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22 猫缶

 午前八時の出発に合わせてビジネスホテルの一階に下りると、ロビーのソファのところにアイリがいた。

「おはよう」

 声が上ずりそうになるのを、腹に力を入れて抑える。アイリが振り向き、

「おはようアキラ。ユキトが玄関にバイク回してくれるって」

「そう。……朝ご飯食べた?」

「うん」

「そっか、よかった。七時半ごろ行ったらユキトしかいなかったから」

「あたし食べたの六時半だもん」

「そっか」

 ローテーブルを挟んだ向かいのソファに僕も腰かける。アイリは伏し目がちにぼうっと玄関の方を向いたまま、僕を見なかった。

 昨夜のことを、どう切り出したらいいのかわからなかった。そもそも切り出すべきではなかったのかもしれなかった。けれど、何も言わずにやり過ごしたら、それは逃げていることになるような気がした。

「昨日はごめん」

 アイリの顔が僕の方を向き、アーモンド形の目がゆるゆると僕を見た。

「ごめんって、何が?」

「迷惑かけたでしょ。僕、牛タンの店で飲んだビールで酔っちゃって。しかも部屋を出てくるときにカードキーを忘れたから……」

 本当に謝りたいのは、そんなことなのか。

 本当に謝らなくてはいけないのは、別のことではないか。

 けれどそれを言ってしまったら、今までのことが何もかも崩れて、なくなってしまいそうで恐ろしかった。

 胸の内で二匹の蛇がのたうちながらせめぎ合う。片方がもう片方の頭に噛みつき、どちらのものともわからない長い肢体が絡み合っている。どちらが勝とうが負けようが、僕はきっと蛇を受け入れられない。二匹とも掴んで瓶に放り込み、上から酒を注いできつく蓋をしたい。酒の中で暴れる二匹とも、十年も二十年も漬け込んでしまいたい。その間に僕は死んでいるだろうし、彼女は僕を遠い思い出にしてくれるだろう。

「迷惑なんて、いつもじゃない」

 アイリは言って、ソファを下りた。玄関の前にサイドカーつきのバイクが停まったのが見える。

「悪いと思うんなら、途中のサービスエリアで何か奢って」

「それはもちろん……」

「うんと高いやつね!」

 不敵な笑みを浮かべるアイリの横顔が、玄関から差し込む朝日に輝くのを見て、僕は涙が出そうになった。

 死にたくなかったな。そんな思いが頭の片隅にちらついた。


 アオモリはツガルル。ホッカイドーへと繋がる青函トンネルの手前が今日の目的地だ。所要時間は犬道(けんどう)を制限速度の時速30キロで走って、純粋な移動だけで約十二時間。つまりは約350km。この旅最長の移動距離だ。途中の休憩を含むと、十三、四時間はかかる見込みだった。

 トーキョー・トチギ間が約130km、トチギ・ミヤギ間が約240kmのだったことを考えると、もっと経由地を均等に調整できたのではないかと僕は思ったが、カイいわく、先方からの宿泊地の希望と地域の治安を踏まえての決定だったらしい。端的にいうと、先方はウツノミンヤのジビエを食べたがり、センダーで有名な巨大商店街を観光したがった。そして、ミヤギ・アオモリ間に所在するイワテは思想の強い反人派の集まる地域として、治安が悪いことで有名だった。特にメイン都市のモリオカピは、ニーポンのヒトや犬から皮肉として『ケモノの国』と呼ばれていて、反人派による殺傷事件や、行方不明者の数が圧倒的に多い。そんな場所で犬道(けんどう)を下りて宿泊するのはヒトにとっても犬にとってもリスキーなため、僕たちも、いずれ行き来する輸出入部隊もイワテは最速で通過することとなったのだ。それなら無理にイワテを通らずとも、とアキタ側を通るルートも一度は候補に上がったらしいが、日本海側は冬季の雪害で犬道(けんどう)封鎖の可能性が高いとのことで却下となった。犬道(けんどう)は生身の犬が走ることから、少しの弊害でも大事を取ってすぐ封鎖となる。現に昨年の冬も、積雪の影響で二か月ほど封鎖されていたらしい。

 そんな事情で僕たちは、午前八時にホテルを出発して犬道(けんどう)に乗り、二時間ほど走ったところでイワテに入る直前のパーキングエリアに停まった。できる限りイワテ内で休憩を取らないようにしたかった。

 ミヤギ最北のパーキングエリアは、飲食店や温泉のある賑やかなサービスエリアとは異なり、質素でひなびた様子だった。トイレの平屋と自販機コーナーの平屋が並んでいるだけで、他には何もない。敷地を囲うフェンスの下からは、手入れされないままの草が伸び放題に伸びていて、近づいたらノミが飛んできそうだった。僕たちの他にヒトや犬はおらず、いわゆる貸し切り状態だ。

 僕たちはそれぞれトイレを済ませると、昼食を求めて自販機コーナーへ向かった。午前十時と少し早めだが、健康な十代である僕らはすでに空腹だった。

 無人のパーキングエリアには大抵、休憩する旅人のためにホットスナックの自販機が置かれている。冷凍食品にはなるが、腹を満たすには十分―――なはずだった。

「売り切れてる……」

 アイリのしっぽがしおしおと下を向く。驚くべきことに、ホットスナックはすべて完売だった。フライドポテトもから揚げも焼きおにぎりもホットドッグも、何もない。

 他の自販機を見ると、飲み物の方も結構売り切れがあった。もしかすると、ひなびたパーキングエリアゆえにあまり頻繁には補充されていないのかもしれなかった。

「ちぇっ、カイのやつ、自販機の在庫まで調べとけよ」

「そこまでは難しいでしょ。コーンスープとコンソメスープはあるよ」

「美味しそうだけど、あんまり飲み物は……」

 アイリが拒否を示した。言いたいことはわかる。イワテ間をトイレ休憩なしで進めるよう、水分をとりたくないのだ。自分で勧めておいてなんだが、僕も同感だった。

 このパーキングエリアから一般道へ下りることはできない。ならばひとつ前のサービスエリアへ戻ろうかと僕が提案して、ユキトが面倒だと一蹴した。

 しかし、イワテを走る約六時間、空腹のままというのも辛かった。

「次で停まるか」

 さらりとユキトは言った。「ミヤギに近いサービスエリアなら大丈夫だろ」

「でも、カイが最悪停まっていいって言ったのはアオモリ寄りのサービスエリアだよ」

「んなこと言ったってさぁ、そこまで四時間半かかるだろ。そんな待てねぇよ。腹減って事故っかもしんねーし」

 運転手にそう言われてしまうと反論できない。僕が唇をもごもごさせていると、隣でアイリがリュックから何かを取り出した。

「ユキト、これあげる」

 あ、と僕は緊張した。

 アイリが差し出したのは、彼女が家から間違えて持ってきた猫缶だった。それがヒトや犬用ではないことを忘れているわけではあるまい。僕と違って彼女の脳は健康だ。

 ならばわざとやっているのだ。猫缶と知っていながら、ユキトに食べさせようとしている。それも親切な犬を装って、何も知らぬような純粋な目をして。

「え、マジ? いいの?」

「うん。全部食べていいわ」

 ユキトはさすがに遠慮が先立ったのか、アイリと僕の顔色を窺うように交互に見て、やがてそろそろと猫缶を受け取った。缶の側面に描かれた猫のイラストには気づいていないらしい。

「運転してくれるユキトが一番大変だものね」

 アイリがにっこりと微笑む。僕はひたすら黙っていることしかできなかった。

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