十二月二十九日。家出生活四日目の昼。
歌舞伎町のステーキハウスでランチを済ませた僕とアイリは、約束どおりリメイク・ラビ―へ向かった。途中、アイリがやたらとリンゴジュースを飲みたがるので自販機を探しながら理由を聞いてみると、「ニンニク臭かったら失礼でしょ」と、やや恥じらいながら教えてくれた。だったらガーリックステーキなど食べなければいいのに、と頭の中で愚痴って、ふと思い出す。違う、アイリが食べたのは和風ステーキだ。犬はニンニクを食べられない。
「僕、ニンニク臭い?」
「……ちょっとだけ。ヒトなら気づかないかもしれないけど」
僕は自販機で350ミリリットルの果汁100%リンゴジュースを買い、一気飲みした。自分はニンニクを食べられないのに、ニンニク臭にリンゴが効くと知っているアイリはすごいなと素直に思い、感謝した。
工房に着いて観音開きの木戸をノックすると、二日前とは打って変わって、待ち構えていたようにすぐに戸は開いた。
「いらっしゃい。待ってたよー」
レンダさんは海外ドラマのようなナチュラルさでアイリにハグをした。僕にも来ようとしたので丁重に辞退すると、「ごめんごめん」と悪びれずに笑った。
前回と同じように座って待っていると、レンダさんは製作途中のヘルメットを持ってきてくれた。それは陶器のようにつるりと真っ白で、ヒトのものとは違う、犬の首から上をすっぽり覆うのに最適な形状をしていた。
「ではでは、試着失礼しまーす」
レンダさんは慣れた手つきでアイリの頭にヘルメットを被せていく。ヒト用と同じく、被るときには少し窮屈なのか、アイリはもぞもぞ鼻を振って、自分の顔を押し込んでいた。
完全に被りきってしまうとなかなか調子が良いようで、アイリは嬉しそうに僕を見る。
「ね、どうどう? 似合ってる?」
「……まあ」
フルフェイスヘルメットに似合うもクソもない。
「めーっちゃ可愛いよぉ、アイリちゃーん」
僕の代わりにレンダさんが褒めて、ヘルメットごとまたアイリを抱きしめた。アイリもそろそろ慣れてきたらしく、されるがまま笑っている。
「どこか痛いところはない? 苦しいとことか、引っかかる感じとか」
「はい、大丈夫です」
「緩すぎる感じもしない? ちょっと動いてみてくれる?」
「はい」
アイリはその場で二、三歩足踏みをした。レンダさんがうーむと唸る。
「パッと見、良さそうだけど、バイクって風も強いしねぇ。もうちょっと激しめに動いてみてくれる?」
アイリはその場で大きく二回ジャンプをした。
「もっともっと。あ、そうだ。ちょっと外を走ってみてよ。なるべく速く」
レンダさんに誘われて、アイリと僕は外へ出た。工房の周辺は草原になっていて、駆けるにはよさそうだ。
「じゃあ、いきます」
アイリは草原の上を走り出した。最初は少しゆっくり、次第に速く。
アイリが走るのを見ていると、彼女が普段どれほど僕に合わせて歩いているのかがわかる。彼女が本気を出せば、きっと僕は追いつけない。
犬とは本来、何もかもがヒトよりはやい生き物なのだと実感させられる。
工房の前をくるくる駆け回っていたアイリだったが、やがて気分が乗ったのか、工房の裏手へ向きを変えた。そして、裏を回って戻ってくるかと思いきや、戻ってこなかった。
「アイリ?」
僕は声を張る。隣でレンダさんがポニーテールの結び目を掻いた。
「あれを見ちゃったかな」
「え、何です? 何かヤバイものでも―――」
「そんなんじゃないさ」
レンダさんが食い気味に答える。「別に隠してるわけじゃないから、行こう」
歩き出すレンダさんのあとを僕は黙って追った。
工房の裏手まで回ってみると、レンダさんの予想どおりアイリが石碑のようなものの前で座っていた。自分で脱いだのだろうヘルメットが脇に転がっている。
「アイリ」
声をかけると、アイリは振り向いた。
「アキラ」
「戻ってこないから心配したよ」
「ごめん。お墓を見つけたから、お参りしてたの」
