か、どちらだ」

 数日前の葛山の憂い顔を思い出した安藤は、噛みつかんばかりに詰め寄った。


「さあ……」

 安藤の剣幕に気圧された沖田は、

「死んだって聞いただけですし。又聞きなんで、間違いってこともありますよ」

 腰砕けな声音になった。


 沖田のお気楽な返事とは対照的に、安藤の鼓動は早まった。


 今までなら『座敷に如月を呼ばぬか』といえば、反対する者はいなかったが、今後は、睦月しか太夫がいない三崎屋を強引に推せなくなった。。


 拙い。三崎屋からの袖の下が期待できないではないか。女郎を買う小遣いにしておったに。


 浪士組からの給金では、遊ぶ金に不足する。

 安藤は近頃ようやく馴染みになれた、野路菊という名の女郎のふくよかな顔を思い出しながら、愕然とした。



              四



「何度見ても嬉しいものよのお」

 前川邸の屯所裏門から坊城通に足を踏み出した安藤の耳に、原田左之助の生気溢れる大声が飛び込んできた。


 声の方向に目をやると、八木邸の長屋門の前で、原田と沖田がはしゃぎながら〝松平肥後守御預新選組宿〟と墨書された表札を眺めている。


「貴公ら、日に何度、見に行っておる」

 呆れた安藤は、からかいの言葉を浴びせた。


「でも、浪士組がここまで来たかと思うと、感無量じゃないですか」

 沖田が、少年のように溌剌とした声で言い返した。


 八月十八日の功績によって武家伝奏より、正式に〝新撰組〟という由緒ある隊名を賜った。市中巡邏のお役目を授かり、京に残留する長州藩士と倒幕派の摘発のため、二十一日以降、交替で市中を闊歩している。


 桂小五郎の捕縛に向かったものの、桂不在で、捕えたのは従者のみであったり、筑前の平野国臣を二度にわたって取り逃がすなどしつつも、〝三条縄手の闘い〟においては天誅組の挙兵に加わった古東領左衛門の捕縛に成功し、新撰組はいよいよ意気軒昂である。



