腕に痛みを感じて瞼を上げると、銀幕にはエンドロールが流れていた。ふと見ればアイリが僕の腕に噛みついていて、セーター越しに犬歯の鋭さを感じる。
「アイリ、痛いんだけど」
彼女は不満そうに僕の腕を開放し、そっぽを向いた。
「あんぽんたん。なんで寝てんのよ」
「飽きちゃってさ。寝不足だったし」
「信じらんない」
「ラストどうなった?」
寝ていたくせに、それは気になる。ヒトと犬とのカップルはハッピーエンドで結ばれたのか、それとも別の結末を迎えたのか。
「教えない」
アイリはジト目で僕を見て言い放った。「罰として、今日一日あたしのターンだから!」
アイリの宣言どおり、映画館を出た僕たちは”アイリが僕としたいこと”をして回った。
まずはダンカラ―――昔のカラオケボックスの進化版で、ダンスとカラオケを同時に行うのでダンカラだ。個室内にはVR(ヴァーチャルリアリティ)技術により好みの設定のコンサート会場が映し出される。アナウンスや観客からのリアルな声援もある。超人気ユニット『AKI&AI』となった僕たちは、『AKIー! 愛してるぅー!』の声援を浴び、『AIちゃんウインクして』のうちわに片目をつぶったりしながら、途中でMCを挟みつつ、約二時間のパフォーマンスをなんとか完遂した。
ダンスも歌もからっきしな僕は、初心者用のサポートシステムを使ってほとんどオートで体を動かしてもらい、歌も、発声さえすれば聞ける音程に調整してもらった。一方のアイリはというと、すべて自力で踊り、歌っていたのだから驚きだった。一体いつの間に練習したのか。人生最期にして僕は、双子のように育ち、お互い何でも知っていると思っていたアイリの新しい一面を目の当たりにした。
ダンカラの後は、ラーメン屋の行列に並んで二人してサイドメニューのチャーシュー丼を食べた。券売機の前で「やっぱり僕、ラーメン頼もうかな」と、ひよった僕にアイリは「食べたいもの食べて何が悪いのよ」と言い放ち、『チャーシュー丼』のボタンを二回連打した。頑固おやじ風の店員は僕らを咎めなかった。僕は人生で初めて、ラーメン屋に来てラーメンを頼まなかった。
腹を満たした僕たちは次に、マーダーミステリーという約三百年前に考案された没入型推理ゲームに参加した。十人前後の参加者たちがそれぞれ殺人事件の登場人物になりきり、犯人を探し出すために議論を重ねるゲームだ。各々には割り当てられた登場人物の記憶データと、ストーリーを展開させる主要な台詞が与えられる。
僕はめでたく犯人役となった。そして、ストーリーの終盤で僕が犯人だと見破ったのはアイリだった。
「愛していたから殺したんだ。僕も一緒に逝くつもりだった。君らが邪魔さえしなければ」
なんて台本どおりの台詞を吐きながら、僕は背中が痒くて仕方なかった。
「彼女が苦しむのを見るのが辛かった。楽にしてやりたかった」
「そんなのあなたの都合だわ。彼女は生きたかったはずよ。彼女は死ぬつもりなんてなかった」
「そんなもの、他人の君にわかるはずが……」
「わかるわ。彼女は遺書を破り捨てた。肌身離さず持ち歩いていた遺書を。あなたと、出逢ったから」
迫真の演技だなと思いながらアイリを見ていた。ダンカラといい、彼女は何かになりきるのが好きなのかもしれない。
「待っていて。僕もすぐに逝くよ」
「ダメッ……!」
役に入り込みすぎた彼女が、テーブルの上のワイングラスを倒した。幸いそのグラスはプラスチックでできた飾りだったので、こぼれる液体は入っていなかった。
「あんぽんたん」
アイリの代わりにグラスを元に戻した僕が小さく呟くと、鞭のようなしっぽがバシリと僕のふくらはぎを叩いた。
冬の日没は早い。マーダーミステリーの店を出ると、もう空は群青色をしていてネオ・シンジュクの街には眩しい街灯が灯っていた。
「寒いね」
僕はダウンジャケットのジッパーを首元まで上げる。
