「起っきなさい、あんぽんたんズ!」
「ぐふっ」
「ぶべっ」
一月一日。家出生活七日目の朝。
自分の口と隣の布団から車に轢かれた蛙の断末魔みたいな声が上がり、僕は二度轢かれるのを恐れて飛び起きた。
「ふぐえっ」
しかしユキトは間に合わず、死体蹴りならぬ死体轢きされてしまう。
「あぶっ」
三度目。そこでようやくユキトは布団の中で腹を庇うように丸まった。うん、とりあえずそれでいい。アイリの前足がカブトムシの幼虫のようになったユキトの横っ腹を布団越しにリズムよく踏みつける。
「もうっ、いつまで、寝てるの、よっ」
「うーん、やめろってぇ」
「さっさと起きて朝食会場に行くわよ。もう八時過ぎてるんだからっ」
昨夜、『明日は九時出発な』と言ったのはユキトだった。カイの作成した行程表通りに進まなければいけないらしい。
「乱暴女。キャンディはもっと優しく起こしてくれるぞ」
「なによ、頬でも舐めろっての? 変態」
「ちげぇって。おいアキラ!」
洗面所で顔を洗っていた僕は蛇口の水を止めて、
「なに?」
「お前、アイリ連れて先メシ行けよ」
「わかった」
「何言ってんのよアンタ。運転手が朝食抜きだなんて許さないんだから」
「行かねーなんて言ってねーだろ。先行けっつってんの」
「ちゃんと来なさいよ?」
「わーかったって。お前そんな口うるせぇとアキラに愛想つかされんぞ」
「……なによ」
ピンと伸びていたアイリのしっぽがしおしおと下がっていく。そんな後姿を見ながら着替えを終えた僕は、
「行こうアイリ」
桃色の鼻先がこちらを向く。敷きっぱなしの布団を器用によけて歩いてくるアイリ。
「起こしてくれてありがと」
「なにそれ。初めて言われた気がする」
「そうだっけ」
部屋を出て、フローリング敷きの廊下を歩く。古めかしい民宿ではあるが、床暖房完備のため足元は温かい。スリッパや靴下を基本的には履かない犬の肉球にも優しい作りだ。こういう部分も加味してこの民宿はILからやってくる輸出入部隊の宿泊地候補のひとつとなっている。
朝食会場は日本庭園を望む広間だった。四人掛けや六人掛けの座卓がほどよい距離感で並んでいて、何組かのヒトや犬が優雅に朝食をとっている。大窓の向こうで朝日を浴びて輝く常緑樹の眩しい緑と、暖色の明かりで少し暗めに整えられた室内とのコントラストが寝起きの体に優しく馴染む。太陽燦々(さんさん)のテラスで脚を組みながらクロワッサンとコーヒーを嗜む文化にも憧れはするが、日本育ちの体が本能的に求めてしまうのは、縁側に面した居間で茶をすすりながら庭の金木犀を遠目に眺めるような穏やかさだ。金木犀の芳香が感じられなくてもいい。あのオレンジ色の小花を見るだけで、記憶の底から香りは甦る。もっとも、犬の嗅覚ならば庭の金木犀の匂いを記憶から嗅ぎ取る必要などないのだろうが。
僕は座卓の正面に座ったアイリを見た。約十七年、同じ家で過ごし、同じ両親のもと同じ学校に通ってきたが、もしかすると僕とアイリとでは別々のことを感じて生きてきたのかもしれない。それが良いとか悪いとかではなく、ふとそんな風に思った。
朝食には元旦用の雑煮御膳が振る舞われた。トチギの雑煮は、焼いた角餅を入れたけんちん汁風が主流らしい。竹輪やゴボウの入った雑煮は、トーキョーでしか正月を迎えたことのない僕とアイリには、初めての体験だった。
僕たちが食事を始めて十五分ほどして、ユキトがやってきた。彼の痛んだ金髪は、寝ぐせを直したせいかところどころ湿っていたが、アイリは何も言わなかった。
ユキトは僕たちより遅く来たのに僕たちより早く食べ終えて、食後のコーヒーにミルクと角砂糖をどばどば入れて一気飲みした。
「近くに有名な神社があるんだって」