 新撰組隊士全員の目が外に向かっていた。

 会津侯から賜った、芹沢処分の密命などまるでなかったかのように、隊内は前向きで明るい〝気〟に満ちている。

 沖田のあっけらかんとした顔つきを見れば、蛤御門の前で聞かされた打ち明け話は、まるで夢の中の出来事のように思えた。


 安藤は、沖田と原田の、子犬のようにじゃれ合う姿を横目に、どんより曇った空を見上げた。


 北側に広がる見渡す限りの壬生菜畑を、湿った風が吹き抜けてゆく。 


 芹沢と平山両名の腕は尋常ではない。近藤一派に手練れが多いとはいえ、新撰組一の遣い手である永倉新八は芹沢とも懇意なので、どう動くかわかったものではない。

 試衛館の生え抜き同然の斎藤一も、若いが陰気な男で、何を考えているかわからない。


 いざとなれば、近藤側には、沖田、藤堂、山南、井上に、土方しか残っていない状況もあり得た。


 近藤らは腰が引けて、有耶無耶にしてしまいたいのかも知れない。


 芹沢粛清が行われぬとなれば、長いものには巻かれろで、またも身の処し方を考えねばならない。


 掲げられた表札に近づいたり離れたり、飽きずに眺める沖田と原田の姿を、腕組みしながら、ぼんやり眺めていた、そのとき。


 八木家の内玄関から浅太郎が姿を現した。八木家の三男為三郎と連れ立って長屋門に向かってくる。

 浅太郎は俯き加減に肩を落として何も目に入らぬようだった。


 安藤が声を掛ける前に沖田が、

「浅太郎。元気がないではないか。拙者が稽古をつけてやろうか。すっきりするぞ」

 浅太郎の華奢な肩をむんずと掴んだ。


「今から釣りに出かけるのどす」

 無言で沖田を睨む浅太郎に代わって、満面に笑みを浮かべた為三郎が快活に答えた。


「浅太郎が鬱ぎ込んでるんから、気晴らしに鯉釣りでも行こて誘たげたんどす」

 はきはきした物怖じしない口調は、八木家の当主の源之丞譲りだろう。


 源之丞は、八木家の葬儀の場で、芹沢相手に槍の持ち方について口論した験しもある、剛胆で気骨のある郷士だった。


「浅太郎は如月はんが好きやったさかいなあ。自害しはって、がっかりしてはるのどす」

 やはり子供は子供である。為三郎は言わずもがなな事情まで言い添えた。


「うちは帰るえ」

 浅太郎は手にした魚籠と釣り竿を放り出し、坊城通を島原の方角へすたすた歩き出した。


「あほちゃうか。うちがせっかく誘たったのに。もううちへは来んといてんか」

 浅太郎の後ろ姿に向かって、為三郎は大声を張り上げた。


 もう十四というに。もうちっと大人にならんか。

 御蚕ぐるみで育てられた者の幼さに苦笑すると同時に、十歳で試衛館に内弟子として預けられた沖田なら、さぞかし幼い頃から大人びていたであろうなどと、ふと考えた。


 勢いよく飛び出したわりに、浅太郎の足はすぐ遅くなった。

 田畑に囲まれた坊城通をとぼとぼ歩く姿は情けない。


「浅太郎。待て待て」

 草履で土煙を立てながら、浅太郎に追いついた。


「拙者も三崎屋にちと用があるゆえ、同道いたそう」

 如月の死後、三崎屋に出向いていない。


 安藤は、露骨に迷惑顔を見せる浅太郎と肩を並べて歩き始めた。


「あの葛山いう虚無僧のせいどす」

 尋ねるより先に、淺太郎は堰を切ったように語り始めた。


「葛山が帰りよったあと、太夫道中のときかてなんや様子がおかしかったらしおすけど。お座敷が終わって部屋に戻ってから、父親の形見ゆう短刀で……」

 感情が高まって胸が詰まったらしく、浅太郎の言葉は、ぷつりと途切れた。


「喉を見事に一突きやったのどす。さすがに、もと武家の娘。立派な最期やったそうどすわ。うちは、いつもみたいにお高の家で寝てましたさかい、見てまへんけど」

 一気呵成に語ると、洟水を啜り上げた。


「如月の引舟は『その日、初めて、葛山さまと情を通じはったのに』て言うてました」

 浅太郎は悔しげな顔で目を瞬かせながら付け加えた。


 別れに際して一度だけ抱いてやろう、と葛山が考えたとすれば話は合う。

 女に疎い葛山は、如月の執着を甘く見ていたのだ。


「すぐに忘れるわけにもいくまいが、時が解決してくれよう」

 懸命に涙を堪える浅太郎に、ありきたりな言葉を掛けた。


「安藤さまにうちの気持ちがわかりますかいな」

 顔を上げた浅太郎は、安藤をきつい目で睨みつけるや、長圓寺の角で松原通を、人家も何もない西方向へ駈け出して行った。


 考えてみれば、今や三崎屋との縁は切れたも同然。浅太郎を慰めてやる義理などなかった。

 安藤は首を竦めた。



             五



 朝から雨だった。長月も半ば過ぎの十六日ともなれば、雨も肌寒く感じられた。

 安藤は市中の見廻りの役務をこなしたのち、他の隊士よりかなり遅れて角屋に出向いた。今宵の宴は長くなる。翌朝まで居残り、宴を盛り上げる役割が安藤の分担だった。


 角屋において国事を論じる会合のあと、島原の遊女を総揚げにしての宴が催されている。安藤の口添えで、三崎屋からも睦月太夫はじめ、芸妓、舞妓が大勢、呼ばれていた。今時分、角屋に集う隊士たちは、だいぶできあがっている頃だろう。


