「手、離してよ」
「いいから、いいから」
どこもかしこも明るい歌舞伎町の夜道を、僕はユキトに手を引かれて歩いていた。誰かと手を繋ぐことなど、僕の記憶が正しければ小学校の卒業式―――手を繋いで揺らしながら合唱するパフォーマンスがあったのだ―――以来のため気恥ずかしい。それに、もし行き交う人々のホログラムの中に本物のヒトがいたとしたら、手を繋いだ僕らは”そういう関係”に見えてしまうのではないかと心配だった。
ジグザグに道を曲がりながらユキトは進んでいく。アイリのところへの帰り道はとうにわからない。
「どこまで行くの」
「もうちょっと」
「遡上(そじょう)派って何? さっき言ってた界隈のヒトたち?」
「いんや、奴らとは別。奴らは地下(ここ)には来られねーし」
「じゃあどういうヒトたちなの?」
「みんないいヤツだよ。そう心配すんなって」
「答えになってない」
僕は両足を踏ん張って立ち止まる。推進力に逆らう力を加えられたユキトは「うおっ」と声を上げて僕を振り向いた。
「なんだよ、アキラ」
「得体の知れないヒトたちの集まりに行くのは嫌だ」
「拗(す)ねるなって」
「教えてくれえるか、この手を離して君ひとりで行ってよ」
「……しょうがねぇなぁ」
ユキトは空いた方の手で後ろ頭を掻き、何か考える素振りを見せた。やがて、言葉を選ぶような様子で言った。
「サケって知ってるだろ、魚のサケ」
「は?」
「まあ聞けよ。サケは川で生まれ、海で育ち、産卵のためにまた生まれた川へ戻ってくる。流れ落ちる川を、逆から泳いで上るんだ。これを遡上(そじょう)っていう」
「へえ、なるほど。君たちは川上りをする集団ってわけか」
僕は苛立ち、皮肉を言った。だがユキトは僕の煽りに乗りはせず、大真面目に答えた。
「上るのは時代だ。つまり……」
言葉を探してか、口をもごもごさせる。「つまりさ、オレたちは今の犬の在り方に疑問を感じてるわけ」
「疑問?」
「ヒトの言葉を話しヒトとして生きる犬は、不自然じゃないかってこと。犬にはもともと犬語があった。生来の本能もあった。犬たちだけのコミュニティだってあった。それらがすべてヒトのソレに統合されて、果たして犬たちは幸せなのか、ってね」
「幸せ……」
「そうそう」
ユキトがクイと手を引っ張った。僕はまた、ユキトに連れられて歩き出す。横顔のままユキトは続ける。
「この歌舞伎町はさ、避難所なんだ。オレらみたいな家出ビトだけじゃなくて、キャンディみたいな昔のままの犬たちの。人語を操れない犬は、地上(うえ)じゃ生きていけねー。当然だろ。ヒトはヒトをペット扱いしない。その倫理観が、人語を操る犬(ヒト)と同じ形をした大昔の犬(ペット)を遠ざける。キャンディみたいなヤツらを飼おうとするもの好きは、地上(うえ)じゃ変態くらいだ」
「君は、信念があってここにいるの?」
「まあ、最初は地上(うえ)でナカジマの兄貴に声かけられて、寝床欲しさについてきただけさ……でも今は違う。キャンディのためだ。キャンディが伸び伸び生きられる場所を作りたい。戸籍なんか無くても、キャンディはオレの家族だから」
「……そう」
地上(うえ)の考えとは異なる。地上(うえ)に住むヒトは、ヒトの戸籍に入った犬だけを家族と呼ぶ。戸籍に入らずヒトと暮らす犬もいるが、彼らは友だちの扱いだ。犬をペットと呼称する文化はもう無い。犬権保護法で禁じられている。
ちなみに犬権保護法における犬の定義には、人語を操ることが含まれる。ならばキャンディは、地上(うえ)では何になるのだろう。考えもつかない。僕は生まれてこの方、数えきれないほどのヒトと会ったのと同じく、数えきれないほどの犬と会ってきたが、生まれたばかりの子犬を除き人語を操れない犬はいなかった。
「さあ、ここだ。ビビんなよ?」