指のささくれを摘まんで引っ張りながらユキトは言う。
「神社?」
とアイリ。
「ああ。さっき廊下で犬が話してるの聞いた」
「ふーん」
「行く? あ、イテ。血ィ出た」
ささくれをちゅーちゅー吸うユキトを物言いたげに見ていたアイリが、僕の方に目を遣る。『行く?』の答えを僕に求めているようだった。
「行こうか。いいよね、少しくらい観光しても」
「だよな。オレ、ちょっとトイレ」
ユキトは立ち上がり、先に広間を出ていった。
その後、僕とアイリも部屋に戻り、ダウンジャケットに腕を通した。ユキトはいつものマウンテンパーカーを着て、僕たち三人は民宿の玄関を出た。
僕たちはユキトについて五分ほど平地を歩き、脇に現れた細い小道をまた五分ほど、三人で縦一列になって上っていった。僕が最後尾だった。足元は舗装されておらず、地元の人が行き来するだけのようなけもの道だった。樹々や長く伸びた草のせいで薄暗く、湿っぽい感じがしたが、吸い込む空気は美味しかった。濃密な酸素で、ひと呼吸ごとに肺の細胞が活性化され、頭が冴え渡っていくような感じがした。
「本当にこの先に神社があるの?」
疑うでもなく、単なる疑問形でアイリが問うた。
「あるらしいんだけどな。どうだろ。間違ったかな」
「間違うような別の道もなかったけどね」
と僕は言う。実のところ、僕は出発時点ですでに思念でライフナビに問い合わせていたが、民宿の徒歩圏内で神社はヒットしなかった。それでも黙ってついてきたのは、きっとあれだ、好奇心。アイリももしかしたら同じことをしていたかもしれない。地下暮らしのユキトはライフナビを持っていないから、本当にただ民宿の廊下で盗み聞いたとおり進んできたようだが。
「どうする? 引き返す?」
足を止めないまま愉快そうにユキトが聞く。
「どうしよう。蛇とかいないかしら。変な虫とかも」
「蛇なんか食っちゃえよアイリ」
「冗談言わないで。キャンディだって食べないでしょ」
「キャンディはバッタぐらいなら食うけどな」
「最低。二度と食べさせないで」
「アイリ、ノミ避け打ってるんだっけ?」
犬は数年に一回、ノミ避けの注射を打つ。ヒトが冬に打つ流行り病の予防接種のようなものだ。
「打ってるけど。え、待って。ノミ跳んでる?」
アイリが首を捻って体を振り返るので、僕は否定する。
「ううん、全然見えないけど、こういう道ってノミがいそうだなって思って」
「嫌よ。あたしノミに食われたこと一度もないんだから」
「戻る?」
ユキトが立ち止まって僕らを振り向いた。相変わらずニヤニヤしているのは、彼が意地悪だからではなく、未知を楽しめる側の人間だからだろう。「好奇心は猫をも殺すと思う?」
「どうだろうね」
「あたしは犬だもの」
「『好奇心は猫をも殺す』には続きがあるって知ってる?」
本当は昨日、二人がその話をしていたときに言おうかと思った。でもやめた。あのとき言っても、ただの知識のひけらかしになっていたからだ。今は違う。
「『好奇心のせいで猫は死にました。けれど好奇心が満たされた猫は満足して生き返りました』つまりね、好奇心を持つのは危険だけど、危険を冒してでも物事を知り、満足したときの喜びは大きいってこと」
「なるほどね」
ユキトの笑みが深まり、その意外と白い歯が見える。「つまり進むってことでOK?」
「OKよ。早く行って」
アイリが鼻先を振って急かし、ユキトは踊るように身を翻して斜面に向き直る。
そこからさらに五分ほど上ると、不意に行く手が開けて、小さな赤い鳥居のある神社が現れた。
「ありゃー古いねぇ。お守りもおみくじも売ってなさそう」
「売ってたら逆に怖いわよ」
参道の敷石は苔むしていてぼろぼろで、手水舎の水は干乾びていた。本殿の扉は閉まっていて、手前に賽銭箱が置いてあり、鈴に繋がる綱が垂れている。
