中学二年の春、初めての彼女ができた。相手は同じ部活動に所属するひとつ上の先輩だった。僕は卓球部だった。
アイリはバレーボール部だった。卓球部とバレーボール部はいつも、ひとつの体育館を大きな緑色のネットで前後真っ二つに区切り、分け合って使っていた。舞台のある前側がバレーボール部で、後ろ側が卓球部だった。
僕の彼女は卓球部のエースだった。前年秋の大会ではトーキョーで二位だった。決勝で負けたことを、当時まだ僕の彼女ではなかった彼女はとても悔しがっていた。
彼女はストイックだった。朝練には一年生より早く来るし、放課後の練習にも一番に来た。コーチが「10分休憩!」と言っても一人、ラケットを振り続けるようなヒトだった。彼女は部活内で卓球の話しかしないので、僕は彼女にアドバイスを受けるときくらいしか彼女と話したことはなかった。
彼女は卓球部の全員が尊敬し、憧れる孤高の存在だった。
そんな彼女が、二年に上がったばかりの僕を部活終わりの昇降口で引き留めた。僕の隣には同じく部活終わりのアイリがいた。アイリは部活の話だと思ったのか「あたし先、帰ってるね」と言って昇降口を出ていった。
彼女は僕を、三年生のフロアの教室に誘った。最終下校時刻が迫った教室には誰もおらず、室内はどこか懐かしいような赤オレンジに染まっていた。
彼女は窓際へ歩いていき、ひとつだけタッセルで留まっていなかったカーテンを留め、そのままの体制で「突然ごめんね」と断って続けた。
「アキラとアイリさんって、どんな関係?」
「へっ?」
僕は思わず聞き返した。窓際の彼女はゆっくり僕を振り向いた。
「恋人?」
「まさか! アイリはキョウダイですよ」
「血は繋がっていないでしょう」
「そりゃ僕はヒトでアイリは犬ですから。でも家族です。恋人なわけないじゃないですか」
「アイリさんのこと好き?」
「はいもちろん、家族として。というか先輩、何でいきなりこんな話を?」
彼女は少し俯き、何か迷うようにしてから顔を上げた。
「好きって言ったら、困るかな」
「えっ?」
僕は相当鈍感で、馬鹿だったと思う。彼女は僕の前方一メートルの距離まで歩いてくると、大きなアーモンド形の目で真っ直ぐに僕を見た。
「アキラのことが好き。あたしとつき合って」
アイリと同じ目だと思った。
一月二日。家出生活八日目の朝。脳内で鳴るライフナビのアラームを止めて、暗い室内で天井を見上げる。
懐かしいヒトを夢に見た。中学のときの先輩。僕の初めての彼女。
夢の内容は早くも忘れてしまったが、ジンとする郷愁だけが紙風船のようになって胸の中心に置かれている。僕はそれを潰してしまわないよう、そっと手のひらで持ち上げる。
僕は彼女を尊敬し、秘かに憧れていた。尊敬と憧れを一番端的な言葉で表すとしたら、僕は彼女が”好き”だった。
初めてのデートは映画に行った。二回目のデートでは大きな抹茶パフェを食べた。三回目のデートで初めて手を繋いだ。
アイリは何も言わなかったが、僕ではなくクラスメイトや部活仲間と下校するようになった。だから一人になった僕は必然的に、彼女と帰るようになった。
帰り道にある小さな公園の多目的トイレに僕と彼女は時間差で入り、初めてハグをした。彼女の髪からは、アイリではない女の子の匂いがした。花と果実とせっけんが混ざったような、甘くて爽やかでクラっとする匂いだった。
彼女はその夏のトーキョー大会で予選負けした。三年生の引退前最後の大会だった。
僕はいつ、彼女と別れたのか覚えていない。別れたのかどうかすら覚えていない。
僕の記憶は中学二年の夏までで途切れてしまっていた。