ユキトが顎で指した先は、六階建ての雑居ビルだった。看板を一階から順に見ていくと、居酒屋、バー、美容クリニック、ネットカフェとなっていて、雑居という言葉がよく似合う。
反畳ほどの狭いエレベーターに乗り込み、ユキトはようやく僕の手を離した。そして両手で1から6のボタンをすべて同時に押す。
「何してるの」
「下へまいりまぁーす」
「え、下?」
エレベーターの扉が閉まると同時、一瞬の浮遊感が僕を襲い、口から心臓が飛び出そうになる。デジャヴ。トラウマ。プリクラ機の悪夢の再来だ。
だがプリクラ機ほど長く下降はせず、ほんの二秒ほどで箱は止まった。
「ねえ! どうして君たちは普通の速度で下りるエレベーターを造らないの?」
跳ねる心臓を押さえて、僕は言わずにはいられない。
「さあ。時短のため?」
「寿命の方が短くなるよ」
「アキラお前、上手いこと言うな」
エレベーターの扉が開く。
そこは昔のキャバクラのような場所だった。全体的に薄暗く、主な明かりは紫の間接照明だ。豪華なシャンデリアの下、高級そうなソファとテーブルが、ほどよい距離感で並んでいる。
いくつかの席には先客がいた。姿勢良く紙の本を読むスーツの男、脚を組みグラスを傾けるタイトドレス女、ノートパソコン―――というものだったと思う―――を広げてキーボードを鳴らすニットベストの老人。
「二分遅刻だぞ、ユキト」
部屋の奥から現れた長身の青年が咎めるように言った。短髪で肌は浅黒く、白いタートルネックのセーター越しにもわかる屈強な体つきだ。
「兄貴、ごめん」
ユキトは両手を合わせて可愛げのある謝罪をする。おそらくこの青年が、ユキトを地下へと勧誘したナカジマの兄貴なのだろう。
「その子は?」
と兄貴の鋭い視線が僕を指す。
「んー、新メンバー」
「違います」
慌てて僕は訂正する。勝手によくわからない集団のメンバーにされてはかなわない。
「じゃあどうして連れてきた?」
「オレはメンバーにしたいんだよね。名前はアキラ。家出少年」
紙の本を読んでいたスーツの男がため息をつき、本を閉じた。線の細い顔つきと丸眼鏡が神経質な印象を醸し出している。
「自分と同じ境遇だから連れてきたというのですか。あなたはいつもそうですね。そうやって自由気ままに私たちの和を乱す」
「いいじゃない、別に」
グラスについた口紅を指先で拭い、タイトドレスの女が言った。ウェーブした艶やかな黒髪が、グラスを置く女の動きに合わせて揺れる。胸元の露出と太腿あたりのスリットが目に毒で、僕は直視できない。
「男の子一人、いてもいなくても変わらないわ。さっさと始めましょ」
ノートパソコンのキーを打つ音がやむ。見ると、老人は干物のような手で白い無精ひげを撫でていた。この手がキーボードの上をなめらかに動くのだから恐れ入る。
「見つけたわい。一昨日取り逃がした柴犬じゃ」
「なんだと。映せるか?」
ナカジマの兄貴が老人を急かす。紫の間接照明に照らされた白い壁に何かが投影される。
それは地上の街、ヨコハマ・ワールド街の一画だった。路地裏でゴミ箱を漁る子犬が映っている。
ハッとした。僕は恵まれすぎていて無知だったのかもしれない。ゴミを漁るヒトも犬も、僕は見たことがなかった。
「ズームしてくれ……間違いない、一昨日の子だ」
「なあ兄貴、オレとアキラがサクッと行って、こいつ拾ってくるよ」
ユキトが嬉々として言う。「そしたらアキラも集会に参加していいだろ?」
「……ああ、わかった。好きにしろ」
「よっしゃー、行こーぜアキラ」
目まぐるしく変わる状況に僕が目を白黒させていると、ユキトはまた僕の手を引いた。
「いってらっしゃーい」
タイトドレスの女が他人事のようにひらひら手を振るのを横目に、僕は僕の意思とは関係なく歩かされ、またエレベーターに乗り込んだ。