十二月三十日。家出生活五日目の朝。
大丈夫、大丈夫。僕はまだ覚えている。
ライフナビへの母さんからの着信が百件を超えていた。メッセージに至っては二百件近い。ごめんなさい、と思わずにはいられなかったが、こうなった原因は母さんたちにもある。
アイリを僕の臓器のスペアにしようとした。僕はそれが許せない。誰かのために誰かが死ぬなど絶対にあってはならない。
僕は神など信じないけれど、死というものが神の手による予定調和だというのなら、僕はそれに従う。でもその前に、抗(あらが)って、抗(あらが)って、抗(あらが)って、死ぬまで僕の思うとおりに生きるのだ。
「アキラ、もう起きたの?」
かすれたアイリの声がして、キッチンに立つ僕は、飲もうとしていた薬と未使用の注射器を背後に隠しながら振り返った。すぐそこに、寝ぼけまなこのアイリが立っていた。
「ううん、喉が渇いただけ。水飲んだらまた寝るよ」
「そぉ? 大丈夫?」
「ほら、アイリがいないとキャンディが寒いってさ」
「うーん」
ほかほか温かい背中を押してやると、アイリはキャンディのいるサークルへと戻っていった。僕はその隙に薬を水で流し込み、腹に注射を打つ。そしてまた、ユキトがミノムシのようになって寝ているベッドの端に滑り込む。ミノムシのミノを半分引っぺがして自分の体に巻くと、ほっとするような温かさだった。
「おやすみ、アキラ」
言われてハッと瞼を上げると、サークルの中からアイリがこちらを見つめていた。金星のように輝くアーモンド形の瞳。先ほど寝ぼけまなこだったのが嘘のようにはっきりと僕を捉えている。
もの言いたげな視線を遮るように僕は再び目を閉じた。
「おやすみ、アイリ。僕が寝坊しそうだったら起こして」
「うん」
けれど次に起きたのも僕の方が先だった。どうしてだろう。僕は生き急いでいるのかもしれない。起こされるまで眠れていた日々が遠い昔のように懐かしくて切ない。
「おはよう、アイリ。トーストにはバターでいい? それともイチゴジャム?」
オーブントースターから食パンを引っ張り出しながら問えば、太腿にドン、と衝撃が来た。見ると、アイリが頭突きしている。
「あんぽんたん」
「……ごめん」
「何に『ごめん』なのよ」
僕は返事ができなかった。
アイリは腹が立ったのか腹が減ったのか、僕が二枚焼いたトーストを二枚とも食べた。
一か月半後に死ぬことにだよ、と言ったら彼女はどんな反応をしただろう。トーストを食べ尽くすに飽き足らず、僕まで齧られていたかもしれない。
最終調整の時間が欲しいから取りに来るのは夕方にしてほしいとレンダさんは言った。だから僕たちは夕方までの時間を明日の出発に向けた最終確認に使った。
持ち物、進行ルート、緊急時の対応、ユキト含めた三人の役割分担。
ほとんどの計画は、眼鏡をかけたスーツの男、カイが僕らに代わって立ててくれた。というか、前々からカイが立てていた先遣隊計画の実行者がユキト&カイからユキト&僕&アイリに変わっただけらしかった。
「ほんとマジでさぁ、カイと何日も四六時中一緒とか、息が詰まっちまうよな。アキラとアイリをスカウトしてよかったぜ」
ユキトはカーペットの上にあぐらをかき、ゴムボールを投げてキャンディを走らせながら悪びれず笑った。彼はもしかすると、地上(うえ)でカイに代わる同行者を見繕っていたのかもしれない。そして四日前の夜、いい具合に適格そうな僕らを見つけたのかもしれない。
「出かけてる間、キャンディのお世話はどうするの」
アイリは、ボールを追って走っていくキャンディを見ながら心配そうに問うた。そういえば僕は、アイリがボールを追うところを見たことがない。彼女もそういう遊びがしたかったろうか。僕と彼女がやるボール遊びといえば、もっぱらキャッチボールだったのだ。
「キャンディはカイに預ける」
「ええっ、あのヒト、犬のお世話なんかできるの」
「だってさ、ナカジマの兄貴んちは筋トレ道具がいっぱいで危ないし、イブリカは煙草吸うからキャンディが可哀想だし、サンゾーみたいな爺さんに犬の散歩行かせるのも心配だろ。総合評価でカイが一番マシなわけ」
「ふーん」
「今夜、カイが迎えに来ることになってんだ」
ボールを拾って戻ってきたキャンディをユキトは抱き留める。
「キャンディ、マジ愛してる。すぐ帰ってくるからなぁ。寂しくさせてごめんなぁ」
愛してるなんて言葉、躊躇(ためら)いもせず口にできる彼を僕は少し羨ましく思った。
そろそろ出ようかと先に動き出したのはアイリの方だった。
「そんなにヘルメットが楽しみなの」
と尋ねた僕はとんだ的外れだったろう。アイリが楽しみにしていたのはヘルメットではなく、リューに会うことだ。そのことに僕は、いざ工房に着き、アイリがその希望を口にするまで気づかなかった。
レンダさんに通されて工房内に入ると、一番近い作業台の上にお日さま色のヘルメットが置かれていた。
「どう? いいでしょ。被ってみて」