 軒端を叩く雨の音、賑やかな三味線や太鼓の音に紛れ、尺八の音が聞こえてきた。『心月孤月、光呑万象』の澄み切った境地を表す〝心月〟と名付けられた静謐な曲だった。

 葛山だと直感した。


 尺八の音色は人様々である。葛山の調べは哀切でしかも気品があるが、どこか投げやりな響きがあった。


 篠突く雨の中、唐傘を片手に、音のする通りへ足を向けた。道筋から太夫町通に出る。


 雨中に佇む虚無僧の姿があった。簾のような雨に霞む、朧げな姿は一回り厚みをなくしていた。

 安藤はふふんと鼻を鳴らした。足下で容赦なく雨飛沫が跳ね上がる。


「おい。葛山」

 考える前に呼びかけていた。


 尺八の音色が途絶え、天蓋のなかの暗い闇が、静かに振り向いた。安藤と知って、丁重に頭を下げた。


 二人して雨粒を避け、庇の深い米屋の軒下を借りた。


「亡き如月に、毎夜、尺八を聞かせに参っておるのか。詰まらぬ感傷じゃな」

 安藤の言葉に、天蓋を被ったままの葛山の足先が、ぴくりと動いた。


「なあ、葛山。如月が生き返るわけもなし。華やかな遊里で、そのように湿っぽい尺の音なぞ、商いの邪魔でしかないとは思わぬか」


「拙者には、他に手向けるものとて、ありませぬゆえ」

 葛山は静かだが、抗議の響きを宿らせた返答をよこした。天蓋の内の表情は読み取れなかった。

 地面をえぐるように、大粒の雨が隙間なく降り落ちる。


 さっさと角屋に向かえば良かったと、安藤は少しばかり後悔した。


 よし、どうせなら……。

 安藤は暗い夜空から落ちかかる無数の白い糸を見上げた。


「菩提を弔う気持ちはわかるが、もっと前向きにならぬか。貴公は、まだ若い。貴公の力を世のために生かす道を考えぬか」

 できるだけ厳かに問いかけた。


「と、申されますと?」

「わが新撰組は、如月が懸命に生きた、この京師の護りを担っておる。どうじゃ。貴公も新撰組隊士となって、王城の平穏をともに守ろうではないか」

 雨の音に負けぬよう、言葉に力を籠めた。店の奥に座して居眠りしていた米屋の主が驚いたように安藤を見た。 


「拙者には、そのように大それた力量などございませぬ」

 天蓋が左右に動いた。


「いやいや。謙遜せずともよい。貴殿の立ち居振る舞いや目の動きを見て、技量がわからぬわしではないぞ」

 立ち合うどころか、葛山が剣や竹刀を握る姿さえ見た験しがないが、適当に持ち上げた。


「わしのごとき弓の才では、大して買われもせぬがな。ははは」

 安藤は自嘲した。隊内で軽んじられている証拠に、今宵も詰まらぬ役目である。


「なあ、葛山。一度、屯所に参らぬか。悪いようにはせぬ」

 雨に濡れそぼった葛山の肩に手を置いた。

 雨の冷たさのせいか、葛山の体に温もりはなかった。


 意地でも説き伏せたい。新撰組は、まだまだ隊士が足りない。葛山を紹介すれば、近藤局長の覚えも、めでたくなる。

 葛山の肩を掴んだ指に力が籠もった。


 無言のまま葛山は、足下で間断なく戯れる雨の飛沫を見詰めている。安藤が、重ねて勧誘せねばと口を開きかけたとき……。


「虚無僧になるに際しても、骨折りをいただき申したが、またもお世話になり申す」

 あっさり決意した葛山に、安藤はあんぐりと大口を開けるほど驚いた。


「よろしくお願い申します。ご紹介の折には、それなりにお礼を致しますが、あいにく今は、これだけしか持ち合わせぬゆえ……。ご笑納ください」

 葛山は懐からいくばくかの銭を取り出し、雨で湿った懐紙に包んで手渡してきた。


「あ、いや。わしは決して礼など……」

 頭を掻きながら押し頂き、懐に素早くしまった。


「では、これにて失礼致します」

 葛山は丁寧に一礼し、濡れるのもいとわず、雨中に消えた。


 もしや……。

 遠くの地鳴りのような雨音の中で、唐突に気付いた。


