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24 戦闘と手当

 先に体が動いたのはアイリの方だった。彼女はその嗅覚で、何が起きたのか気づいたのかもしれない。

 僕がアイリに一瞬遅れて外へ飛び出すと、駐車場に停まったバイクのそばにユキトが尻餅をついており、二匹の犬がその前後からじりじり距離を詰めていた。二匹の犬はジャーマン・シェパードだった。体はがっしりとしていて、捲れ上がった唇の下からは、ひょろりと細いユキトの腕など容易に噛み折ってしまいそうな大きな牙が見えた。

 助けなければと思った。なのに動けなかった。手足を凍らせたのは、今さらあったって仕方のない生存本能だった。僕の血肉が、僕の意思に反して僕を生かそうと必死になっていた。

 けれどアイリは違った。彼女は、今まで聞いたこともないような低い声で唸ると、紫電一閃(しでんいっせん)、駆け出した。そしてユキトの目前に迫るシェパードまで一直線に向かっていき、飛びつくようにその首元へと嚙みついた。

 直後、シェパードが大きく首を振り、アイリは払われて背中から地面に転ぶ。けれどもすぐに立ち上がり、今度はユキトの背後のシェパードに飛び掛かる。しかし、牙を攻撃に使うことなどないアイリの顎の力はシェパードの筋力に敵わない。またすぐ振り払われて地面に転がる。

 ユキトの前方にいたシェパードが一瞬で距離を詰め、アイリが起き上がる前に彼女の体を踏みつけた。

 そこでようやく僕の体の氷は解けた。

「アイリッ!」

 悲鳴のような声を上げて僕が走り出すのとほぼ同時―――

 ズガーン!

 大気を揺るがす爆音が鳴り響く。

 ユキトが天に向かって片腕を伸ばしている。その手には細い煙を上げる黒い何かが―――拳銃があった。

 つまり今のは、ユキトが威嚇の一発を放った音だ。しかし僕には、ユキトが拳銃を撃ったという事実よりも、彼が軽薄そうな笑顔の裏でずっと拳銃を保持していたのだという事実の方が驚愕だった。この旅のために持ってきたのか、はたまた歌舞伎町にいるときからすでに、彼のマウンテンパーカーの下には拳銃とホルスターが装備されていたのか。そんな疑問が一瞬のうちに脳内を駆け巡る。

 ユキトに釘づけになった視界の端で、拳銃に怯んだシェパードたちが連れ立って犬道(けんどう)脇の草むらへと逃げていく。

 僕はハッと我に返ってアイリに駆け寄り、転んだままの彼女を抱き起した。アイリの全身の毛は逆立ち、体は小さく震えていた。そして口の周りの毛は、ところどころ赤く濡れていた。

「アイリ、血が」

「見ないで」

 彼女は顔を背け、身をよじって僕の腕から抜け出した。そして僕に背を向けるかたちでよろよろと距離をとる。

「アイリ、でも怪我を」

「あたしのじゃない」

 彼女は小さく首を振って否定した。その力ない声には、他人を傷つけた自己嫌悪の色があった。

 動けずにいる僕の肩を、後ろから誰かが小突いた。

「乙女心をわかってやれよ」

 耳元で囁かれる。ユキトだった。彼は片手に拳銃を持ったままだった。

「それ……」

「ああ、気にすんなよ」

 ユキトは半分だけジッパーの開いたマウンテンパーカーの内側に銃を収納し、ジッパーを首元まで引き上げた

 この国では、存在する歴史上、一般人の拳銃の所持が認められたことはない。それは地上も地下も同じなはずだ。いつから持っていたのか。なぜ持っているのか。歌舞伎町という町は、遡上(そじょう)派という集団は一体何なのか。彼らの活動に、この旅に、正義があると思って本当にいいのか。

 湧き上がる疑問がうず潮のように頭の中でぐるぐる回って、けれども僕は、それらのひとつとして口に出して確かめることができなかった。言ってしまって何かとんでもない返答がくるのが怖かった。

「助かったぜ、アイリ」

「……ええ」

 アイリは背を向けたまま短く答えた。

「マジで助かった。だからへこむなよ? ……アイテッ」

 両手を頭の後ろで組もうとしたユキトは、途中で腕を下ろした。見ると、拳銃を持っていなかった方の腕の袖が破れていて、赤い血が滲んでいる。

「噛まれたの?」

 伸ばしかけた僕の手をユキトは払う。

「大したことねーよ。飛びつかれたときに犬歯がかすっただけだ。狂犬病のワクチンも打ってる」

「あいつら、反人派の犬よ」

 アイリが声を震わせて言った。「あたしを踏みつけたヤツ、去り際に言ったの。『せいぜいヒトに飼い殺されろ』って」

「最悪の捨て台詞だね。あの二匹、何が目的だったんだろう」

「嫌がらせだろ。それと金」

 ユキトが舌打ちをした。「悪い。お前らの荷物、荒らされた」

 サイドカーの中を覗く彼の視線を追ってみると、僕とアイリのリュックが開けられて、中身が足元に散らばっていた。

「もう一匹いたんだ、クソッ。恐らく小型犬だ。気づかなかった」

 ユキトの推理は正しいだろう。中型犬以上ならば、リュックごと持ち去ることができたはずだ。それをせずにわざわざ中身を空けて物色したということは、その程度のサイズしか運べない犬種ということ。

