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25 そして、いなくなった

 ユキトは僕を見て口の端を上げた。その顔はどこか嬉しそうにも見えた。

「ばーか、お前二輪免許持ってねーだろ」

「四輪ならある」

「聞いてねぇし。お前に無免許運転させちまったら、オレに免許取らせてくれたナカジマの兄貴に二度とツラ見せらんねぇ」

「そんなこと気にするんだ」

「ああ気にする。銃は平気で撃つのにな」

 自虐のように言われて、僕は返す言葉が見つからなかった。その話題には触れてはいけない気がしていた。アイリも聞こえていたはずだが、何も言わなかった。

 僕は結局これまでと同じようにサイドカーの後ろの座席に乗り込んだ。

 その後僕たちはイワテを順調に走り抜けてアオモリへ入った。イワテを走る間、犬道(けんどう)を行き交う犬たちの中にジャーマン・シェパードを見かけるたびに体が強張ったが、いずれも僕らを襲ったあの犬たちではなかった。雰囲気がまるで違った。親子連れや友人同士で和やかに駆け抜けていくシェパードには恐怖など感じない。彼らはヤツらに近しい強靭な肉体と鋭い牙を持ってはいたが、それらをヒトや別の犬に向けるようには見えなかった。

 ヤツらは異常だ。何を食べて、誰の教育を受けて、どんな環境で生きてきたら誰かを襲おうなどと思いつくのか。ヒトの犯罪者にもいえることだが、僕は不思議で堪らなかった。

 アオモリに入って三つ目の出口で僕たちは犬道(けんどう)を下りた。犬道(けんどう)の路面は犬の肉球に配慮した床暖房となっているため気づかなかったが、一般道に下りるとまるで別世界のごとく、あたり一面雪景色だった。車道以外の地面はすべて分厚い白で覆われている。つま先で少し蹴ったらアスファルトが出てくるようなトーキョーの積雪とはわけが違った。

 時刻は午後十時を回っていた。今夜の宿は、アオモリはツガルルのモーテルだ。三人一部屋。チェックインからチェックアウトまで完全セルフサービスで、食事はもちろんつかない。ゆえに今夜の夕食と明日の朝食をどこかで調達する必要があり、僕たちは通りがかりのローカルコンビニエンスストアへ寄って、レジ袋二つにパンパンの食料を買い込んだ。

 そして午後十一時ごろ、ようやくモーテルに到着した。モーテルは二階建てのアパートが横に伸びたような形の建物で、僕たちの泊まる一階は、部屋のドアの正面に車両を停められるようになっていた。

 バイクを降りて、事前にカイから伝えられていた暗証番号で部屋に入ると、僕たちは三台横並びのベッドを窓際からアイリ、僕、ユキトの順で陣取り、行儀悪くもベッドの上で夕飯を開け始めた。アイリはオーマ産本マグロのネギトロ巻き尽くし、僕はりんご牛の焼肉弁当、ユキトは味噌カレー牛乳ラーメンだ。長距離移動と途中のハプニングの疲れのためか、三人とも口数は少なく、ほぼ黙々と目の前の食べ物を口へ運んだ。会話といえば、アイリがユキトへ「傷の具合はどう?」と尋ね、ユキトが「モーマンタイ」と返し、そのワードをライフナビで検索した僕が「古っ」と言っただけだった。

 十五分ほどで夕食を終えると僕たちは順番にシャワーを浴びた。食事で上がった血糖値が眠気をさらに加速させたのか、皆、烏の行水のごとくあっという間に出てきて、部屋は日を跨ぐ前に消灯した。口々におやすみと言ったきり、誰も何も喋らなかった。僕は気絶するように意識を手放した。


 ユキトが拳銃を枕の下に入れるのを見た。

 真夜中、目を覚ました僕は隣のベッドで眠るユキトの枕の下に手を差し入れて、そこにあるものを抜き取った。ユキトは気づかない。なぜなら今、彼の頭は枕の上にないから。彼は頭まですっぽり掛布団にくるまり、餃子のようになってベッドに斜めに寝ていた。

