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8 歌舞伎町という街

「すごい。こんな場所があったなんて」

 純粋な感想が口からこぼれ出る。ネオ・シンジュクに地下街があるのは知っていたが、ここはそのさらに下、地下鉄や水道管よりも遥か数百メートル下方だ。落下の体感としてはそれくらいあった。

 アイリを見ると、見開かれたその色素の薄い瞳に極彩色のネオンが映り込んでいた。困惑や恐怖ではない、好奇心の色だ。

「知ってるニオイ」

 アイリは呟いた。何のことだろうかと僕は鼻をひくつかせてみるが、特徴的なニオイは感じられなかった。強いていうならば地下なためか、雨の日の土っぽいニオイがするような気がする。気がするだけで、ただの先入観かもしれない。なぜなら眼前の歌舞伎町は、まるで地上の街かのごとく存在していたからだ。洞窟のような壁や天井は無い。コンクリート敷きの道路は見える限り続いているし、振り仰げば真っ暗な空に半月が小さく浮いている。星すら瞬(またた)いている。科学技術とは大したものだ。

 本当の地上の数百メートル下に造られた偽物の地上。二百五十年前の繁華街。さながら先ほどのプリクラ機はタイムマシンだ。

「アイリ、ここに来たことあんの?」

 ユキトが意外そうな顔をする。

「まさか。こんな場所があるなんて、知らないもの」

「ふーん?」

「でも嗅いだことあるニオイがするの。食べ物とか香水とかじゃない、なんていうか……その土地のニオイ。ここって、普通のヒトが入れる場所?」

「いんや。鍵持ってるヤツしか無理。さっきオレがプリクラ機に入れたやつ」

 ユキトはマウンテンパーカーのポケットに突っ込んでいた手を片方出して、指先に摘まんだ黒いコインを見せた。ネオンの明かりで何やら彫り物がされているのは見えるが、何の模様かまでは判別できない。

「普通のヒトが入れない場所に、どうして僕たちを連れてきたの」

「同族だ、って思ったから」

「何の同族?」

「家出族」

 あはは、と笑いユキトは『歌舞伎町一番街』アーチの下まで歩いていく。そして僕たちを振り返り「寒いから早く行こーぜ」と急かした。

 僕とアイリは目で合図をし合い、ユキトについていくことにした。

「ほとんどのヒトはホログラムだよ」

 アーチの下から続くメイン通りを歩きながらユキトが言った。彼が真横にパッと差し伸ばした腕を、前から来たサラリーマンがすり抜けていく。

「基本的には向こうがぶつからないように歩いてくれるけど、今みたいに急なのは無理なんだ。咄嗟に避けるポーズもぶつかるポーズも用意されて無いから、無機質な感じで通り抜けてく」

「本物のヒトに見える」

「だろ? だからオレも、今みたいなのは滅多にやらない。モノホンと見分けつかねぇもん」

「アイリは?」

 犬の嗅覚ならばと期待してアイリを見るが、彼女は首を横に振った。

「あたしもわかんない。みんなヒトのニオイがする」

「何のためにホログラムを?」

「街を街っぽく見せるため。側(がわ)だけあっても中身がいなきゃ、歌舞伎町じゃねーだろ」

「まあ、それはそうだね」

 五分ほど歩いて、ユキトは『案内所』と書かれた路面店の前で立ち止まった。

「ここ、ここ」

 すたすた入っていくユキトに、アイリがしかめ面をする。

「ねえ、あたし知ってるわよ。これ、いかがわしいお店」

「側(がわ)わね、そう。でも中は違うから」

 ここまで来て引き返す選択肢は無いので、僕たちは大人しくユキトに従った。

 店内はユキトの言うとおり、いかがわしさとはかけ離れていた。シンプルというより質素というワードが当てはまる。

 飾りひとつ無い白壁、コンクリート打ちっぱなしの天井。中央にカウンターがあって、固定電話機が置かれている。

 ユキトは受話器を取ると、番号ボタンを押した。もの珍しい動作だと思った。なぜなら現代を生きる僕たちは、ライフナビに思念を送るだけで連絡したい相手と繋がれるからだ。昔でいう電話番号を持つヒトや犬は誰もいない。

