「それはシャンメリーじゃないよね」
「シャンメリーがこんな店にあるわけねーだろ」
悪びれた様子もなく答えたユキトは、なみなみ注いで泡が零れそうなコップのふちに唇をつけ、喉を鳴らしながら一気に中身を飲み干した。
「ぷはぁ」
ふわりと鼻を掠めるアルコールのにおい。確定だ。僕は茶色い瓶を掴んで二杯目を注ごうとするユキトの手を上から押さえた。
「やめろって」
「だいじょーぶ、こんなの飲んだうちに入んねーよ」
「未成年だろ!」
声を荒げた僕を、店内の客の数人が振り返る。ユキトが表情で黙れと言ってきた。不本意だが確かに、飲酒した後で未成年だとバレるのは店にも僕らにも都合が悪い。
僕は声を潜めて続けた。
「法律違反だぞ」
「重罪でもないだろ。酒なんて十二のころから飲んでる」
信じられない。
「君の過去の事情は知らないけど、今はとにかくやめなって」
「なんでだよ。牛タンにビール、めちゃくちゃ合うだろ」
「そういう問題じゃないよ」
僕は援護射撃を求めてアイリを見た。彼女はこの状況にまだひと言も発していない。その事実が怖いくらいに異常だった。彼女は本当にどこか悪いのかもしれない。
そうではないことの証明のために、僕は今すぐ、アイリの辛口の小言が聞きたかった。しかし、
「ビールってどんな味?」
と感情の乗らない表情で彼女は言った。
「なんだアイリ、興味あんのか?」
ユキトが悪い目をしてニッと歯を見せる。
「だって、CMで見るタレントは美味しそうに飲んでるじゃない」
「美味いぜ。ちょっと舐めてみろよ」
ユキトは僕の手を振り払い、テーブルにあった取り分け用の小皿に薄くビールを注いでアイリの前に置いた。
「アイリ」
アーモンド形の目が一瞬僕へと向けられたが、すぐに目の前の液体へ移る。
僕はどうしてだろう、力づくでアイリを止めようと思えば止められたのに、そうしなかった。アイリが法を犯すことを止めるのに、全力を尽くさなかった。それよりも、彼女の意思を尊重した。
「どうだ?」
「苦い」
「まあ最初はな。慣れるとこの苦みが美味いんだよ。つまみとセットでさらに活きる」
「もう少し入れて」
「よっしゃ。なあ、アキラも飲んでみろよ」
底から三センチほど注がれたコップが目の前に置かれる。そのコップを見つめる視界の上の方で、アイリが小皿を舐めている。
彼女が法を犯す二度目を止める気は、やはり僕にはなかった。
それどころか僕も法を犯した。
牛タンの味は覚えていない。
僕らはいつの間にか飲み屋街の牛タン専門店を後にしていて、ずんだパフェの店にいた。1軒目で笹かまを食べたかどうかユキトに聞いたら、「牛タン定食の付け合わせであっただろ」と言われたが、思い出せなかった。
「きゃー! おいしそーっ!」
白玉とずんだ餡の乗ったパフェを前にして、アイリのテンションは異様に高かった。いつも濡れている桃色の鼻はいっそうテラテラしていたし、黒い瞳は店内の明かりを常より多く取り込んで零れ落ちそうなほど煌(きら)めいていた。
僕の目の前には、注文した記憶のないホットコーヒーが置かれていて、僕は条件反射的にそれをちびちび飲んで場を繋いだ。
ユキトは途中で店を出ていったかと思うと、ひょうたん揚げを三本買って戻ってきて、一本を食べ始めた。この店が持ち込みOKかどうかは知らない。けれど僕も一本取って食べた。見た目は、ケチャップのかかったアメリカンドッグが上下二つに分かれて団子型になったような形。カリカリふわふわな甘い衣に、中身はほんのり塩味の効いたかまぼこ。揚げ油のじゅわっと感とケチャップの甘酸っぱさが、中毒性のあるほどよいジャンキー感で味蕾(みらい)を痺れさせる。
