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29 昼食をともに

 あたしはグラーフラートに連れられて一階のダイニングへ向かった。

 グラーフラートは隙のない男だった。あたしに後ろを歩かせて、背を晒しているのに、攻撃できる気も逃げられる気もしない。ヤツの放つ粘質のオーラのようなものが、背後のあたしまでをも包み込み、反撃と逃亡を封じているかのようだった。こんな得体の知れない性質を持つ犬は、共生派国にはいない。少なくともあたしが十七年生きてきて出会ったことはない。

「腹は減っているか」

 当然減っていたが、あたしは答えなかった。昨夜の食事以降、毒入り紅茶を飲んだきりだ。

「何か喋ってくれ。お前の声が聞きたい」

 そう言われると悪態すら吐く気が失せた。

 ダイニングには、犬が十五人は座れそうな長いローテーブルと座椅子があり、壁際に給仕の犬が二人控えていた。奥から三席分、食事の器が用意されている。ホーリーはすでに自分の席についていた。あたしは給仕にホーリーの向かいの席へ座るよう促され、グラーフラートはあたしとホーリーのはす向かいに腰を下ろす。

 給仕がやってきて、飲み物の器に水を注いだ。そして食べ物の器に見たことのないドライフルーツを置いていく。大きさはピンポン玉程度。色は深い赤紫で、見た目だけならプルーンに似ている。

「雪りんどうの五年物でございます」

 瞬時には理解できないワードが並び、怪訝に思っていると、給仕がつけ加えた。

「雪りんどうは、雪りんごと雪ぶどうの交配により生まれたフルーツで、シュテファニッツの名産品です。我が国の一部の特殊な条件下でしか育ちません。その五年物というのは、五年間かけて乾燥・熟成させたドライフルーツという意味です。どうぞ、ご賞味ください」

「何も盛ってはいないぞ」

 雪りんどうを噛みながらグラーフラートが言う。ホーリーもまた口を動かしながら笑った。

「一度盛った犬の言葉ほど信用できないものはないわね」

「うるさいぞ、ホル」

「あらあら、余裕のない男は嫌われますわよ、グラーフラート王」

「口うるさい女も嫁ぎ先が見つからんだろうなぁ、ホーリー姫殿下」

 あたしは兄妹のくだらない言い合いをBGMに雪りんどうに鼻を近づけた。盛られた薬の副作用で、まだにおいはしない。けれど、食欲は一気に刺激されて胃がくぅと鳴る。

 あたしは雪りんどうを口にした。噛んだ瞬間、ぶつんと小気味良い食感がして、フレッシュフルーツのような甘酸っぱさが口内に広がった。続けて噛んでいくと酸味は引き、芳醇な甘さがだけが残る。かと思えば僅かな塩味が現れて、甘味を一層引き立てる。噛めば噛むほど味が変わる。とても複雑で濃厚な味わい。嗅覚が死んでいてさえ感動を覚える。

「美味いか? お前のために急ぎ産地から取り寄せたんだ」

 グラーフラートが得意げな顔をする。あたしは答えないまま口の中のものを飲み込んだ。

 皆が雪りんどうを食べ終えると、器が下げられて新しい器が運ばれてきた。

 その中身を見た瞬間、あたしは息を呑んだ。さあっと音を立てて全身の温度が失われていく感じがした。

 器の中には血の滴る生肉があった。

「どうだ、良い肉だろう。お前のために狩ってきた」

 ミィ、と耳の奥で鳴き声がして、子猫の姿がよみがえる。体の底から思い出された嫌悪と憤りが、そのまま唇を動かす。

「野蛮犬……」

「なんだと」

 グラーフラートは明らかに気色ばんだが、あたしは止まらなかった。

「野蛮だって言ったのよ。狩りって何を狩ったの? また子猫?」

「またとはなんだ。その肉はうさぎだぞ」

「うさぎだって同じよ。その牙で噛み殺したんでしょう」

 ミィ、とまた鳴き声がする。

「ああそうだ。それが我らの狩猟方法だからな。ヒトが鹿を銃で撃つのと何が違う」

「ヒトは狩猟対象を血塗れにして利用したりしない」

「何の話をしている。残忍さでいえば、牛や豚から自由を奪い、狭い部屋に押し込めて太らせたあげく屠殺(とさつ)するヒトのやり方の方がよほど上ではないか」

 ミャーオ。

 記憶ではない鳴き声が明確に聞こえて、あたしはその方向を見た。ダイニングの片隅で犬用の大きな器にむしゃぶりつく小さな猫。頭がすっぽり器に隠れて見えない。そのそばに給仕のシェパードが座っていて、子猫の食事を見守っている。

「言っておくが、あれは家畜ではないぞ。昨夜拾った。カラスにつつかれて怪我をしていたからな。お前も見ただろう」

「あんたが噛んで怪我させたんじゃないの?」

「馬鹿な。私たちがあのモーテルに着いたとき、親からはぐれたであろう子猫をカラスがつついて弄んでいたのだ。そのカラスを私が追い払った。けれど子猫は私に食われると思ったのだろう、傷ついた体でモーテルの建物まで這っていき、力尽き倒れた。私は猫を保護しようとしてあの窓の下にいたのだ。そうしたら、ターゲットのお前が窓から顔を出した。理由は知らんが、私にとっては僥倖だった」

「じゃあ、あたしを誘い出すために、半殺しにした子猫を利用したわけじゃないのね?」

「そんな下衆な真似はせん。私は国王だぞ。お前のことも、朝まで待ち伏せてモーテルから出てきたところを正々堂々攫おうと考えていた。その場合、連れの男二人と戦闘になったかもしれないが」

「冗談じゃないわ。アキラとユキトが怪我してたらあたし、あんたを許さなかった」

「そうか。ならばやはり僥倖だった。妃に疎まれ続けたくはないからな」

 ぞわりと背筋に悪寒が走る。

「その妃っていうのやめて。あんたなんかと結婚なんて絶対しない」

「何故だ? とうに適齢期だろう」

「そういう問題じゃないわ。それに適齢っていうけど、共生派の犬の十六歳はまだ高校生よ」

「十六か、私と同じではないか。うまくやれそうだ」

「やれないわよ!」

「なあホル、どう思う」

「そうねぇ」

 口元を赤く濡らしながら生肉を食いちぎり、ホーリーは呟く。あたしはその様を見て思わず顔をしかめてしまう。

「どんな美犬のシェパードにも落とせなかった兄さまを、一瞬でとりこにしたんだもの。アイリ以上の犬なんていないんじゃない?」

「だそうだ」

「無理。生肉を食べる文化からしてまず無理よ」

「共生派とは不思議だな。魚は生で食うくせに、肉は駄目なのか」

 ホーリー同様、口元を赤く濡らしたグラーフラートが口角だけで笑みを浮かべ、顎の動きで給仕を呼び寄せる。

「いかがいたしましたか」

「肉を焼いてやれ。さあ、お上品な共生派のお嬢さん、焼き加減のご希望は?」

「消し炭にして」

 グラーフラートが高らかに笑う。その足元に、食事を終えた包帯まみれの子猫がよろよろと歩いてきて、甘えるように擦り寄った。

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