「サケは生まれた川へと還る」

 ユキトは言って、受話器を置いた。すると、何も無いと思っていた奥の白壁の一部がスライドして、地下へと続く階段が現れる。きっと今のが合言葉か何かだったのだろう。

「さ、行こう」

 ユキトを先頭にアイリ、僕と続く。階段には絨毯が敷かれていて、靴越しにも高級さがわかる踏み心地だった。裸足のアイリは僕を振り返り「ふわっふわ」と目を輝かせた。

 二回踊り場を折り返すと、目の前に木の扉が現れた。ユキトはドアを三回ノックして、

「ただいま」

 カチリ、と開錠の音がした。ユキトが扉を引き開ける。

 すると、暗闇の奥で物音がして、シャンシャンという鈴の音とともに何かが駆けてきた。

 犬だ、と思った瞬間、暗闇から飛び出したトイプードルのような小型犬が、しゃがみ込んだユキトに飛びつく。

「わあ、ごめんって、遅くなってごめん。ただいま、キャンディ。ちょっ、くすぐったいってばぁ」

 キャンディと呼ばれた犬は、ユキトの言葉など聞こえていないかのように一心不乱にユキトの顎や口回りを舐める。

「ひゃー、熱烈……」

 アイリが目のやり場に困るという顔で明後日の方を向いた。

 ユキトはキャンディの舐め攻撃を手のひらで防ぐと、僕たちを振り返る。

「悪ぃ悪ぃ、ここオレんち。先、入って」

「お邪魔します」

 中は―――またどこかに扉が現れるかもしれないが―――ワンルームのようだった。僕は靴を脱ぎ、アイリは肉球を拭いて廊下部分へ上がる。後ろでキャンディを抱き上げ、玄関扉を閉めたユキトが、奥へ行けと促してくる。

 廊下部分を進み、開(ひら)けた居室部分まで来て、僕はハッと息を吞(の)む。案外広い作りであることはさておき、ベッドやローテーブルなどの家具に交じって、ペット用のサークルがあった。現代ではウサギやモルモットを買うヒトが使うものだ。サークルの中には寝床と水の入った器、ペットシーツを敷いたトイレがあった。

 僕とアイリは自然と互いを見た。

 鈴の音とともにキャンディが駆けてきて、ケージの中の水をぺちゃぺちゃと飲む。

「あの、あなた」

 アイリが恐る恐るといった様子でケージに近づくと、キャンディはそこで初めて僕たちの存在に気づいたのか、身をひるがえし、甲高い声でキャンキャン吠え始めた。

「ごめんなさい、あたし別に、何も……」

 ラブラドール・レトリバーのアイリと、トイプードルに見えるキャンディとでは四、五倍の体格差がある。アイリは相手を怖がらせないためか、身を低くして床へ伏せた。僕もアイリに倣い、カーペットの上に膝をつく。

 しかし、なおもキャンディは吠え続けた。ユキトが仲裁するように僕らの間に割って入り、キャンディを抱き上げる。

「よしよし、大丈夫だって。コイツらダチだから」

 それでもキャンディは聞かず、ウーッと低く唸るものだから、アイリの耳としっぽがどんどんしょぼくれていく。

 僕は痺れを切らして立ち上がった。

「僕たち、何もしないよ。ユキトのところにちょっと遊びに来ただけ。何か、僕たちの行動が気に障ったなら―――」

「聞いても答えらんねーよ?」

 ユキトがキャンディをあやしながら曖昧に笑う。「薄々気づいてんだろ? キャンディは、アイリとは違う」

 僕は肯定も否定もできずに黙った。

「キャンディは、進化の系譜に載らなかった犬だ。犬の言葉だけを話し、犬の本能のままに振る舞う」

 アイリが立ち上がった。

「それって、あたしたちの遠い先祖と同じってことよね。キャンディと話すことはできないの?」

「アイリが犬語を話せるなら、できるかもね」

「あたし……」

「話せないだろ? 当然だ。地上(うえ)に住む犬で犬語を話せるヤツなんざ、見たことがない。犬が犬らしくいられる場所は地下(ここ)だけだ。だからオレたちは地下(ここ)を守り続ける」

 ようやく鳴きやんだキャンディにユキトは頬を摺り寄せる。

「ユキト、君たちは一体……」

「遡上(そじょう)派さ。共生派でも反人派でもない」

 ローテーブルの上で、手のひらほどの電子端末が画面上に時刻を表示しながら震えた。歴史の授業で見たことがある。三百年以上前に開発されたスマートフォンというやつだ。これはアラーム機能らしい。

「集会が始まる。行くだろ?」

 ユキトはキャンディを下ろしてスマートフォンをポケットに入れ、玄関へ行く流れで僕の手を取った。

「あたしも行く」

「ごめんアイリ、犬は連れていけないんだ」

 ひょろ長い見た目に反して、ユキトの力は強かった。僕は手を引かれたまま振り解けず、靴下のまま外へ引っ張り出されそうになって慌ててつま先を靴に突っ込む。

「キャンディと仲良くしといてな」

 うろたえる僕の背後で玄関の木の扉が閉まり、オートロックの音がした。

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