少し待つように言われて雑居ビルの前に立ち尽くしていると、ユキトが二輪車に乗って現れた。異常にうるさいエンジン音を立てたまま停まり、僕の方にフルフェイスのヘルメットを放る。
「乗れよ」
「君が運転するの?」
「他に誰がいるんだよ」
「僕、自動運転の四輪車しか乗ったことない。二輪車はバランスが難しいんでしょ?」
「任せろって。てかバイクのこと二輪車って言うのな」
「二輪全般、乗ったことないから。地上(うえ)で乗ってるヒト見たことないし」
「もしかして自転車も乗れねぇ?」
「それこそ古(いにしえ)の乗り物でしょ」
「わかった、わかった。時間無ぇから後ろ乗れって。んで、オレに掴まって目ぇつぶってな」
あしらうように言われて僕はムッとしたが、子犬を救うミッションの緊急性はわかっているので大人しく従う。ヘルメットを被ってユキトの後ろの席に跨(またが)り、言われた位置に足を置いた。途中で振り落とされないよう、不本意ながらユキトの腹に腕を回す。
「行くぜ。掴まってろよ、っと」
大きくエンジンを吹かし、バイクが急加速した。ヘルメット越しの耳元で風が鳴る。うっすら開けた目に映っては消えていく極彩色のネオンたち。
「どこから地上(うえ)に出るの」
風に負けないよう僕は声を張り上げる。
「あっちに着いてから」
「あっちって?」
「横浜中華街。その真上がヨコハマ・ワールド街だ」
バイクは歌舞伎町の街を出てトンネル型の一本道に入った。信号も障害物も無い。エンジンの音がひと際大きくなり、スピードが上がる。
やがて遠くに街明かりが見え始め、荘厳な門に描かれた『中華街』という文字が判別できる位置まで来ると、ユキトはバイクを停めた。僕のヘルメットを引っぺがし、僕を近くの電話ボックスに押し込んで自分も入る。マウンテンパーカーのポケットから黒いコインを取り出して、緑色の公衆電話の硬貨投入口へ差し入れる。
「これで地上(うえ)に行くの?」
「シッ。舌噛むぞ」
大気にぐっと体を押さえ込まれるような感覚とともに電話ボックスは上昇を始めた。きらびやかな中華街がみるみるうちに足の下へと遠ざかる。下りてくるときのプリクラ機では見られなかった景色だ。しかしそれも間もなく、上方へと伸びるトンネルの景色に変わった。
柴犬の子犬の保護は存外、簡単に終わった。ユキトが手慣れていたからだ。彼は腹を空かせた子犬の鼻先に、現代犬人気ナンバーワンのペーストおやつ『ワウ~ル』を差し出し、ひょいとその首根っこを摑まえた。
そこから先の流れもスムーズだった。ユキトがスマートフォンでナカジマの兄貴に保護の報告をすると、そのときにはすでに子犬の引き取り先は決まっていて、横浜中華街のとある店名を告げられた。僕とユキトは子犬を連れてまた電話ボックスで地下へと潜り、子犬の到着を心待ちにしていたらしい肉まん屋の店主に子犬を手渡した。
店主のでっぷりした腹と、後ろの厨房ででかい包丁を振り下ろして肉をぶつ切りにしているご夫人とを見て僕は犬の行く末が心配になったが、そのことをこっそりユキトに話すと、ユキトは「素行調査してるから大丈夫」と笑った。
その後の展開で、確かにユキトの言うとおり、大丈夫そうだなと僕も納得した。
店主は子犬を受け取ると、突き出た腹の上に乗せて壊れ物のように両手でこわごわと子犬を抱いた。そして赤い肉と向き合っているご夫人を大声で呼び、二人して、子犬のために用意したのだという部屋へ連れていってくれた。そこはまるでヒトの子ども部屋のようだった。夫婦はずっと、子犬の引き取り人の順番待ちをしていたのだという。
人語を操らない子犬を保護したいというヒトは、地下(ここ)では相当多いらしい。
僕とユキトは土産に大量の肉まんを貰い、またバイクに二ケツして歌舞伎町の集会場へと戻ってきた。
僕はユキトに言われて、自己紹介がてらメンバーに肉まんを配って回った。
まずはリーダーであるナカジマの兄貴。彼は爽やかに肉まんを受け取ると、先のユキトとの約束どおり、僕が集会に参加することを認めた。