レンダさんは自信ありげに口角を上げて、早速アイリに試着をさせた。
「すごい! 昨日被ったときよりフィットする」
「でしょでしょー」
「動き回っても全然ずれない」
「でっしょーでっしょー」
竜巻のような回転を加えたジャンプを何度も繰り出すアイリのそばで、レンダさんのもともと豊満な胸がどんどん膨らんでいく。いや、そんなところを見ているとアイリに知れたら僕は殺される。
ひとしきり動いて大絶賛したアイリはヘルメットを脱ぎ、僕に残りの代金を支払わせた。そして間髪入れずに「リューに会ってもいいですか」と申し出る。その声色があまりに浮ついていたので、僕はいよいよ意味がわからなくなった。アイリは将来介護施設で働きたいような夢でも持っていただろうか。
レンダさんは一瞬、覚えていたかぁという顔をしたが、柔和な目はそのままだった。そしてアイリと僕を案内してくれた。
工房の奥の扉を開けて、二階へ続く階段を上る。犬の爪が滑らないよう、一段一段に専用のマットが敷いてある。二階の扉の一つをレンダさんが開ける。工房の正面側に位置する部屋だった。レンダさんに続いて中へ入ると、西日が斜めに差し込んだ窓際の一人用ソファの上に痩せたラブラドール・レトリバーが丸くなっていた。
「リュー、お客さんだよ」
レンダの声に、骨ばった小さな頭がゆるゆると持ち上がる。
僕は息を呑んだ。同じ犬種だからという理由じゃない。
アイリに似ている、と思ったからだ。
「ああ、こんばんは」
垂れた唇の間から漏れ出すようにリューさんは言った。アイリが引き寄せられるように歩いていく。
「こんばんは、リューさん。あたし、アイリっていいます」
「そうか、アイリ。良い名だね。君はラブラドール・レトリバーだろう?」
「はい」
レンダさんが踵を返し、僕の肩に手を置いて部屋を出ていく。彼女は気づいていたのかもしれない。その一つの可能性に。
夕日を浴びたクリーム色の毛並みがきっと、同じ黄金色に輝くだろうことに。
「あたし、ヒトの家族として育ちました」
「そうか」
「今年で十六になります」
「ああ」
「あたしはラビーさんに似ていますか」
「ラビー……ラビーというのは君の名かい?」
アイリはそこで口をつぐみ、俯いた。彼女の絶望が空気を伝って僕の心を揺さぶる。体の水分が顔まで上がってきそうになって、僕は脚の横でこぶしを握り、手のひらに爪を食い込ませた。
リューさんは、はたと自ら気づいた様子で訂正した。
「いや違うな、ラビーは工房の名だ。リメイク・ラビー。レンダは本当に良い名前を思いつく」
「そうですね。ラビーは、昔のイングリッシュでlovey―――愛しいひとって意味ですもんね」
「イングリッシュを知っているのか。賢い子だね。わたしたちの子にも、君のようになってほしかった」
「お子さんがいたんですか」
「いたけれど、手放してしまった。その方が幸せになれると思ったんだ。わたしの妻は昔の犬だったから。だからわたしも、地上(うえ)には帰らずここで暮らすと決めた。けどわたしたちの子はヒトの言葉を話せたから……地上(うえ)でヒトとして生きる方が幸せだと思ったんだ」
「あたし、幸せです」
リューさんのライトブラウンの瞳がアイリを優しく見つめた。
「そうか。よかった、本当に」
「でも、ここで生きていても幸せだったかもしれない」
「ああ、ラビー」
リューは、愛しいひとを今見つけたというふうな歓喜の声を上げた。「どこにいたんだい、ずいぶん探したよ」
「リューさん……」
「ああ。君もヒトの言葉を話せるようになったんだね」
リューさんは骨の浮いた体をゆっくりとソファから下ろし、アイリの首に頬を寄せた。
「あの子は元気だろうか」
「……ええ、きっと元気にやってるわ」
答えるアイリの声が震えていた。
「そうだね。わたしたちの子だからね」
「ええ」
「とっておきの名を贈った。最初で最後の、愛する娘へのプレゼント。たくさんのヒトと犬に愛されるように。ラビー、君の名から”愛”をとり―――」
僕の視界は瞬(またた)く間に歪む。こんな奇跡があるなんて。
「―――僕の名、リューから一文字”リ”をとった。アイリ。わたしたちの生涯ただひとつのたからもの」
人語を操る犬は、その知能の代償として繁殖能力を大幅に失った。彼らは一度の妊娠でひとりの子しか授からない。だからヒトと同じように、そのひとりに全身全霊の愛を贈る。
そうだ。ヒトと同じなのだ。
なのにどうして。
どうして彼らの寿命は五十年なのだ……!
どうしてヒトと同じ百年を生きさせてくれないのだ!
「こんばんは」
リューが柔和な目でアイリを見つめていた。「お嬢さんは、どなたかな」
「アイリといいます」
「そうか、アイリ。良い名だね」
「はい。お父さんとお母さんがくれた、大切な名前です」
僕は袖口を両目に当てて、視界を遮る水分を吸い取った。
クリアになった世界の中で、窓の外、夕日がまもなく沈み終わろうとしていた。