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9 集会

「手、離してよ」

「いいから、いいから」

 どこもかしこも明るい歌舞伎町の夜道を、僕はユキトに手を引かれて歩いていた。誰かと手を繋ぐことなど、僕の記憶が正しければ小学校の卒業式―――手を繋いで揺らしながら合唱するパフォーマンスがあったのだ―――以来のため気恥ずかしい。それに、もし行き交う人々のホログラムの中に本物のヒトがいたとしたら、手を繋いだ僕らは”そういう関係”に見えてしまうのではないかと心配だった。

 ジグザグに道を曲がりながらユキトは進んでいく。アイリのところへの帰り道はとうにわからない。

「どこまで行くの」

「もうちょっと」

「遡上(そじょう)派って何? さっき言ってた界隈のヒトたち?」

「いんや、奴らとは別。奴らは地下(ここ)には来られねーし」

「じゃあどういうヒトたちなの?」

「みんないいヤツだよ。そう心配すんなって」

「答えになってない」

 僕は両足を踏ん張って立ち止まる。推進力に逆らう力を加えられたユキトは「うおっ」と声を上げて僕を振り向いた。

「なんだよ、アキラ」

「得体の知れないヒトたちの集まりに行くのは嫌だ」

「拗(す)ねるなって」

「教えてくれえるか、この手を離して君ひとりで行ってよ」

「……しょうがねぇなぁ」

 ユキトは空いた方の手で後ろ頭を掻き、何か考える素振りを見せた。やがて、言葉を選ぶような様子で言った。

「サケって知ってるだろ、魚のサケ」

「は?」

「まあ聞けよ。サケは川で生まれ、海で育ち、産卵のためにまた生まれた川へ戻ってくる。流れ落ちる川を、逆から泳いで上るんだ。これを遡上(そじょう)っていう」

「へえ、なるほど。君たちは川上りをする集団ってわけか」

 僕は苛立ち、皮肉を言った。だがユキトは僕の煽りに乗りはせず、大真面目に答えた。

「上るのは時代だ。つまり……」

 言葉を探してか、口をもごもごさせる。「つまりさ、オレたちは今の犬の在り方に疑問を感じてるわけ」

「疑問?」

「ヒトの言葉を話しヒトとして生きる犬は、不自然じゃないかってこと。犬にはもともと犬語があった。生来の本能もあった。犬たちだけのコミュニティだってあった。それらがすべてヒトのソレに統合されて、果たして犬たちは幸せなのか、ってね」

「幸せ……」

「そうそう」

 ユキトがクイと手を引っ張った。僕はまた、ユキトに連れられて歩き出す。横顔のままユキトは続ける。

「この歌舞伎町はさ、避難所なんだ。オレらみたいな家出ビトだけじゃなくて、キャンディみたいな昔のままの犬たちの。人語を操れない犬は、地上(うえ)じゃ生きていけねー。当然だろ。ヒトはヒトをペット扱いしない。その倫理観が、人語を操る犬(ヒト)と同じ形をした大昔の犬(ペット)を遠ざける。キャンディみたいなヤツらを飼おうとするもの好きは、地上(うえ)じゃ変態くらいだ」

「君は、信念があってここにいるの?」

「まあ、最初は地上(うえ)でナカジマの兄貴に声かけられて、寝床欲しさについてきただけさ……でも今は違う。キャンディのためだ。キャンディが伸び伸び生きられる場所を作りたい。戸籍なんか無くても、キャンディはオレの家族だから」

「……そう」

 地上(うえ)の考えとは異なる。地上(うえ)に住むヒトは、ヒトの戸籍に入った犬だけを家族と呼ぶ。戸籍に入らずヒトと暮らす犬もいるが、彼らは友だちの扱いだ。犬をペットと呼称する文化はもう無い。犬権保護法で禁じられている。

 ちなみに犬権保護法における犬の定義には、人語を操ることが含まれる。ならばキャンディは、地上(うえ)では何になるのだろう。考えもつかない。僕は生まれてこの方、数えきれないほどのヒトと会ったのと同じく、数えきれないほどの犬と会ってきたが、生まれたばかりの子犬を除き人語を操れない犬はいなかった。