続いて丸眼鏡のスーツの男。名字か名前かわからないが、カイと名乗った。カイはこの遡上(そじょう)派の参謀だ。愛想が良いわけではないものの礼儀正しい人物のようで、「どうも」と言って肉まんを受け取った。子犬の負担を考えて、バイクで歌舞伎町まで運ばず、中華街で引き渡し先を決めようとナカジマの兄貴に進言したのは彼だという。
次がタイトドレスの女、イブリカ。彼女は太るからという理由で肉まんを辞退したが、断り方が上手くて嫌な気はしなかった。人づき合いというか、他人を手のひらで転がすのに慣れているような印象だ。彼女はもっぱら渉外(しょうがい)担当らしい。先ほど子犬を引き取った肉まん屋も、彼女が面接したという。
最後はニットベストの老人、サンゾー。彼は若いころシステム会社でブイブイいわせていたとのことで、ここでは情報の収集・分析を担っている。持参しているノートパソコンは見た目こそ二、三世紀前の遺物だが、それは彼の好みだからで、中身のスペックは最新式だという。彼は肉まんの外側が好きだと言って、外側だけをむしって食べ、中身をユキトに押しつけた。ユキトは具が増えてきゃいきゃい喜んでいた。まるでおじいちゃんと孫だ。
そのユキトの役割はというと、自称「切り込み隊長! バイク乗りだから機動力あるし」とのこと。
バランスの取れたチームだ。もともとその気はないが、僕を新メンバーにする必要など無さそうに見えた。
「急な案件のせいでずいぶん開始が遅れたが、そろそろ本題を始めよう。サンゾー、今日のアジェンダを投影してくれ」
ナカジマの兄貴が話し始めると、メンバーは皆、資料の投影された壁面を見た。
「今日集まってもらったのは他でもない、年明け一月十日に迫った、ホッカイドー・モンベッツの反人派国『イタク・リキンテ』との国交開始についてだ。皆知ってのとおり、我が歌舞伎町は正式な国ではない。共生派の正規国では生きられない者たちが集まった、非正規団体とでも言おうか。だがイタク・リキンテ―――通称IL(イル)は、俺たちのことを国と同等の待遇で優先貿易先とすることを約束してくれた。そんな彼らの思いに報いるべく俺たちがすべきは、第一回目の輸出入を滞りなく完遂すること。経路の確認と安全確保はもちろん、ヒトと犬の出入りに関する規程の再周知―――」
聞きなれない言葉ばかりで、僕は険しい顔をしていたのかもしれない。隣に座っていたユキトが寄ってきて、現状を簡単に補足してくれた。
数か月前、歌舞伎町とILは国交開始のための条約を結んだ。その開始日、つまり第一回目の輸出入部隊が出発するのが約二週間後、年明けの一月十日なのだ。今はその出発および受け入れ準備の最終段階らしい。
前提として、かつて日本と呼ばれた列島には、僕たちの暮らす共生派国ニーポンと、ILのような反人派国が共存している。反人派国はヒトの寄りつかない過疎地を中心に複数建国されており、それらの大半はヒトの暮らすニーポンと貿易協定を結んでいる。反人派を名乗りながら協定というのは矛盾しているかもしれないが、彼らが豊かに暮らすために必要なのだ。反人派国には基本的に犬しか住んでいない。ゆえに、いかに彼らの知能が高かろうと、身体構造上、ヒトの手を必要とすることがある。例えば医療行為。医学書を読んで知識をつけることはできても、犬の肉球では注射器やメスは握れない。また、人間の作り出す菓子類などの嗜好品や、電子機器も彼らは欲する。
一方で、ニーポンのような共生派国は人材ならぬ犬材として反人派の犬たちの能力を求める。仮に共生派の犬たちを一般市民と置くならば、反人派の犬たちは自然の中で五感を研ぎ澄まされ、日々肉体を鍛え上げられた、最強の軍人集団だ。彼らは警察組織の中だったり、共生派国同士の国境警備や軍の専用部隊などで活躍する。また戦闘だけでなく、並外れた五感を活かして調理師や調音師、調香師のサポート、企業の商品開発のサポートを行う犬もいる。
「そこでだ、アキラ」
急に名を呼ばれて僕は反射的に顔を上げた。
「新メンバー候補の君には、ユキトとともに先遣隊としてILへ向かってほしい」
「……はい?」
面倒なことになった、と顔に出ていたのだろう。隣でユキトがくすくす笑い、「よろしくな、相棒」と僕の肩に手を置いた。