「二人とも、何か盗られたか」

 僕はサイドカーの足元にざっと目を通した。そしてアイリのためにサイドカーを離れ、そちらの方を見ないようにして待った。

 アイリの爪音が聞こえて間もなく、

「あたしは何も盗られてない。あたし、リュックには大したもの入れていないもの。ウォレットカードとライフナビはポケットの中だし」

「アキラはどうだ?」

 ユキトが迫る。僕はひと呼吸おいて返事をした。

「大丈夫、僕も何も盗られていないよ。同じく貴重品は身に着けてるから」

「よかった。不幸中の幸いだな」

 片頬で皮肉っぽく笑うユキトに僕は向き直った。

「傷の手当てをしよう。いらないは無しだ。拒否するなら僕からナカジマの兄貴に連絡して君を回収してもらう。本気だよ。噛み傷を甘く見ちゃいけない」

 僕の強引さが意外だったのか、ユキトは目を丸くした。そして「わかったよ」と観念したように応じた。

 噛み傷の手当など初めてだった。しかし僕にはライフナビがある。その機能を活用すれば、傷口のスキャンと周辺地域情報の取り込みにより、予想される感染症とその感染有無がわかる。そして、手持ちの道具でできる最善の処置方法を示してくれる。

 幸運にもユキトの傷口からは何の感染も認められなかった。となれば、あとは傷口の洗浄と保護だ。僕はトイレの手洗い場にユキトを連れていき、傷口をしこたま水で流すと、アイリが家から持ってきたハイドロコロイド絆創膏を貼り、その上からハンカチを巻いた。

「大げさじゃね? つーかイチゴ柄ダセェ」

 ハンカチは、アイリが洗い替えとして持ってきたものを借りた。僕のものより清潔だと思ったからだ。そしてやはりというか、ユキトにはハンカチを持ち歩く習慣がなかった。トイレで手を洗ったあとはいつも服の裾か髪の毛で拭いていたらしい。その無頓着さがいっそ羨ましくすらある。

 ハンカチは持ち歩かないのに拳銃は持ち歩くんだな、とまたうず潮がよみがえりかけたが、すぐに蓋をした。すべてを差し置いて結果だけ見れば、拳銃のおかげでシェパードたちを追い払えたのだ。

 いや、おかげなんて言葉じゃ足りない。ユキトの拳銃がなければあの時、アイリはどうなっていただろう。反人派の犬は、ヒトに例えるならば自然の中で鍛え抜かれた軍人だと聞く。その爪に押さえつけられ、その牙に噛みつかれたならば、きっと無事ではすまなかった。旅を続ける続けないの問題ではなく、アイリは命を落としていたかもしれない。

「ありがとうユキト」

 僕は、拳銃を撃った方の彼の手を握った。そうせずにはいられなかった。僕の手は情けなくも震えていた。

 その震えを感じ取ったのか、ユキトは僕の手を払わなかった。

「アイリに……噛ませちまって、ごめんな」

 彼はごくごく小さな声で囁くように言った。そして僕の手の上に、処置を終えた方の手をそっと乗せた。

 彼の手の熱は、焼いたパンにバターが染み込んでいくように、じわじわと僕の手の甲に染み込み、やがて僕の目頭からひと粒の熱い水となって流れ落ちた。

 僕は自分のふがいなさが恨めしかった。

 自分が生きるはずだった年月をアイリにあげたいとまで神に祈ったのに、あの時動けなかった自分に絶望していた。

「泣くなよ、男だろ」

 その言葉には非難でなく、困惑や戸惑いがあった。ユキトは優しい。彼は僕が落ち着くまで、僕の手を離さないでいてくれた。


 ユキトの処置を終えたころには、日はすっかり西の山に沈み、僅かな陽光の残滓を除いて空は群青に染まっていた。時刻は午後五時。

「これからどうしよう」

 顔を洗ったらしく、口元の赤い血のなくなったアイリが言う。

「どうするって、アオモリに向かうんだろ」

「でも、バイクの不具合は直ったの?」

 僕は、そもそもの足止め原因を思い出して問うた。

「ああ、直った。エンジンオイルを入れ替えた」

「オイルが古かったってこと?」

「いや、オイルは替えたばっかだったんだが……固まってたんだ、ゼリーみたいに。固まるなんて普通じゃありえねーんだよな。だからたぶん、やられてる。何入れられたかわかんねーけど、時間的に十中八九、昼メシ食ったサービスエリアでだ」

「誰かがあたしたちを狙ったのね?」

「まあ狙ったっつーか、バイクへのいたずらはよくあるんだよな。今回のは悪質だが」

「バイクなんて他にもたくさん停まってたじゃない。なんでよりにもよって」

「わかんねーけど、考えられるとしたら、ヒトと犬のトリオだからかな。ここはイワテだし、熱狂的な反人派からしたら、鼻につくんだろ」

 アイリのしっぽがしゅんと垂れる。僕のせいでもユキトのせいでもアイリのせいでも決してないのに、アイリは良くないことを考えていそうだった。

「行こうぜ。夜が更けたら危険も増すかもしれない。イワテは早く通過した方がいい」

 ユキトは言って、フルフェイスヘルメットを被る。イチゴ柄のハンカチを巻いた腕の動きがぎこちない。

「待って」

 バイクに跨ろうとする彼を、僕は引き留めた。二輪車の運転経験はないが、四輪車ならある。バイクとサイドカー、合わせて三輪だ。やって、やれないことはない。

 ユキトはここまで運転してくれた。アイリはユキトを守って戦った。

 ならば僕はなんだ? ヒトと犬のトリオの、僕は何のためにここにいる?

 恐れはなかった。根拠のない自信が僕を突き動かした。

「僕がアオモリまで運転するよ」

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