雪原を超えて、森を超えたその先には町があった。赤茶色の三角屋根と、ピンクや黄色やオレンジなどのカラフルな壁面が特徴的な家々が並んでいて、どこかヨーロッパを思わせる。ただ違和感のあることに、それらの家々はヒトの家と比べて半分ほどの高さしかなかった。
シェパードたちは町の入り口まで来ると、走るのをやめてあたしをソリから下ろした。ソリを引いていた三人のシェパードは、ヤツの命令でソリごとどこかへ行ってしまい、あたしはヤツと少女シェパードと三人で歩かされることになった。
始めて来る反人派の国。その町。
道は石で舗装され、除雪もされ、街灯すら備わっている。建物が低いこと以外、ヒトの街と変わらない。
「グラーフラートさま、おかえりなさい」
建物のひとつから出てきたシェパードが、ヤツに声をかけた。
「ああ、ただいま」
とヤツは答える。その後も次々とシェパードたちが現れてはヤツに挨拶をしていった。そして彼らは皆、不思議そうだったり、値踏みするような目で、あたしをちらりと見るのだった。
「ごめんね、珍しいのよレトリバーって」
少女シェパードがあたしに体を寄せて耳打ちした。距離が近いなと思っていると、ヤツが目敏く「触るなよ?」と言い、少女シェパードは「触ってないじゃない」とおどけてみせる。
「グラーフラートさまぁ! これ見てぇ」
子どものシェパードがぴょんぴょんと駆けてきて、咥えていた何かをヤツの前に置いた。ネズミの死骸だった。あたしは思わず顔をしかめた。けどヤツは違った。
「すごいな。ネズミを狩れるようになったのか」
「うん! 早く大きくなって、グラーフラートさまと鹿狩りに行きたいなぁ」
「ああ。私も楽しみにしている」
「えへへ」
照れくさそうに笑う子犬の目が、不意にあたしを捉えた。無垢な眼差しだった。
「おねえちゃん、お耳が曲がってる! お怪我してるの?」
「えっ? いや……」
突如問われて、あたしは口ごもった。子犬は続ける。
「おねえちゃん、お色も白だねぇ。どうして僕と違うの?」
あたしは違和感と罪悪感から逃れるように顔を背けた。複雑な気持ちだった。この子に悪意はない。罪もない。けれど攫われてきた身で、その国の子からの無邪気な質問に親切に答えてやる気にはなれなかった。
「彼女はラブラドール・レトリバーなんだ。詳しく知りたければ、犬の図鑑を読んでごらん。世界にはいろんな種類の犬がいる」
ヤツが子犬に言うと、子犬は素直に頷き、ネズミの死骸をくわえて走っていった。
あたしたちはまた歩き出す。どこへ向かっているのかと問いたかったが、ヤツや監視役と口をきくのは嫌だった。
やがてあたしたちは町の中心までやってきた。そこには噴水広場があった。そして噴水の奥から続く坂を上った小高い場所に大きな城が建っていて、その周囲を防御するように高い壁がぐるりと城を囲んでいた。
ヤツを先頭にあたしたちが城に近づくと、門のところに控えていたシェパードが頭を下げた。彼は先ほどまでのシェパードたちよりひと回りは大きく、段違いに鍛え抜かれた肉体をしており、顔つきも厳しかった。首にはシルバーコインのペンダントをつけていた。
「お帰りなさいませ、グラーフラート王」
え、とあたしは思った。今、王と言ったのか。
「その者は捕虜でしょうか。ならば私が地下牢へ」
「余計な真似をするな、ウルンデ。彼女は客犬だ」
攫われたのだから捕虜の方が合っているだろうと内心では思ったが、地下牢などという漫画でしか見たことのない場所に閉じ込められるくらいなら、客でもなんでもよかった。
「お客犬でしたか。大変失礼いたしました」
慇懃に頭を下げつつも、その目はあたしを信用しないと言っていた。あたしが変な動きを見せればすぐさま喉元に食いついてやると言わんばかりの眼光だった。
あたしはその眼光に背中を刺されながら、ヤツに続いて門をくぐった。
