結果からいうと、ユキトは猫缶を食べなかった。
『いや駄目だ。オレひとりで食うなんてことできねぇ。三人で分けよう』
彼のその台詞に、僕は安堵するとともに感動した。なんというか、出会って一週間やそこらの関係だが、彼は僕たちのことをきちんと仲間だと思ってくれているのだなと。
失礼な話だが、僕は親元を飛び出して地下で暮らす彼のことを野良猫のような存在だと思っていた。ヒトに近づくことはあっても、それは気まぐれやヒトを利用するための策であって、決してヒトと本当の意味では交わらない野良猫。陰で群れ、夜に活動し、日の当たる場所を毛嫌いする野良猫。
それが急に、真っ昼間の公園で、ベンチに座る僕の隣にやってきて、ひっくり返ってふさふさの腹を見せてくれたような感覚。失礼すぎて口には出せないが、僕の感動を形容するとしたらそういう感じだった。
そして結局僕たちは、ユキトの提案のとおりイワテに入って最初のサービスエリアで食事休憩をとることにした。
実際に行ってみると、なんのことはない、これまで寄ってきたのと変わらない普通のサービスエリアだった。家族連れや学生で賑わっており、小さな子どもが駄々をこねる泣き声こそすれ、大人の怒号や悲鳴などは聞こえない。熱狂的反人派と思われる犬の姿も見当たらなかった。
「なーんだ。ビビって損したぜ」
ユキトは頭の後ろで手を組み、拍子抜けだという顔をした。アイリも緊張が緩んだようで、異変を聞き取ろうといろいろな角度に動いていた垂れ耳が、今は落ち着いている。
「何食べようか」
「オレ、モリオカピじゃじゃ麺」
「あたしはモリオカピ冷麺がいい」
「このクソ寒いのに冷麺かよ」
「中はあったかいでしょ」
北へ行くほど建物の気密性は高くなり、室内も暑いくらいに暖房をきかせるのだと聞いたことがあるが、それは本当だった。
二重玄関を通り、フードコートと飲食店と土産屋が連なる建物内に入ると、むわっと湿度の高い熱気に包まれた。僕とアイリは堪らずダウンジャケットを脱ぎ、ユキトもいつものマウンテンパーカーを脱いだ。
「クソあちぃ」
「さっきはクソ寒いって言ってたのにね」
「やっぱオレも冷麺にするわ」
フードコードなので誰が何を食べるのも自由なのだが、ユキトはわざわざそう宣言してアイリと共に冷麺屋のカウンターへ向かっていった。
ひとり残された僕は、何を食べようかと店々の看板を眺めた。腹がいっぱいになれば何でもよかった。
決して、残り少ない人生を憂い投げやりになっているわけじゃない。昔からそうなのだ。食べたいもの、行きたい場所、したいこと、すべて誰かに合わせていた。それで不満はなかったし、それが楽だった。
もっぱら決めてくれるのはアイリだった。僕はそれがありがたかった。アイリが求めるものを一緒に求め、アイリがそれを手にして喜ぶ顔を見られることが、僕の心の重要な部分を満たしてくれた。
僕も冷麺にすると言えばよかった。カウンターの前に仲良く並ぶ二人の姿を微笑ましく見つめて僕は思った。
結局僕は、ユキトが最初に食べたいと言ったモリオカピじゃじゃ麵を買って二人に合流した。案の定、ユキトがひと口くれと言ってきたので、それを見越して貰ってきた二枚の小皿に小さなじゃじゃ麺を作ってユキトとアイリの前に置いた。二人は僕へのお返しに、二人の冷麺から少しずつ麵と具材を取って、僕用の小さな冷麺を作ってくれた。
「じゃじゃ麵うまっ」
「美味しいねぇ」
僕も冷麺を啜り、「美味しい」と言った。冷たい麵を飲み込んだはずなのに、胃のあたりが熱くなるのを感じた。
今日のスケジュールはタイトだった。僕たちは二十分ほどで昼食を終えると、すぐにサービスエリアを出発した。総滞在時間は三十分。遅刻しがちな僕らにしては上出来だった。
それから約四時間、僕たちはイワテの犬道(けんどう)を走った。天気は快晴とはいえないまでも晴れで、道も空いていた。このまま順調にイワテを抜けるのだろうと思われた。