 葛山は安藤の卑しさを承知で、今まで騙された振りをしていたのではないか、と。


 相手の言を疑うは、己の品性の下劣さにほかならぬ、とでも考えそうな男である。


 まあ、よい。くれる銭は、貰っておけばよい。わしとて、姑息に生きるしか才がないと、諦められる歳になったということか。

 喉を逆流した胃液のような苦い笑いが込み上げた。


 安藤だけが特別卑しいわけではない。葛山のように清心に生きんとする生き方も、わが心を満足させるため生きている点では、同じではないか。


 当節、〝己の一命を賭して大義に生きる〟などと、青臭く息巻く若者が多いが、とどのつまり、己の満足のためでしかない。


 格好をつけるも人生、実利に走るも人生。

 勢いよく唐傘を広げて雨の通りに踏み出すと、道筋にとって返した。


 人通りの絶えた揚屋町通を左に曲がり、粋な格子が長く続く角屋の玄関へ向かった。

 角屋の紋を染め抜いた大暖簾が掛かる玄関が、安藤を飲み込もうと、大口を開けて待ち構えていた。常軌を逸したどんちゃん騒ぎが、激しい雨音をものともせず、揚屋町通にまで溢れ出している。




 いよいよ今宵、決行される。




 近頃とみに張りが弱くなった手で、使う予定のない大刀の柄がしらの感触を確かめた。



            六



 安藤が玄関を潜って建物に入るや、見世の者が恭しく腰の物を受け取って刀掛けに置いた。真っ直ぐ進んだ右手に、二十八畳ある〝網代ノ間〟が見えるが、客はおらず、暗かった。


「今日は昼間から雨がひどおすから、お客様がたの貸し切りどすえ」

 着物の裾を優雅に引きながら、若い仲居が腰を低くして奥へと案内した。


 角屋で一番の大座敷〝松ノ間〟は四十三畳敷だった。座敷の前庭に地を這うごとく生え広がる〝臥龍松〟から部屋の名前が付けられている。


 雨に煙る坪庭を見ながら歩むうちに、奥座敷での狂態はますます大音声となった。


 只酒と思うて、揃いも揃って派手にやっておる。


 会津侯による慰労の大盤振る舞いという触れ込みであるが、〝大事〟を成し遂げるための近藤一派の〝投資〟だった。


 顎を節くれ立ったごつい指で撫でた。ふと指にこわばりを感じた安藤は一つ大きく深呼吸した。


 精気を持て余す若い隊士が一堂に会して酒が回れば、喧嘩は必然である。

 松ノ間だけでなく廊下でも派手な怒声や罵声が飛び交い、蹴り合い殴り合っていた。仲居が片付ける間にも誰かが酒をこぼして皿や小鉢を派手にひっくり返す。


 無邪気なもんじゃ。今夜の計画を存じておるのはわしら数人ゆえな。

 近藤・土方をはじめ、沖田と山南と原田の顔を順に目で追った。


 近藤はこの場に居残る手筈で、残る四名が刺客だった。

 試衛館生え抜きと一線を画されている点は面白くないが、危険な綱渡りも御免である。


 仄暗い庭で、雨を纏った臥龍松が黒々と身をくねらせていた。


 落ち着かぬのは安藤より他の五人だろう。

 教養人を気取る山南はいつものごとく静かな酒だが、沖田や原田は冗談を言い合って明るく場を盛り上げているものの、ときおり黙り込んでしまうせいで不自然さを隠せなかった。


 茶室の一つ、曲木亭が雨のため遙か遠景に感じられた。

 枯山水の庭に浮かぶ屋形船に模した造りの渡り廊下に目をやると、囲いにもたれて独り手酌で呑む斎藤一の姿があった。

 斎藤は酒さえあればご機嫌なので、このまま朝まで酔い潰れもせず淡々と一人で飲み続けそうである。


 隊士は夜を徹して飲み明かす。人気のない屯所に芹沢と平山五郎を連れ帰ってさらに酔わせたうえ、寝入った頃を見計らって討ち取る算段だった。


 近藤は『芹沢に重用されている平山五郎は抹殺せねばならぬ。じゃが野口健司は二十一と若いゆえ、今後もし改悛が認められようなら見逃す』との意向であるため、野口は足止めしてやらねばならない。