「さあ、ここだ。ビビんなよ?」

 ユキトが顎で指した先は、六階建ての雑居ビルだった。看板を一階から順に見ていくと、居酒屋、バー、美容クリニック、ネットカフェとなっていて、雑居という言葉がよく似合う。

 反畳ほどの狭いエレベーターに乗り込み、ユキトはようやく僕の手を離した。そして両手で1から6のボタンをすべて同時に押す。

「何してるの」

「下へまいりまぁーす」

「え、下?」

 エレベーターの扉が閉まると同時、一瞬の浮遊感が僕を襲い、口から心臓が飛び出そうになる。デジャヴ。トラウマ。プリクラ機の悪夢の再来だ。

 だがプリクラ機ほど長く下降はせず、ほんの二秒ほどで箱は止まった。

「ねえ! どうして君たちは普通の速度で下りるエレベーターを造らないの?」

 跳ねる心臓を押さえて、僕は言わずにはいられない。

「さあ。時短のため?」

「寿命の方が短くなるよ」

「アキラお前、上手いこと言うな」

 エレベーターの扉が開く。

 そこは昔のキャバクラのような場所だった。全体的に薄暗く、主な明かりは紫の間接照明だ。豪華なシャンデリアの下、高級そうなソファとテーブルが、ほどよい距離感で並んでいる。

 いくつかの席には先客がいた。姿勢良く紙の本を読むスーツの男、脚を組みグラスを傾けるタイトドレス女、ノートパソコン―――というものだったと思う―――を広げてキーボードを鳴らすニットベストの老人。

「二分遅刻だぞ、ユキト」

 部屋の奥から現れた長身の青年が咎めるように言った。短髪で肌は浅黒く、白いタートルネックのセーター越しにもわかる屈強な体つきだ。

「兄貴、ごめん」

 ユキトは両手を合わせて可愛げのある謝罪をする。おそらくこの青年が、ユキトを地下へと勧誘したナカジマの兄貴なのだろう。

「その子は?」

 と兄貴の鋭い視線が僕を指す。

「んー、新メンバー」

「違います」

 慌てて僕は訂正する。勝手によくわからない集団のメンバーにされてはかなわない。

「じゃあどうして連れてきた?」

「オレはメンバーにしたいんだよね。名前はアキラ。家出少年」

 紙の本を読んでいたスーツの男がため息をつき、本を閉じた。線の細い顔つきと丸眼鏡が神経質な印象を醸し出している。

「自分と同じ境遇だから連れてきたというのですか。あなたはいつもそうですね。そうやって自由気ままに私たちの和を乱す」

「いいじゃない、別に」

 グラスについた口紅を指先で拭い、タイトドレスの女が言った。ウェーブした艶やかな黒髪が、グラスを置く女の動きに合わせて揺れる。胸元の露出と太腿あたりのスリットが目に毒で、僕は直視できない。

「男の子一人、いてもいなくても変わらないわ。さっさと始めましょ」

 ノートパソコンのキーを打つ音がやむ。見ると、老人は干物のような手で白い無精ひげを撫でていた。この手がキーボードの上をなめらかに動くのだから恐れ入る。

「見つけたわい。一昨日取り逃がした柴犬じゃ」

「なんだと。映せるか?」

 ナカジマの兄貴が老人を急かす。紫の間接照明に照らされた白い壁に何かが投影される。

 それは地上の街、ヨコハマ・ワールド街の一画だった。路地裏でゴミ箱を漁る子犬が映っている。

 ハッとした。僕は恵まれすぎていて無知だったのかもしれない。ゴミを漁るヒトも犬も、僕は見たことがなかった。

「ズームしてくれ……間違いない、一昨日の子だ」

「なあ兄貴、オレとアキラがサクッと行って、こいつ拾ってくるよ」

 ユキトが嬉々として言う。「そしたらアキラも集会に参加していいだろ?」

「……ああ、わかった。好きにしろ」

「よっしゃー、行こーぜアキラ」

 目まぐるしく変わる状況に僕が目を白黒させていると、ユキトはまた僕の手を引いた。

「いってらっしゃーい」

 タイトドレスの女が他人事のようにひらひら手を振るのを横目に、僕は僕の意思とは関係なく歩かされ、またエレベーターに乗り込んだ。

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