音が。
風の音が、大きくなったり小さくなったり。一定の間隔で、シーソーが上がり下がりを繰り返すように。
ああ、誰かが耳を触っているとあたしは気づいた。あたしの垂れ耳を、持ち上げたり下ろしたりしている。
誰なのか知りたくて鼻に意識を集中させたが、どうしてだろう、何のにおいもしなかった。生き物のにおいだけじゃなく、空間のにおいも嗅ぎ取れない。
「やっぱりいいわねぇ、このお耳」
呟かれた独り言の声で、ようやくホーリーだとわかる。ああ彼女か、とただ思った。怒りも悲しみもない。頭の中に靄(もや)がかかっていて、感情の起伏が生まれない。
とても眠かった。このままもう一度、意識を手放してしまいたかった。
でもその時ふと、遠い遠いどこからか、アキラのにおいがしたのだ。宇宙空間にいて、数億光年先で手のひらサイズのアトマイザーをシュッとひと吹きされたかのように。
だからあたしは重い瞼を上げた。
「あら、もう起きたの」
ベッドに横向きに寝かされたあたしの鼻先に、両手と顎をあたしの枕の端に乗せて、じっとあたしを見つめるホーリーの鼻先があった。琥珀色の宝石のような美しい目。
「気分はどうかしら」
「……良いっていうと思う?」
「そうね。一服盛られていい気はしないわよね。でもわたしの指示じゃないわ」
あたしはベッドの上で体を起こした。
「においがしない」
「ああ、副作用ね。嗅覚が麻痺するの。半日もすれば元に戻るわ」
「あんたの兄貴って最低」
「同感。わたしもそう思う」
「あんたも同罪よ」
「ええ、わかってるわ。不本意だけどね」
へらっと笑って答えるホーリーはどこか掴みどころのない感じがして、あたしは肩透かしを食らったような気になる。これ以上彼女に文句を言っても仕方ないと思い、あたしは今の自分の状況を確かめるべく室内を見渡した。
まず目につくのは今自分のいる天蓋つきベッドだ。こんなもの、生では初めて見た。天蓋から垂れ下がったレースカーテンは、ベッドの脚から上に伸びる四本のフレームにたわむように括られている。夜間には括りを解いて、レースカーテンで四方を覆うのだろう。
そのベッド越しに見える室内には、ドアが二つ、掃き出し窓が一つ、マントルピースつきの暖炉が一つ、暖炉の前にローテーブルが一つと一人掛けのローソファが一つずつ、そしてベッドサイドに猫脚のキャビネットが一つ。ベッドや部屋自体含めて全体的にそうだが、高さがヒト用の半分ほどになっている。犬にとっては使い勝手のいい部屋だ。
シンプルで余計な物のない、ホテルの一室のような印象だった。おそらくは客間なのだろう。だとすると、二つのドアのうちの一つは出入り口で、もう一つは水場―――つまりはバスルーム。
そして、意識を失う直前のあの男の『二階へ運べ』という言葉と、掃き出し窓から見える常緑樹の枝葉から察するに、ここは二階で、城の裏手側の部屋だ。
「どこから逃げようか考えてるのかしら」
ホーリーがベッドにぴょんと乗ってきた。「駄目よ、逃がさないためにわたしがいるんだから」
「ねえ、あなたはお姫さまなんでしょ? 誘拐したヤツの監視なんてしてないで、自分のお部屋に戻ってお犬形遊びでもしていなさいよ」
「うふふ、わたしもう十五よ? 犬形より本物がいいの」
ホーリーはそう言って体をくっつけてくる。北国に適応した厚い冬毛越しに彼女の体温を感じて、あたしは居心地の悪さにベッドを下りた。
「つれなぁい」
「べたべたするのは好きじゃないの」
「いいわ。あなたはどのみち兄さまのものになるし、そうしたらわたしのものも同然だもの」
「冗談言わないで」
そういえば妃がどうとかあの男は言っていた。けれど自分にその気はない。初対面の男、それも反人派の野蛮なシェパードなどと結ばれてたまるか。
二つのドアのうちの一つに向かう。そこでふと気づく。ドアノブがない。
「下にボタンがあるのよ」
ベッドの上で寛いだままホーリーが言った。どうせ逃げられやしないと思っているらしい、その余裕がムカつく。
だが彼女の言うとおり、足元には踏みやすい平たいボタンが作りつけてある。それを押してみると、ドアは天井に収納されるように上がっていく。古風なデザインのくせに自動ドアなことには違和感があったが、考えてみれば、犬の体にはドアノブ式のドアよりこちらの方が合っている。
アキラたちと暮らす家では、ヒト用のドアノブの他にあたしのための低い位置のドアノブがあった。ドアを押し開ける、もしくは引き開ける、そして閉めるという作業は幼いころから繰り返してきたものなので特に疑問は感じなかったけれど、よくよく思い返せば、犬が本来実行しやすい動きではなかった。
ドアの先はバスルームだった。犬用の水洗トイレと犬用の低い湯船、湯船の少し上にはシャワーがついている。
あたしはもう一度ボタンを押してそのドアを閉めてから、もう一つのドアへ向かった。ホーリーはそんなあたしを愉快そうに眺めている。せいぜい油断していればいい。
もう一つのドアの前に立ち、ボタンを押した。しかし案の定、施錠されているらしく、ドアは開かない。とはいえ開ける方法はあるはずなのだ。なぜならホーリーがドアの内側にいるのだから。彼女ごと閉じ込められているのならば別だが。
ホーリーが上品に笑った。
「そのボタンはね、肉球の情報を鍵としてドアを開けるの。この国のドアは大体そう。あらかじめ登録された肉球の持ち主しか開けられないわ」
「へえ。あなたはこのドア、開けられるの?」
「どうかしら。開けられると言ったら、わたしをドアまで引きずっていく?」
「必要であれば」
「まあ怖い」
その時だった。何の前兆もなくドアは開いた。
ドアの向こうの廊下に、グラーフラートが立っていた。
「昼食の時間だ。ダイニングへ来い」
「兄さま遅ぉい。お腹すいちゃった」
ホーリーはベッドを下り、軽やかな足取りであたしの横を通り抜けて廊下へ出る。そしてあたしを振り向いた。
「開けられない、が答えよ。このドア、今は兄さましか開けられないの」
「ホル、余計な口をきくな」
「はぁい」
ホーリーは行ってしまう。グラーフラートの目はずっとあたしを見ている。
「お前も早く出ろ」
「この犯罪者」
言わずにはいられなかった。脅迫、誘拐、毒物投与、監禁。これが王と名のつく者のすることか。
「お前にしたことを思えば否定はしないが、私の名前は犯罪者でなくグラーフラートだ。発音しづらければグラフでいい」
「ひとでなし」
「犬だからな」
「悪党」
「……ならば悪党らしく、首根っこを噛んで引きずっていこうか。お前をモーテルの窓から引きずり出したときのように」
どうする、と不敵に問うヤツの目が、本気だと言っていた。
首を噛まれるということは、ヒトでいう首に刃物を当てられた状態と同じ。何度もそんな目には遭いたくないと、あたしはしぶしぶ部屋を出た。