アイリは意外にも全然怒らなかった。走ってきた僕たちに一瞥くれて「行くわよ」と言っただけで、座っていたロビーのソファを下りて歩き出した。その後ろをついていきながら僕とユキトは顔を見合わせ、ユキトは『よくわかんないけどラッキー』という感じで肩を竦めてみせた。
でも僕はユキトほど素直には喜べなかった。十七年間共に生きてきて、アイリが僕の失態を黙って許したことはない。いつだって少しくらいは小言を言われた。僕が40度近い熱を出して病床に伏している最中でさえ、アイリはベッドサイドで僕の日ごろの不摂生をくどくどと責めた―――牛乳プリンを買ってきてくれたことには感謝したが。
そのアイリが一言の嫌味も言わないなんておかしい。熱でもあるか、腹でも痛いんじゃないかと逆に心配になってしまう。
「ねえアイリ、待たせてごめんね」
僕は先を歩くアイリの背に声をかけた。隣でユキトがやぶ蛇だと言いたげな苦い顔をしたが関係ない。
「別に、五分も遅れてないでしょ。気にしないで」
そう言ってアイリは歩きながら僕を振り向き、ニコッと笑ってまた前を向いた。
いよいよおかしい。僕は気温とは別の寒さで身震いした。ユキトは相変わらずラッキーという顔をしていた。
ビジネスホテルから徒歩三分ほどの場所に、センダー市で最も大きなアーケード街がある。カイの情報によると、道幅57メートル、高さ33メートル、全長755メートルの全蓋式アーケードの下には大小およそ1500の店舗が立ち並び、市民のあらゆる用足しはその範囲で完結すると言われているらしい。地下駐車場完備で最寄駅からも地下道で直結しているため、雨の日も風の日も雪の日も、市民の足は絶えないという。
センダーセントラルロードと書かれたアーチをくぐり、商店街に足を踏み入れると、しっとりとした暖気が全身を包んだ。靴を履いたヒトにはわからないが、床暖も効いているのだろう。
「何食いたい?」
「って感じで選んでいいんだっけ?」
と僕はユキトに逆質問する。僕たちは犬の団体客が過ごしやすい店を探すというミッションを抱えているのだ。探すだけならネット検索で済むものを、わざわざ現地で探せというのだから『食べて、美味いかどうか調べてこい』の意なのだろう。だとすると僕らは、僕らの食べたいものではなく、犬の輸出入部隊―――おそらく働き盛りのオスが多いのだろう―――が食べたがりそうで、かつ犬の団体客を受け入れられる敷地面積のある店に行き、実食すべきではないか。
「そもそもさ、カイは前提が間違ってんだよ。あいつカタブツだからな」
ユキトはこのミッションを言い渡したスーツの男を真似て、神経質に眼鏡のブリッジを押し上げる仕草をした。
「……と言うと?」
「何食ってもいいって言われたら、食いたいもん食うだろ。あっちの犬たちが何人部隊で来るのかは知らねーけど、何日も朝から晩まで同じメンツで走ってて、夕飯まで全員揃って食う必要あるか? しかもセンダーは、モンベッツから来るヤツらにとって五日目の夜だぜ? いいかげんバラバラに好きなもん食いにいくだろ。ってなるとだ、オレたちが探すべきは、少人数で適当に食いたいもん食える店なんだよな」
「なるほど」
「あんた、何も考えてないようで結構考えてるのね」
アイリが歩きながらユキトを振り向き、心底感心した様子で言った。
「なんか褒められてる気がしねぇなあ。で、何食いたい? やっぱセンダーといえば牛タンか?」
「あたし、ずんだパフェ!」
「OK、それは二件目だ。まずはガッツリ食いたい」
「僕はなんでも」
「自己主張しろよー」
「じゃあ……笹かま」
あたりを見回して、目についたのぼりを読み上げる。
「いいけど、笹かまで腹が膨れるかよ。他には?」
「あたし、ひょうたん揚げ」
「旨そうだよな、あとで食おう。食べ歩きグルメだから」
「ユキトは何が食べたい?」
「オレはもち、牛タン! あと、食えたらセンダーラーメン」
「じゃあ、一件目は牛タン専門店で、そこで笹かまも食べて、二件目がアイリの行きたいずんだパフェの店。二件目への移動のときにひょうたん揚げを食べ歩きして、最後はセンダーラーメンでしめるってどう?」
異論なし、ということで僕たちは牛タン専門店を探し始めた。探すといっても実際、センダーセントラルロードには石を投げれば当たるほど牛タン専門店が溢れていた。なので、どの店に入りたいかはユキトの希望次第だったが、当の本人はそんじょそこらの観光客向け有名店には食指が動かないようで、地元民しか知らないマイナー店を求めて道行くヒトや犬に声をかけ始めた。さすがは元半グレ、肝が据わっている。僕とアイリはもしかすると尋ねビトと尋ね犬になっているかもしれなかったので、目立たないよう離れてユキトを見守っていた。
ユキトは十五人ほどのヒトや犬を渡り歩いてようやく僕らのもとへ戻ってきた。そして嬉々として「行くぞ」と僕らを先導した。
「いい店見つかった?」
「ああ。ネットに情報載せてない超穴場」
ユキトの足はセンダーセントラルロード地下駐車場の入り口へと向かっていた。
「本当にこっち?」
とアイリが訝しむ。
「な、ヤベーだろ。観光客じゃ、ぜってー気づけねぇ」
地下駐車場へ続く通路を歩いていると、通路の壁に銀色のドアがあった。何の表示もなく、一見、従業員用の出入り口に見える。ユキトはそのドアを押し開けた。
ユキトとアイリに続いて中へ入り、僕は唖然とする。そこにはレトロでディープな飲み屋街が広がっていた。赤とオレンジの提灯。幅1メートルほどの狭い通路の両脇にずらりと建ち並ぶ居酒屋。店々の入り口に仕切りはなく、通路と店の境はあいまいで、酒を酌み交わし歓談する人々犬々の熱気が、肉の焼ける香り、醬油の焦げた香り、豚骨スープの香り、アルコールの香りと混じって空間中に立ち込めている。
ユキトを先頭に、アイリ、僕と続いて通路を歩いた。当然ながらあたりに僕たちのような子どもの姿はない。だが誰も、僕たちの存在を気にしない。皆自分たちの世界の中で酔っている。
やがてユキトはひとつの店の前で足を止めた。その店は九割方満員で、かろうじて空いているのは通路沿いの二人掛けのテーブル席だけだった。
ユキトは僕とアイリをそのテーブル席に座らせて、込み合う店内へ進んでいった。そして折り畳みの簡素なスツールを小脇に抱え、水の入ったコップが三つ乗った丸盆を手のひらで持ち、戻ってきた。
「牛タン定食三つ注文したから。いいよな、それで」
あまりの手際の良さに、僕とアイリは感謝を込めて頷いた。ユキトがいなかったらこんなローカルな店には入れない。込み具合と勝手のわからなさで諦めて帰っていたところだ。
牛タン定食はよく出る定番商品なのか、すぐに運ばれてきた。
ただひとつ、角盆の端に大きな違和感を乗せて。
「いっただっきまーす」
こぽこぽこぽこぽ、とユキトは大きな違和感たる茶色い瓶から金色の液体をコップに注いでいく。
「おっとっと」
液体と泡、7対3の黄金比。
「ちょっと」
と声を上げたのは、アイリではなく僕だった。そのことに僕自身が驚いていた。