ホテル備えつけの浴衣がベッドの中ではだけていて、腹に直接シーツが触れているのを感じる。僕はヘッドボードに手を伸ばして部屋の照明のスイッチを入れた。蛍光灯の白い光に網膜を焼かれて、目を細めながらベッドを下りる。
ここはビジネスホテルの僕の部屋だ。昨夜、アイリの部屋を飛び出した僕は一階のフロントへ行き、フロント係に頼んでマスターキーで部屋のドアを開けてもらった。フロントは夜間も稼働していた。
ペットボトルの水で三種類の内服薬を飲み、二種類の注射薬を腹に刺す。家を出て八日目。ジッパーつきビニル袋の中の薬の残量は、二週間分だ。二週間前の通院時に一か月分処方されたものをすべて持ってきた。医師によると、次の一か月はより強力な薬に切り替えるとの話だったが、次の通院が叶うかどうかはわからない。それに、どんなに強力な薬を使ったとしても、寿命は上手くいって二月の半ばまでなのだ。
はだけたままの浴衣とパンツを脱ぎ、ユニットバスへ入る。昨夜はそのまま眠ってしまったため、髪も体も、汗や居酒屋の煙でべたついていた。
熱いシャワーを頭から浴びる。シャンプーを手のひらにとって髪に塗り、泡立たせていくと、安っぽい甘い匂いが広がった。嗅いだ覚えのないそれが、記憶のどこかと結びつき、僕の片手はふらふらと足のつけ根へ下りていく。
思えば、家を出てからというもの、近くに誰もいない今のような状況は初めてだった。
僕は夢に見た先輩を思い浮かべた。彼女がセーラー服を着た姿。半袖にショートパンツのユニフォームと、その下からすらりと伸びた形の良い脚。そして、見た覚えのない白の下着姿。その上下の下着が順番に外されていき―――
『ナイッサー!』
脳内で甦るアイリの声。ピンポン玉の跳ねる音とバレーボールの弾かれる音が混在して響く体育館。緑色のネット越しの光景。アイリのチームからサーブが放たれる。相手チームのリベロがそれを受け止め、セッターが上げ、スパイカーが打つ。コートぎりぎりを狙ったその球をアイリのチームの後衛がすんでのところで拾い、セッターのアイリが繋げに走る。翻る肢体。全身を伸ばして高く飛び上がり、濡れたピンクの鼻先が球を押し上げる。そしてその球は、今まさに振り下ろされようとしているスパイカーの手の前に正確に導かれ―――バチン! 体育館の床が強く鳴る。ナイスファイ、ナイスファイの声と共にハイタッチが交わされて、チームメイトと鼻でタッチし合ったアイリがふとこちらに気づく。
『ナイスファイ』
僕が口パクでそう言うと、アイリは得意げに口角を上げる。そしてすぐさま、次の一戦に備えて踵を返す。ショートパンツに開いたしっぽを出す穴から、ちらりと白い下着が見える。
僕は一瞬息を詰めて、それから脱力しつつ吐き出した。シャワーヘッドを取って足元を綺麗に流し、頭の泡も流していく。罪悪感のような後ろめたさを抱えながら、手早く全身を洗い、ユニットバスを出た。
朝食はバイキングだったが、三人で食べる約束もしていなかったため、僕は準備が整うとすぐに朝食会場へ向かった。この時点で午前七時半。ホテルを出発するのは午前八時の予定だった。
朝食会場にはユキトがいた。アイリの姿は見当たらなかった。
僕はうどんを啜りコーラを飲むユキトに相席してコーンフレークを食べた。
「アイリに会った?」
「いんや」
勢いよく啜られたうどんの汁がテーブルに撥ねる。
「起きてるかな」
「てかお前ら、一緒に寝てたんじゃねぇの?」
僕は口に入れかけていたコーンフレークを牛乳の海に戻した。
「いいや」
深夜二時過ぎまでは一緒に寝ていたが、それ以降は自室へ戻った。だからNOという返事は半分嘘で、半分本当だ。
「あ、そう」
ユキトは特に気にした様子もなく、またひと口うどんを啜った。