「なんの神様なのかしら」
「長寿って言ってた。ここの神様が犬好きだから、特に犬に効くんだって」
「そう」
「キャンディの長寿を祈っときたくてさ」
ガランガラン、とユキトは鈴を鳴らし、ポケットから掴み出した小銭を賽銭箱へ投げた。
当然ながら、この古びた神社の賽銭箱は電子マネーに対応していない。ウォレットカードしか持ち歩かない僕とアイリが立ち尽くしていると、ユキトはポケットから五円玉を二つ出して僕たちにくれた。初めて手にした五円玉は、ユキトのポケットに直に入っていたせいか、ほんのり温かかった。それを下投げで賽銭箱へ放る。
放物線を描いた五円玉がカチャリン、チャリンと音を立てる。木材と金属のぶつかる音を僕は初めて聞いたと思った。
二礼二拍手一礼。石段の上に横並びになった僕たちは静かに祈りを捧げる。
犬好きな長寿の神様に願うのはもちろん、先の知れた僕自身の長寿ではない。アイリだ。
ラビーとリューの娘。loveyから”愛”を取り、リューから”リ”をとって名づけられた、二人のたからもの。ヒトとして生き、幸せになれるようにと手放された彼女の脳を貰うことなど僕には死んでもできない。そんなことをして生きながらえるくらいなら死んだほうがましだ。
だから絶対に、母さんたちには見つかってはいけない。
ライフナビの通話機能とメッセージ機能は地上に上がった時点でオフにしていた。万が一にも逆探知されないようにだ。本当ならばライフナビ自体の機能をオフにすべきだが、未成年の僕がオフにするには親の認証が必要だった。
その代わりに、地下を出る前、サンゾーがお手製のアプリを僕とアイリのライフナビにインストールしてくれた。そのアプリが起動し続ける限りは、ライフナビを使っても逆探知はされないとのことだった。
僕は祈る。どうかアイリが幸せに長生きできますように。できれば人語を操る犬の寿命を超えて六十年、七十年。
いや、双子として育った僕が早死にするのだから、僕が生きるかもしれなかった年月をアイリが貰ったってバチは当たらない。八十年、九十年、百年。
アイリがこの先もしヒトを愛し、ヒトと結ばれることになったとしても、相手を独りにしないくらい長く長く。
ヒトと変わらない寿命をアイリに。
「アキラ」
ハッとして僕は目を開ける。横に座ったアイリが心配そうに僕を見上げていた。
「大丈夫?」
問われて気づく。頬が冷たい。正確には目頭から鼻の横、ほうれい線のあたりが濡れて、その水分が元旦の冷気に晒されていた。
「あっ」
と声がして、僕とアイリは参道脇の小石を蹴って遊ぶユキトを振り向く。
「これって初詣じゃん。うわ、オレ初詣には毎年ベビーカステラ食うって決めてんだけど!」
「ないわよ、ベビーカステラなんて」
「知ってるよ。だからうわって言ってんの。ああ、オレのルーティーンがぁ」
「年に一回はルーティーンって言わないわよ」
「アイリぃ、ライフナビでベビーカステラ売ってる神社探してくれよぉ」
「はいはい」
アイリが石段を下りていく。
僕はわちゃわちゃと騒ぐ二人に気づかれないように、目頭からほうれい線にかけての一帯をセーターの袖口で拭った。
知らず流れ落ちたこれは何に対する感情なのだろう。わからないまま、心臓だけがじくじく疼く。
僕らは、今度は僕を先頭にしてけもの道を下り、民宿へ戻った。
出立の準備が整ったのは、カイの予定表から一時間遅れた午前十時。今日の目的地はミヤギはセンダーのビジネスホテルだ。犬道(けんどう)に乗る前に、アイリが検索した某大型神社の参道でベビーカステラを買う。
「じゃ、新春一発目、行きますか!」
イエーイとアイリが応えて、バイクは走り始めた。