 僕はユキトから盗んだものを持ってモーテルの外へ出た。月光に照らされたあたり一帯は相変わらずの銀世界だったが、不思議と寒さは感じなかった。僕はモーテルの駐車場に積もる雪の上に足跡をつけながら歩いた。見ると、僕は裸足だった。けれどそんなことは気にならなかった。手に持ったソレが、僕のすべての意識と感覚を奪っていた。

 田舎のロードサイドにぽつんと佇むモーテルは至極静謐だった。僕は誰もいない道路の中央まで歩いていき、ソレを構えた。撃ち方なんて知らない。ただ映画やドラマの見よう見まねで両腕を持ち上げ、引き金に人差し指を添えた。

 その時、目の端に影が動いた。モーテルの方を振り向くと、そこには犬の姿があった。

 僕にはその犬がシェパードに見えた。構えた銃口の先で、シェパードは僕に向かって走り出した。

 ズガーン!

 心臓を直接殴られたかのような衝撃。

 続いて、キーンと耳の内側で音が鳴る。

 シェパードが厚い雪の上に倒れる。僕は銃口を下ろして恐る恐るシェパードに近寄った。

 僕の放った銃弾は正面からシェパードの左胸を撃ち抜いたらしい。その場所の毛皮は赤黒く濡れ、白い雪にもその色がじわじわと広がっていた。

 シェパードはまだ生きていた。僕が近づくと、つむっていた目を開けて僕を見た。

 その目はアーモンド形だった。その目は僕をちっとも恨んでいやしなかった。

「心臓を撃ってくれてよかった」

 と彼女は言った。どうしてかと僕は尋ねた。

「だって頭を撃たれたら困るもの」

「どうして?」

「脳はあなたにあげたいの、アキラ」

 僕は両目をこすってもう一度シェパードを見た。

 彼女はシェパードではなかった。

「アイリ……!」

 彼女はラブラドール・レトリバーだった。僕は途端に息ができなくなる。手に持っていたソレが怖くなり、雪の上に落とすように捨てた。

「あたしを貰って」

「アイリ、僕はなんてこと……」

「あたしの命で生きて」

「できない! ああ、アイリ血が、どうしたら」

「どうせ犬の命は五十年。でもあなたの脳になれば百年生きられる」

「何言ってるんだ。ごめんよアイリ、必ず助けるからっ」

「助からない」

「やめてくれ! 誰か……誰か救急車ッ! ユキト!」

「いくじなし」


「起きろ、起きろアキラ」

 頬を刺す冷たい風と、焦った声、体を揺さぶられる感覚に、深く沈んでいた意識が急上昇する。最後に頬を張られてようやく僕は目を開けた。ドアップで飛び込んできたユキトの顔に少なからず憤りを感じて上体を起こす。

「なんなんだよ。叩くなよ」

「アイリがいない」

「えっ?」

 窓際のベッドを見ると、もぬけの殻だった。寒冷地特有の二重窓が二枚とも開いていて、カーテンがたなびいている。刺すような冷気はそこから来ていたのだと気づく。

 窓の外はまだ薄暗い。ヘッドボードの時計を見ると、午前四時を過ぎたところだった。

「散歩、じゃないの?」

「んなわけねーだろ、寝ぼけんな!」

 願望のように口にした言葉をすぐさま一蹴される。

「ちなみにユニットバスにもサイドカーにもいなかったからな。しっかりしろよお前」

「……うん」

 僕の中には混乱と冷静が共存していた。意識はもはや完全に覚醒していたが、夢を見ているような、地に足のつかない気分だった。

 僕は開け放たれた窓に近づき、サッシに残された焦げ茶色の短毛を摘まんだ。それがアイリのものでないことは明らかだった。

「シェパードだ」

 僕は首を回してユキトを振り向いた。ユキトは険しい顔でゆっくりと頷いた。

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