 永倉新八も〝鬼門〟なので、絶対に屯所に戻してはならない。


 果たして全員が筋書き通りに都合良く動くものかと思えば、安藤の腋に厭な汗が滲んだ。


 幸い永倉も野口も酔い潰れて横になっていた。隊士が走り回って歓声怒声が渦巻く最中にも拘わらず、永倉は大の字になって高いびきである。


「屯所に戻ってゆっくり飲み直すと致しましょう。駕籠もすでに待たせてあり申す」

 上座に陣取った芹沢に土方が勧めている。酔眼の芹沢が、怪訝そうに土方をじろりと睨んだ。


「お梅殿も待っておられますゆえ」

 土方が殺し文句を芹沢の耳に吹き込んだ。


「なに、お梅が参っておるのか」

 芹沢の目がかっと見開かれ、灯火にきらりと輝いた。


 お梅は歳の頃は二十二、三の徒な美形だった。

 四条堀川の太物問屋である菱屋太兵衛の妾だったが、掛け取りに通ううちに芹沢と懇ろになった女で、安藤も大いに目の保養にしていた。


「平山さまには敵娼の吉栄を、平間殿にはお気に入りの糸里を呼んであります」

「なんだ。えらく手回しがよいではないか」

 芹沢の隣の上座を占めていた平山五郎が、呂律の回らぬ唇を舌舐めずりした。


「糸里も吉栄も『島原の芸妓を総揚げというのに、うちらは呼ばれなかった』と、拗ねておりましたよ」 

 いつの間にか近くまでやってきた沖田が、冗談めかして平山に告げた。


 酔ったふりをしているものの、沖田の笑顔にはぎこちなさが目立った。


「ここだけの話、拙者も、近藤局長が小者ゆえ物足りのう感じておる所存です。今宵は腹を割って酒を酌み交わそうと準備致したしだいです」

 土方は、床の間の柱に凭れて寝入っている近藤を目で差した。


「さもあろう。貴殿はなかなか目先が利くのお」

 芹沢は剛胆だが、持って生まれた豪気さゆえ、土方のごとき〝狐〟の嘘を見抜けないのだろう。

 安藤は計画が順調に運ぶ有様に安堵した。


 座敷をあとにする芹沢と平山に続き、芹沢の下僕のような役回りの平間重助があたふたと席を立った。


「おお。巨魁局長はお帰りか。なら拙者も、そろそろ戻ると致そうかのお」

 永倉新八が突如むくりと起き上がるや、しゃきんと立ち上がった。


 安藤は思わず沖田と目を合わせた。


「永倉殿。拙者と呑もうではないか。実は貴殿を見込んで折り入って頼みがあってな」

 安藤は咄嗟に永倉の腕を掴んだ。


「なんだ。安藤氏。拙者に頼みとは珍しいな」

 永倉は嬉しげににやりと笑った。


 安藤は永倉の両肩を抱くようにして再び席に座らせた。


「拙者はつい先ほど参ったところでな。相談の前に駆けつけの一杯をば頂こう」


「おおそうかそうか。楽しい宴であったのに残念であったな」

 永倉は安藤が差し出した盃になみなみと酒を注ぎ、溢れた酒が畳にこぼれた。


「今宵はのお。安藤氏。芹沢・平山両巨頭と近藤殿が心胆を相照らして真に和解すべく、会津侯がわざわざ御用意くださった記念すべき宴であったに。不在であったとは残念至極」