雪に覆われた常緑樹の庭園を通り抜け、使用人らしきシェパードに迎えられてエントランスに入ると、あたしはリビングのような場所に通された。毛足の長いふかふかの絨毯、犬の座りやすい低めのソファセット、犬の高さに合わせたローテーブル。大窓からは、おそらく城の裏手側にあたる常緑樹の庭園が見える。表側が犬の出入りを意識した通路中心の構造だったのに対し、裏手側は室内からの観賞用に見える。
あたしは促されて、ソファに座るヤツの正面に腰かけた。監視役は当たり前のようにヤツの隣に腰を下ろす。
給仕がやってきて、あたしたちの前に器を置き、熱すぎない適温の紅茶を注いだ。あたしは喉がカラカラだったことを思い出し、器の中身を数口舐めた。
「お前、名前は何という」
悪びれもせず問うてくるヤツに、まずは自分が名乗れと定石通り返したくなったが、口にする前に少女シェパードがヤツを小突いた。
「兄さま、まずは自分から名乗るのが筋でしょう。ごめんね、あなた。わたしはホーリー。彼の妹よ。ほら、兄さまも」
妹に再び小突かれてヤツはやりづらそうに口を開く。
「グラーフラートだ。お前は?」
答える気もなくて黙っていると、グラーフラートは続けた。
「アイリと聞いたが、違うのか?」
「……どうして知ってるの」
話したくないのに思わず問うてしまうと、反応があったことに気をよくしたのかグラーフラートは口角を上げた。
「連れの男がお前をアイリと呼んでいたと、昼間お前に噛まれたシェパードが言っていた。いや、心配はいらない、ヤツは元気だ。地下牢で懲罰中ではあるが」
「心配なんてしないわよ。先に襲い掛かってきたのはあっちだもの。そう……あのシェパードたちはあんたの部下だったのね」
「勘違いするな、私が指示したわけじゃない。確かに彼らは我が国の犬だが、ヤンチャが過ぎて困っていてね。彼らだけじゃない。ヒトの国でいう半グレ連中が、町の外に拠点を作り、あちこちで傷害やら窃盗やらを繰り返している。王として、見過ごすことはできない」
「大変ね。でもあたしには関係ない」
「ああ、お前には関係のないことだ」
「だったらどうしてあたしを連れてきたの。あたしが噛んで怪我させたシェパードの復讐? いいえ、今の話だと違うんでしょ?」
「単純に、話してみたかった。共生派の犬が、それも女が、反人派の半グレに怯みもせず立ち向かい、手傷を負わせて追い返したなどという話は非常に珍しく興味深い」
「そう、何が聞きたいの? どうやって噛んだか? そんなの覚えてないわよ。どうして立ち向かおうと思ったかも覚えてない。ただ必死だっただけ。あんたのバカな国民があたしの友だちを噛んだから」
「すまなかった」
「謝罪なんてどうでもいいわ。それよりも、気が済んだならあたしを帰して」
「それはできない」
グラーフラートはきっぱりと言い切った。迷いも申し訳なさも、まるでなかった。逆にあたしの方が怯んでしまう。
「なによ。どうしてそんな」
「お前のことが気に入った」
「は?」
「私の妃(きさき)になれ、アイリ」
「……きさ、き?」
頭がフリーズする。そしてすぐさま再起動し、『漫画で読んだことのある展開だな』と呑気にあたしは思った。ただ、漫画を読んだときと違うのは、あたしの心がまったくトキめいていないということだ。
精悍なイケメン―――不本意だが客観的にはそう言わざるを得ない―――に突然告白されるドキドキ展開なのに、みじんも心が揺れない。
「あたし帰る」
このままここにいてはいけない。そう思ってソファから立ち上がった時、ぐにゃりと視界が歪んだ。一気に頭がぼうっとして、思考が止まる。脱力感に耐えられず、あたしは側頭部からソファに倒れた。そして目の前に見えた。
紅茶の器。
グラーフラートとホーリーはひと口も飲まなかった。うかつだった。
「二階へ運べ」
意識が途切れる直前、ヤツが冷静にそう言うのを聞いた。