母さんからの着信が四件、メッセージが七件。思念でライフナビに問い合わせると、昼過ぎあたりからの履歴が返ってきた。そうなるだろうと思っていた。半日くらいの不在なら、二人でどこかへ出かけたのだろうと考える。けれどそれを過ぎたら少し心配になる。僕もアイリも両親には何も告げず、書き置きもせずに出てきた。早ければ今夜あたり、捜索願を出されるかもしれない。
「あたしはこれくらい平気」
犬用のダウンジャケットを着たアイリが得意げに首を傾げて笑う。
アイリのライフナビにも、母さんからの連絡は来ているのだろう。その履歴を見て思うところはあるはずだ。けれどアイリはそんなこと、おくびにも出さない。だから僕も黙っておく。
「次はどうする?」
「美味しいお肉が食べたい! ”今日”はまだ終わってないわよ」
「はいはい。今日はアイリのターンだものね」
僕たちはアイリの先導で、高校生が絶対に入らないだろう高層ビルの高級焼肉店へ突撃した。ベストを着た店員は、僕たちを大人かのように扱い、夜景に臨む窓際のカウンター席へと案内した。カウンター席といっても、二席ずつパーテーションで仕切られているので、実質二人席だ。カップルシートというものはやはり、どこにでもあるらしい。
追い返されなくてよかったな、と胸を撫で下ろしたのもつかの間、メニューを開いて僕はその金額に絶句した。アイリはケラケラ笑っていた。
「いいじゃない。ごほーびよ、ごほーび」
最後の晩餐にはまだ少し早い。けれどアイリのウキウキ顔を見て、別にいいかと思ってしまった。高級焼肉を食べること、それが、アイリが僕とやりたいことならば。
その後、好きなだけ食べて、はしゃいで、驚くべき金額を支払って高層ビルを出ると、時刻は午後八時を過ぎていた。
「寒いからファミレス行きましょ」
というアイリの鶴の一声で僕たちはそこから一番近いファミリーレストランに入り、ドリンクバーを注文した。セルフサービスで取ってくる抹茶ラテとホットコーヒー。ひと皿で数千円する焼肉との落差がすごいなと思った。僕はこちらの方が落ち着く。
四人掛けのソファ席にアイリと向かい合って座り、熱いコーヒーを胃の中でうずくまる焼肉の上に落としていく。普段は眠れなくなるので夜にコーヒーなど飲まないが、今日は別だ。無理に眠る必要が無い。
「楽しいわね」
しみじみとアイリが言った。まるでそう自分に言い聞かせるかのようだった。
「うん」
と僕は答える。「今日だけで、”したことがないこと”たくさんしたよ」
「でっしょー! さすがあたしのチョイス。明日もあたしのターンがいい?」
「それはちょっと」
「ちぇー、つまんない」
僕たちはだらだらと他愛のない話をした。そうして少しずつ、今夜以降の予定を決めていった。泊まる宿、行きたい場所、移動手段、食べたいもの。
「会いたい人はいる?」
「いない」
即答すると、アイリは複雑そうな顔をした。だからつけ加える。
「もともと一人で出てくるつもりだったんだ。アイリがいてくれれば十分」
「……あんぽんたん」
「え、なんで?」
罵倒される理由がわからなかった。
両親の話は、僕もアイリも持ち出さなかった。
そのうちにファミレスが閉店時間を迎え、僕たちはまた寒空の下へ放り出された。今夜の寝床は決まっている。現在地からほど近いカプセルホテルをアイリが二人分予約した。
時刻は夜十一時を過ぎていた。ライフナビには着信が三十二件、メッセージが四十一件。どこまで増えるか面白くなってきた。
僕とアイリはカプセルホテルを目指して繁華街の方へ歩き出した。
ちょうど、大きな交差点で信号待ちをしているときだった。マウンテンパーカーを着た同年代くらいの少年が、同じく信号を待つ人々の間を猫のようにするりと抜けてきて、僕の隣に立った。
「この先行くと、補導されんぞ」
信号が青に変わる。
歩き出さない僕を不思議そうに見上げるアイリをよそに、僕は立ち尽くし、横に立つマウンテンパーカーの少年を振り向いていた。