 芹沢と平山を《両巨頭》呼ばわりする永倉の言葉に、安藤は、やはり引き留めねば大事になったと肝を冷やした。


「……で、相談と申すはほかでもござらぬ。わしの虚無僧仲間であった葛山武八郎と申す男が入隊を希望しておりますが……」

 永倉に相談すべき用件ではないが、酔っている永倉は矛盾に気付かず「ふむふむ」などと応じる。安藤は永倉の盃に酒を威勢良く注ぎ込んだ。


 庭に目を転じれば、銀のような大粒の雨が、松の枝を折れよとばかりに叩く。


 暗殺は隊内に潜り込んでいた長州の間者の仕業であったと触れ回る筋書きである。 

 そのために間者と思しき三名は、今日まで隊内で野放しにされてきた。


 三名に罪を着せるためには、真の刺客は、手傷の一つたりとも負ってはならない。


 刺客全員が無傷で暗殺を終えるとなればしごく難しい。

 考えれば、平静さを取り戻しつつあった安藤の心ノ臓が、またもどくどくと己を主張し始めた。


 いやいや、失敗に終わった場合でも、わしが荷担していたことを、近藤一派以外誰も知らぬ。近藤派が返り討ちに遭えば、芹沢局長にすり寄ればよいまでのことじゃ。

 思い直した安藤は、ごつい胸板を撫でた。



             七



 屯所からの急報に、隊士たちは次々、押っ取り刀で角屋を飛び出した。

 まだ明けやらぬ闇の中を提灯片手に息せき切って、ぬかるんだ坊城通を駈ける。


 八木源之丞邸と前川荘司邸が向き合う坊城通には、屯所の下僕や女中のほか、騒ぎを聞きつけた近所の郷士宅の人々が不安げに並び、ひそひそ囁き合いながら八木邸の内を窺っていた。


