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30 居心地の悪い時間

 よく焼かれ、ひと口サイズにカットされて出されたうさぎ肉をあたしは食べなかった。実際に見たわけでもないのに、グラーフラートが丸々太った白うさぎの首に噛みつき、首の骨を噛み折って殺す映像が頭に浮かんでしまう。

 わかっている。食物連鎖に従って生き物を殺し、その肉を食べることは悪ではない。グラーフラートが言ったように共生派国でも行われている営みだ。けれどあたしはその行為を自分とは遠い場所で行われる他人事だと思っていた。いや、その行為を認識すらしていなかった。ただ無邪気に母さんの作るから揚げを食べ、学校帰りに友だちとハンバーガーを食べ、昨夜だってマグロのネギトロ巻きを食べた。あたしだって他者の命を奪い、自分の血肉に変えて生きている。

 野蛮だと本当に罵るべき相手は狩りをする者ではなく、狩りでもないのに他者をむやみに傷つける者だ。例えば昨日窃盗のためにあたしたちを襲い、ユキトを噛んだシェパードたちのように。

 わかっている。けれど、理解はできても納得はできない。心が追いついていかない。もしグラーフラートがあたしの目の前でうさぎに向かっていったら、あたしは迷わず彼を止めるだろう。それでたとえ飢えることになろうとも、あたしはきっと、目の前で命が奪われることに耐えられない。

 だからこそだ。

 だからこそ、あたしはアキラと共に家を出たのだ。

 急速に短くなっていく蠟燭の火をただ見つめ続けるくらいなら、その火に覆いかぶさって、自らの血肉を火消しにしよう、と。

「アイリ、いいかげんこちらへ来い」

 昼食を終えて部屋に戻されたあたしは、掃き出し窓の前に座り続けた。なぜなら一緒に部屋へ入ってきたグラーフラートが暖炉の前の一人掛けローソファにいたからだ。ローソファはもう一つあって、グラーフラートはしきりにそこへ座るよう促してきたが、あたしは徹底的に無視していた。

「いつまで機嫌を損ねているつもりだ。もう生肉は出さないと言っただろう」

 給仕に運ばせたクッキーのようなものを齧り、紅茶を舐めながら彼は言うが、見当違いも甚だしい。この男は自分が犬攫いだということを、忘れているのかもしれない。

 何度も声をかけられてうっとうしいので、さらに距離をとろうとあたしは掃き出し窓を開けてバルコニーへ出た。部屋の入り口が肉球認証式なのと違い、掃き出し窓はボタンひとつで簡単に開く。その理由は明快だ。ひとつは、この部屋が監禁用に作られた部屋ではないということ。最初の印象どおり、おそらくもとは客間で、部屋の入り口には客犬の肉球を登録するようになっているのだろう。

 そして更なる理由は、バルコニーから庭園を見下ろして初めてわかった。思ったよりも高さがあるのだ。目測で、地上まで二メートルほど。猫はともかく、犬が飛び降りられる高さではない。地面には雪が積もっているとはいえ、あらかた踏み固められているためクッション性も期待できなかった。

 また、何より障害なのが、警備犬の存在だ。見たところ、庭園には常時二人の警備犬が配備されている。彼らの五感に察知されずに庭園を通り抜けることは不可能に近かった。

 気の滅入るような曇天のもと、キンとした冷気が濡れた鼻先を急激に冷やす。灰色の空をぼんやりと眺めて、はたと孤独を思い出し、ずいぶん遠くまで来てしまったなと思う。家出をしてまだ一週間と少ししか経っていないというのに、トーキョーの家が恋しかった。

 去年の正月は、家族四人ですき焼きをした。リビングにこたつを置いて四人で囲み、いっぱいの野菜ときのこと、ちょっと奮発した霜降り牛。母さんが生卵を解いてくれて、父さんが焼き豆腐を『熱いから気をつけろ』って小さく切ってくれて。アキラがお笑い番組を見てケラケラ笑ってるの。それで、ビールを飲んで気をよくした父さんが、『今年の目標を一人ひとつ決めよう』って言い出して、父さん自身は五キロ瘦せるんだって。母さんは、通ってるお習字教室の展示会に作品を出すって。あたしは、学年で十位以内の成績をとるって答えた。アキラは何て言ってたっけ。

 そうだ、アキラは『考えとく』って言ったきり、結局教えてくれなかった。アキラは何を目標に一年を過ごしたのだろう。

 アキラの目標は、達成されたのだろうか。

「風邪を引くぞ」

 振り向くと、グラーフラートが掃き出し窓のところに座っていた。返事をする義理もないので無視していたら、彼は毛布を引っ張り出してきてバルコニーの床に敷いた。

「肉球が冷える」

 そう呟く声には善意しか感じられなかった。不思議に思う。彼はあたしを誘拐し、監禁している。なのに彼は、完全なる悪にも見えない。

 と、そこまで考えてかぶりを振った。良くない思考だ。誘拐や監禁の被害者が犯人に好意を持ってしまうというストックホルム症候群の前兆かもしれない。

 あたしはグラーフラートの敷いた毛布を蹴りやった。グラーフラートは小さくため息をつくが、怒りはしない。ただあたしを見ているだけだ。

 だからあたしは彼と目が合わないように手すりの外の景色を眺めていた。庭園の常緑樹の枝葉、その奥の高い壁、そしてさらに向こうに見える、三角屋根とカラフルな壁を持つ家々。道を行き交うシェパードたち。親子連れもいる。道沿いには商店もある。耳を澄ますと、子犬たちのキャンキャン戯れる声がどこからか聞こえてくる。

「外へ出たいか?」

 問われてあたしは振り返った。グラーフラートは柔和な目をしていた。

「私はこのあと執務があるから行けないが、供(とも)を用意しよう。城下を見てくるといい」

 少し迷ったが、断る理由はなかった。この部屋に閉じ込められているより外に出た方が脱出の機会もありそうだ。

 なにより、このままグラーフラートと二人きりでいると、自分が何か変わってしまいそうで嫌だった。それは怖いというのとも少し違う。ざわつくような、ざらつくような、得体の知れない感情だった。

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