異変が起きたのは、メイン都市モリオカピのサービスエリアを過ぎてすぐの時だ。
「なんか変だ」
突然ユキトが呟いた。
「え? なに?」
と僕は聞き返す。
「変な音がする。エンジンかも。次で停まるぞ」
いつになく焦燥に駆られた声だった。僕にはバイクのことはわからないが、どうやら良くない状態らしい。
サイドカーの前の座席に座るアイリが僕を振り向いた。その目が少し不安げで、僕は大丈夫との意味を込めて頷く。
現在地から最も近い場所にあったのは、ミナミタキザワワパーキングエリアだった。今朝一番に寄ったミヤギ最北のパーキングエリアと同じく、トイレと自販機の平屋が並んでいるだけの簡素な休憩所だ。車両を見てくれるカースタンドもない。
それでもそこに停まらざるを得なかった。もう少し早く異変が発生していたら、モリオカピサービスエリアに寄れたのに。イワテ最大級といわれるそこになら間違いなくカースタンドはあるし、たとえカースタンドで直らなかったとしても、一般道へ下りられるため、どうとでもなる。
ユキトは駐車場に停まってエンジンを切ると、車体のあちこちを点検し始めた。僕とアイリはサイドカーを降りて、ただその様子を見守ることしかできない。
時刻は午後三時半を過ぎていた。冬は日が傾くのが早い。真上にあったはずの太陽は、今や西の山に隠れ始めていた。日が当たらなくなれば気温は一気に下がる。今日は夜の十時ごろまで走る予定だったため三人とも防寒は万全だったが、それでも寒いものは寒い。なにせ北上しているものだから、日に日に寒さは強まっていた。
強めの風が吹き、思わず身震いしてしまう。すると、それを目の端に捉えたらしいユキトが顔を上げ、「突っ立ってられても邪魔だから中入ってろよ」と言った。つまり自販機コーナーで待っていろという意味だ。
言い方が乱暴なところはユキトの優しさだった。だから僕もアイリも素直には従えず、かといってユキトの申し出を無下にもできないため、顔を見合わせて逡巡した。
やがてアイリが口を開き、
「じゃああったかいもの買ってくる。何がいい?」
「ホットココア」
「オッケー」
アイリに目で促されて、僕はアイリと共に自販機コーナーへ歩いた。
平屋建ての自販機コーナーは、完全に密封されているわけはないが、引き戸があって、屋外に立ち尽くしているよりは暖かだった。
「直るかしら……」
ぽつりと呟くように彼女は言った。
「大丈夫だよ」
と僕は根拠のない回答を吐く。
「直らなかったら、あたしたちどうなる?」
「助けを呼ぼう」
そのときには、尋ねビトと尋ね犬になっているだろう僕とアイリは親元に返されるかもしれない。同じく家出人のユキトもそうなる可能性が高い。
「遡上(そじょう)派の人たちに連絡できないかしら」
「できるだろうけど、地下の歌舞伎町からここまでくるのに丸一日はかかるよ。高速道路の制限速度が時速200キロだといっても、それは法律上の話で、実際には渋滞もあるし自動運転の安全制御もあるし」
「そうね。それに、ユキトはきっと嫌がるわ。任務を遂行できずに仲間に助けを求めるなんて」
「うん」
「でも、あたしも嫌」
アイリは僕を振り仰いだ。「地上のヒトに救助を頼んで、そこであたしたちの旅が終わっちゃうのは絶対に嫌」
「アイリ……」
彼女の必死な視線が僕には痛かった。僕は彼女に返す上手い言葉を持たなかった。
だから逃げた。
「大丈夫だよ。バイクはきっとユキトが直す」
交わった視線を千切り、自販機にウォレットカードをかざしてホットココアのボタンを押す。ガコンガコンと音が鳴り、僕はしゃがみこんで取り出し口に手を差し入れた。
その時だった。
「うわあああ!」
屋外で悲鳴が上がった。
それは紛れもないユキトの声だった。