 建てられたばかりで杉の香が芳しい道場――文武館を右手に見て長屋門を潜った。

 安藤ら副長助勤以上の幹部のみが八木邸内に入る。

 屋敷に入らぬうちから血の臭いが鼻を突いた。


 草履のまま本玄関から上がると、中の間の襖が開いており、奥の間の惨劇が厭でも目に入った。


 庭に面した十畳の間は屏風で仕切られ、芹沢とお梅が庭側で、平山と吉栄が玄関側で同衾していたらしい。

 寝床に吉栄の姿はなく、平山が首を切断されて即死していた。燭台や提灯の灯りに、血をたっぷりと含んだ夜具が生々しい。


 平山は驚愕の色さえ浮かべていなかった。文字通りやすらかに眠っている。ぐっすり眠ったままあの世に直行とは羨ましい限りだった。


 離れておっては寂しかろう。

 畳に転がった平山の生首を掴み上げ、胴とぴったりくっつくように置いてやった。


 屏風は殆ど原型を止めていなかった。

 熟睡する平山を一気に葬り、屏風越しに芹沢とお梅を滅多突きにしたらしく、布団の上には、首が皮一枚で繋がったお梅の死骸が転がっている。

 苦悶と恐怖を張り付かせた青白い顔が哀れだった。


 黒々と木々が茂る庭に面した濡れ縁に出た。


 重傷を負った芹沢は廊下を辿って隣室まで逃げ込んだものの、敷居際に置かれていた文机につまずいて倒れ、背後からめった斬りにされた、と推測された。


 膾に切り刻まれた遺体からは、芹沢の恐怖よりも、むしろ暗殺者の恐怖が伝わって来た。


「これは酷い」

「何者の仕業か」

 真相を知らぬ松原忠司や尾形俊太郎ら幹部が驚愕し憤っている。安藤らも動揺した芝居を面映ゆい気持ちで演じねばならない。


「国家的損失だ」

 濡れ縁に立ち尽くした永倉新八は、涙を堪えながら拳を強く握りしめている。

「芹沢先生も平山先生も、これから天下国家に打って出るべき逸材であったのに」

 永倉は苔むした庭にひらりと降り立つや、腰の播州住手柄山氏繁を抜き放って庭木に斬りつけ、めちゃくちゃに草を薙いだ。


 永倉の乱心ぶりを間近に見た安藤は、満身に百足が這い回るごとく総毛立った。 


「長州の間者の仕業に違いない。拙者は深夜に前川邸に戻ったから命拾い致したが、ここで酔い潰れておればと思えば、ぞっと致す」

 土方が誰に言うともなく大声で語る。


「屯所を襲うとは大胆不敵。皆が島原に出払っておったのをまたとなき好機と見たのだな」

 藤堂が生っ白い坊ちゃん面を紅くして憤慨する。


 原田は落ち着かぬふうでうろついている。


 斎藤はいつもの無表情さで、濡れ縁の柱を背に傍観である。


 芹沢派生き残りの野口健司は顔面蒼白で、茫然自失の体に見えた。


 試衛館生え抜きだが刺客に加わっていない井上源三郎が、そこここを検分するかのように歩き回っている。

 井上は生真面目ゆえ、誤魔化しが利かない。謀から外されたのだろう。

 井上と目が合ったので、ご苦労様ですとの意味合いで目礼した。


 ふと見れば、近藤が芹沢の遺体に、自ら着ていた羽織を脱いで羽織らせ、神妙に合掌していた。

 とても暗殺劇の首魁とは見えない。


 同志の死を悼む近藤の姿に、坊主頭が似合う弁慶のような松原と、勤勉さが取り得の尾形が、感極まったふうに手を合わせた。


 近藤局長もなかなか役者じゃないかと、笑いが込み上げてきた。

 だが……。

 立ち上がった近藤の、四角い顔に鎮座する金壺眼が、灯火にきらりと光った。


 芹沢局長の暗殺は近藤局長の本意ではなかったのだろうか。

 惨状を目の当たりにして急に気が咎めたのか。


 瞳が光っているのは涙だと気付いた。


「ねえ、凄いですね」

 傍観者じみた口調で、沖田が安藤の耳元に顔を寄せた。


「暗くってねえ。何がなにやらわからず大変でしたよ。同士討ちの恐れだってありましたからね。あー、凄かった」

 誰かに体験談を話したくて疼々しているらしい。くくくと乾いた声で笑った。


「土方さんが九つ頃に戻って、それぞれが寝ている場所を確かめてくれたおかげで仕損じずに済みましたがね。危ない、危ない」

 沖田は修羅場を芯から楽しんでいたのだろう。


「吉栄さんはちょうど厠へ行ってたなんて、ほんとうまく命拾いしましよね。で……」

 沖田はなおもぺらぺら打ち明け話を続けた。


 誰ぞに聞こえぬか、ひやひやしながら周りに目を走らせたそのとき。 


「平間氏は、うまく逃げおおせたようだな」

 庭で愛刀を振り回していたはずの永倉が、いきなり声を掛けてきた。


 安藤は心ノ臓が口から飛び出しかけて慌てて飲み込んだ。


「平間さんは、芹沢局長が水戸から連れてきた下僕同様の人でしたからね。ははは。雑魚ゆえ長州人は狙いもしなかったってことですかね」

 沖田が、眉一つ動かさず、しらじらしく返答した。


「拙者は長州の間者どもを必ずやこの手で叩っ斬ってみせる」

 永倉の決意を籠めた暗い眼差しに、

「左様。わしもそのつもりじゃ」と迎合した。


「拙者には間者の目星がついておる。近いうちに誘い出して仇を討つ」

 永倉は息巻いた。




 次は日を置かずして間者の一掃である。

 芹沢・平山の仇討ちを成し遂げて、芹沢暗殺事件は幕引きされる。


 近藤や土方が間者とにらむ、御倉伊勢武や荒木田左馬之介ら四名の若者の、生真面目そうな顔を思い浮かべた。


 真の間者でなければ哀れだった。だが、疑われる手合いは要領が悪いのだ。


 要領が悪いといえば……。

 安藤は葛山の、愁いの影が張り付いた顔を思い浮かべた。


 芹沢・平山両氏の葬儀が終われば、葛山の気が変わらぬうちに呼び寄せよう。

 葛山なら仮隊士扱いではなくすぐに正式入隊を許されるに違いない。多少なりとも学があるから、教養人好きな近藤の眼鏡に適うだろう。


 新撰組を大きくしたい土方も喜び、大いに点数が稼げる。


 安藤は胸算用しながらほくそ笑んだ。


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