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5 シたいこと

 かつて純喫茶には喫煙席というものがあったそうだ。それが犬権保護法ができて以降、次第に淘汰されて、ついには姿を消したらしい。犬の嗅覚は人間の千倍から一億倍ともいわれている。店内でスペースを分けたくらいでは到底、煙草の臭いは防げない。

 個人経営の純喫茶。僕たちはその窓際の席に通された。ゆったり過ごせる四人掛けのソファ席だ。十二月二十六日の世間はまだ平日なので、窓の外を会社員らしき大人たちが足早に通過していく。そのせわしなさとは対照的に、僕たち含め三組しかいない店内には、レトロなジャズピアノとコーヒーの香り、そして穏やかな空気が流れていた。

「わあーっ、美味しそーっ」

 プリンアラモードが二皿届くと、アイリは目をきゅるきゅる光らせてしっぽを振った。そのしっぽに叩かれたソファがビタンビタンと大きく鳴るので、僕は店員に注意される前に「しーっ」と彼女を諭す。

「わ、ごめんごめん」

「しっぽって抑えられないの?」

「うーん、無意識に動いちゃうのよね」

「難儀だなぁ」

「ヒトだってすぐ顔に出るでしょ。犬のしっぽより、わかりやすいわよ」

「……僕も出てる?」

「時々」

「気をつけなきゃ」

「あはは、難儀ねぇ」

 プリンアラモードは一つで二人分くらいあった。プリンの両脇に逆さにしたソフトクリームが二つ刺さっていたのだから、きっと二人分だ。一人で二つのソフトクリームを食べることになる料理を僕は知らない。

「最っ高ー」

 アイリは鼻の頭に生クリームをつけながら、ウサギ型のリンゴを上機嫌で食んだ。鼻を拭いてやろうかと思ったが、どうせまたつくので最後に拭けばいいと思い、放っておいた。

 生クリームとチョコソース少なめで、とオーダーしたら受けてもらえただろうか。今さら考えても仕方ないことを思いながら、僕は腹の中に甘味を詰め込んだ。

 やがて平皿の上が空になると、「食後で」と注文しておいたアイリ用のカフェオレ(デカフェ)と僕用のホットコーヒーが運ばれてきた。僕は朝に限り、熱い飲み物を食後に飲むと決めている。熱ければ、それはお茶でもいい。満たされた胃の中に、熱い液体が落ちる感覚が心地よいのだ。眠っていた体の起動スイッチを入れられたような気分になる。

 ホットコーヒーをブラックのままひと口飲み下し、ホッと息をつく。深皿のカフェオレを舐めて満足げな顔をするアイリの、鼻の頭についたままのクリームを紙ナプキンで拭ってやると、アイリはむうっと拗ねたように頬を膨らませた。何故そのリアクションなのか。礼くらい言ってほしいものだ。

「ねえ、アキラはしたいことってないの?」

 むうっとしたまま彼女は問うてくる。

「そうだねぇ……」

 したいこと、と言われると困ってしまう。したかったことならある。死ぬまで日常を続けることだ。しかし、家出という非日常に一歩踏み出した今となっては、もはや叶わない。

 とはいえ、何もないという回答では彼女は納得しないだろう。僕は頭を捻り、それらしい答えを絞り出した。

「今までに、したことがないことがしたい」

 僕の本心とは真逆の願望だ。彼女の垂れた耳が、ピコンと動く。

「それいいわね、楽しそう。まずは何から始める?」

「……食い逃げ」

「あんぽんたん。あたしは走るの早いからいいけど、アキラはすぐ捕まるからダメよ」

「逃げ切れるかどうかの問題?」

「あたし、春の体育祭の徒競走でシェパードに勝ったもの」

「僕は?」

 と尋ねるのは、自分ではもう覚えていないからだ。

「残念だけどコーギーに負けてたわ。でもアキラ、玉入れはいい線いってた」

「そっか。小さいころアイリとキャッチボールしてたおかげかな」

「来年は―――」

 と言って彼女は黙った。申し訳ないような気持になる。僕に来年の春は来ない。

 だから話題を変えることにした。

「そういえば、アイリが僕としたいことって他にもあるの? 戦車みたいな甘味を二人で腹に詰め込む以外に」

「ちょっと! 言い方考えなさいよ」

「だって、戦車みたいな形してたし」

「他にあるでしょ、良い例えが」

「他にもあるの、って聞いたのは僕の方だけど」

「……あるわよ」

 彼女の折れた耳が遠慮がちに下がる。「映画観たい、二人で」

「観たことあるだろ」

「最近公開されたやつ」

「ふーん……」

 別に断る理由も無いし、ちょうど映画館の多いネオ・シンジュクにいる。

 映画を観るなら利尿作用のないホットミルクにでもすればよかったなと思いながら、まだ湯気の立つカフェインを僕は一気に胃へ落した。


 カップルシートというものは昨今どこにでもあるらしい。そういえば以前一人で行ったプラネタリウムにも、そんなものがあった。

 アイリが映画館の窓口でそのワードを口にした時には眩暈がしそうだったが、何も言うまい、彼女のしたいようにさせてやろうという家族愛が僕の上下の唇をかろうじて縫いつけた。

「やったぁー、カップルシート! しかもプレミアムぅ」

 本映画館に一組しかないプレミアムカップルシート。銀幕に臨む前面以外の五面が壁になっており、他の客に煩わされることが無い。座席はリクライニングもできる二人掛けのソファ席で、飲み物や菓子を置くサイドテーブルもついている。

「これは無駄遣いって言わないんだ?」

「ええ。”今までにしたことがないこと”だもの」

 僕の願望も同時に叶えようという彼女の粋な計らいらしい。

「それで、観るのはなんて映画だっけ」

「もうっ、ちゃんと興味持ちなさいよ」

 映画のパンフレットまで買った彼女は、それを音読し始めた。僕はソファのリクライニングを調整しながら彼女の声に耳を傾ける。

 タイトルは『君と飛ぶ』。ヒトの男性と犬の女性との種族を超えたハートフルラブストーリーらしい。僕は恋愛モノに触れると背中が痒くなる体質なので、一人で来ていたらこの映画は絶対に選ばない。そういった意味でも”今までにしたことがないこと”といえるかもしれない。

 以前にアイリと二人で映画館へ来たのは、僕が覚えている限り、確か中学に上がってすぐの夏休みのことだった。そのときにも観る映画はアイリが選んだ。ホラーモノだった。むしろホラーモノだから、一緒に観てくれる友達がいないとのことで、僕が引っ張られたのだ。

 今回もホラーモノの新作が出ていたが、アイリはそれを選ばなかった。

 僕がいなくなったあと、アイリは誰とホラー映画を観るのだろう。願わくば、今でなくていい、十年後のアイリの隣に、そんな相手が現れんことを。念押しするが、今でなくていい。アイリに恋愛など十年早い。父さんだってそう言うはずだ。

 客席の照明が暗くなっていく。やがていくつかの予告が流れて、本編が始まった。

 開始十五分まで観て、僕はポップコーンに手を伸ばした。そしてポップコーンが底を突くと、潔く目を閉じることにした。

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