気づくとアイリも残りの一本を口にしていた。
「よっしゃー、ラストはセンダーラーメン」
「お腹いっぱいだけど食べたぁい!」
「ミニサイズとかあるんじゃない?」
店員の微妙な視線に気づきつつ、ずんだパフェの店を出る。いつもより大声で話している自覚はあった。だが何故だか罪悪感は湧かない。妙な高揚感があった。体中の汗腺から熱気が噴出して、高揚感の膜となって僕を包んでいるような気がした。
僕たちはアーケード街をふらふらと歩き、三階建て雑居ビルの三階でひっそりと営業しているラーメン屋に入った。メニューは特製センダーラーメンしかなく、僕たちは三人ともそれを頼んで、黙々と麵を啜った。アイリは食べきれずに半分残した。
ホテルに戻ったのは何時ごろだったろうか。定かではない。室内にカードキーを忘れたまま外出したのに、どうやって部屋へ入ったのだろう。
僕は強烈な睡魔に襲われて、シャワーも浴びずにベッドにダイブした。そのまま目を閉じ、眠ってしまってもよかった。咎める者はいなかった。だが、理性が僕を起き上がらせて、僕に歯磨きをさせた。
そしていざ寝ようとベッドに潜り込んだ時だった。部屋のドアを誰かがノックした。
いや、誰か、ではない。ドアをこするように叩くその爪音は、紛れもなく彼女だった。
「アイリ、どうかした?」
目をしょぼしょぼさせて僕がドアを開けると、アイリは何も言わずに入ってきた。
「ねえ僕もう寝たいんだけど」
「寝てていいわよ」
なんなのだろう。彼女は室内にひとつだけある椅子に座り、小さな音でテレビを見始めた。紅白でチーム分けして競うタイプの正月用バラエティだ。
「おやすみ」
睡魔が限界まで迫っていて、僕はアイリをそのままに、ベッドへ入った。悪いなと思いつつ、明るいままでは眠れないので電気も消してしまう。嫌ならアイリが自室へ戻ればいい話だ。
小さく小さく聞こえるバラエティの喧騒をBGMに、僕は意識を手放した。
尿意を感じてハッと目覚めたとき、僕の隣には温かい何かがあった。いや、そうじゃない。浴衣姿のアイリが僕に背中をくっつけて眠っていた。
僕は叫び声を上げそうになった。それを、すんでのところで嚙み殺した。
世界が急に鮮明になる。そこでようやく、自分が今まで酔っていたことに気づいた。ビールのアルコールのせいだ。
僕は掛布団を捲り上げてしまわないよう注意してベッドを滑り出た。なんのことはない、悪いのは僕だ。暗順応した目で暗い室内を見渡すと、テーブルにはアイリの私物が広がっていた。僕のものといえば、僕が着ていたダウンジャケットと、履いていた靴しかない。ここはアイリの部屋だ。カードキーを忘れて部屋に入れないままへべれけになった僕を、アイリは自室に入れてくれたのだ。
どうしようかと迷った。ヘッドボードのデジタル時計は2:13。自室のスペアキーを借りたいが、フロントは深夜も開いていたんだったか。
いや、開いていなかったから、アイリは僕を招いてくれたのではないか。
ならばこのままアイリの隣で朝まで眠ればいいじゃないか。
駄目だ、と鋭利さを増した僕の理性が吠えた。もう一度アイリの隣に潜り込むなんてこと、僕にはできなかった。出掛ける前に自室で見た夢が、ふとよみがえる。実家のダイニング。男を連れてきて、結婚するのだと言ったアイリ。その男の顔。
駄目だ駄目だ駄目だ。
蛇のようにのたうちかけた感情を、理性が鞭で打ち据える。僕は靴につま先を突っ込み、ダウンジャケットを掴んで部屋のドアに飛びついた。
「いくじなし」
聞こえない聞こえない聞こえない。
廊下に飛び出てエレベーターホールまで走り、下へ行くボタンを狂ったように連打した。