お墓。その言葉にはあまり馴染みがなかった。歴史の授業に出てきて、テスト勉強のためだけに覚えるようなワードだ。昔はヒトも犬も、亡くなったら墓を建てて、その下に遺骨を埋葬したらしい。だが現代では、墓という概念はほとんど消えかけている。亡くなったら火葬されて、あとには骨も何も残らない。それでおしまい。
もともと墓や仏壇は遺された人が手を合わせる場所としてあるというが、現代のヒトは、基本的にはそういうものを必要としない。亡くなった誰かを思い返したいときは、ライフナビにそう告げて、頭の中で静かに祈るのだ。
石碑、もとい墓石に近づいて見てみると、そこには名が刻まれていた。
「ラビ―」
「そうさ。ラビーは私の家族」
レンダさんが僕らの隣に立った。「アイリちゃんと同じ、クリーム色のラブちゃんの女の子。十年前、十二歳で亡くなったんだ」
「十二歳……」
早すぎる、という意味でアイリが呟く。その意図をレンダさんは正しく汲み取った。
「ラブちゃんにしては長いほうだった。ラビーは人語を操らない、いわゆる昔の犬だったから」
「寿命だったってことですか」
僕は尋ねる。
「そうだよ。昔のラブちゃんの寿命は、十年から十二年」
「短いですね」
「そうだね。でも短いながらもラビーは十分に生きた。旦那さんもいたし、子どもだって生まれた。幸せだったんだって思いたい」
リンダさんはそこで少し俯いた。
「欲を言えば、子どもを自分で育てさせてあげたかった。ラビーが出産した当時、私は十二歳だったから事情はよく知らないんだけど……私の両親はラビーの子どもをどこかへ連れていった。ラビーはしばらく寂しそうだった。リューに聞いても、何も教えてくれなかった」
「リューって?」
「ああ、ごめんごめん。リューはラビーの旦那さん。彼はね、人語を操る犬なんだ。今年で四十五歳になる」
背徳的、という言葉が僕の頭に浮かんだ。十年前に十二歳で亡くなったラビーと、当時三十五歳だったリュー。年の差は二十三歳。ヒトに置き換えたら完全にロリコンだ。犬の場合にはどうなのだろう。ましてやラビーとリューは、遺伝子レベルで圧倒的な知能差があったはず。何もわからない幼子を汚い大人が騙して妊娠させたのではないかと、気持ち悪ささえ感じてしまう。
「リューさんって、どんなヒトなんです?」
あえてどんな”犬”とは言わないでおく。
「そうだなぁ、リューは一言でいうと……自分に自信がない、臆病な犬だった」
「”だった”というと?」
「今は少し変わった。……認知症でね。幸か不幸か、昔では考えられないほど大胆なこともするようになった。例えば深夜徘徊とかね」
「あたし、リューさんに会ってみたいです」
それまで黙っていたアイリが口を開く。レンダさんは笑みを浮かべながらも、乗り気ではなさそうに見えた。
「いいけど、会話が成り立たないかも。いろいろ忘れちゃってて、記憶もごっちゃになってたり。妄想みたいな話もするし」
「それでもいいです。会ってみたいんです」
「アイリ」
僕はたしなめるつもりで名を呼んだ。だがアイリは諦めなかった。
「いいじゃない。あたし、同じ犬種だし。ラビーさんに会えたみたいで喜んでくれるかも」
「ありがとね、アイリちゃん」
レンダさんは観念した顔で言った。「今はリュー、お昼寝してるだろうから……明日、完成したヘルメットを取りに来てくれたときに」
「ありがとうございます」
アイリはしっぽを振って喜んだ。僕にはアイリがどうして認知症の老犬と話したいのか、わからなかった。何もかも忘れてしまった相手と話したって、空しいだけだ。
僕も近いうちにきっと、アイリにそんな空しい思いをさせる。僕はアイリの声も顔も忘れて死ぬ。そうなる前に死ねたなら、僕もアイリも幸せだろうか。そんな暗い想像ばかりしてしまう。
「アイリちゃん。ヘルメットは何色にする?」
「黄色がいいです」
お日さまみたいなアイリにぴったりだと僕は思った。