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4 家出生活の始まり

 家出生活、記念すべき最初の夜を僕らは駅前のネットカフェのカップルシートで過ごすことにした。カップルシートという名前が僕の倫理観に反するのでファミリーシートにしようと申し出たが、『二人ならカップルシートで十分でしょ。無駄遣いしない』と彼女に一蹴されて泣く泣く断念した。

 今どきのネットカフェは完全個室が主流だ。僕とアイリはドリンクバーで各々温かい飲み物を調達すると、個室に引きこもった。ちなみに犬用のドリンクバーはコップではなくプラスチックの深皿で提供されており、ヒト用より全体的に薄味だ。

「さあさあ始まりました。サバイバルでまず大切なのは、持ち物の確認よ」

 薄いコーンスープを舐めたアイリはハツラツとして言う。

「家出はサバイバルでもないんだけど。あ、僕が余命一か月半なのにかけて言ってる?」

「うそ! かけてないわよ」

「何が嘘なんだか。アイリは嘘って言葉を適当に使いすぎだよ」

「じゃあホント」

「その答えも嫌だな」

「うるっさいわねぇ」

 意味のない会話を交わしながら、僕はシートの上に、持ってきたリュックの中身を空ける。アイリも犬用のリュックを背負ってきており、同様に中身をひっくり返した。

 玄関で僕に声をかけたとき、一緒に行くつもりでリュックを持ってきていたらしい。いつ荷造りしたのかと尋ねてみたが、内緒とのことだった。彼女は、僕がいつか出ていくだろうことに前々から気づいていたのだ。まさに人間離れした嗅覚。

 僕らは持ち物を順に並べていった。まずはウォレットカード。昔でいう財布だ。一枚のカードの中に身分証明機能、クレジットやデビットなどの支払機能、レシート代わりの利用明細機能、キャッシュカード機能、専門店のポイントカード機能、公共交通機関の定期券機能などが集約されている。2324年の現代では、ウォレットカードの情報をチップに入れて手首などに埋め込んでいる大人が大半だが、チップを埋め込めるのは十八歳以上の成人のみと法律で決められているので、僕はまだカードを持ち歩いている。アイリも同様にカードを持っていた。

 お互いの口座残高を発表し合い、ひとまず二人が一か月半の家出を完遂するのには十分な金額があることがわかった。そこまででいい。一か月半経って僕が平和に死んだら、彼女は家に帰ってまた両親の庇護のもと日常を過ごし始める。両親だって、僕がいなくなれば残された彼女を愛するしかない。もともと両親は、僕と彼女とをほとんど平等に大切に育ててきた。スペアだからという理由以上に、それは純粋な愛だっただろうと客観的に見て思う。お年玉や小遣いをこつこつ貯めた彼女の残高をゼロにしかねないのは気が引けるが、彼女は健康だから、アルバイトでも始めたらいい。

「次は、ライフナビよ」

 彼女は直径一センチほどの黒い球体をシートの上に転がした。ライフナビは、昔でいうスマートフォンやスマートウォッチだ。ボタンを押したり声を認識させたりする動作は不要で、思念のみで操作でき、欲しい情報は脳の神経回路に直接流れ込んでくる。つまり、所持さえしておけば、あとは頭の中で『空室のあるネットカフェを探して』と”思う”だけでいい。検索結果は脳の中で映像や音声として展開される。今僕らがいるネットカフェもそうやって探した。

 大抵はアクセサリーに加工して身につけるヒトや犬が多いが、僕と彼女はそういったものが好きではないので、小さな巾着に入れてポケットやスクールバッグの中にしまっている。彼女はよくライフナビをなくすので、ペンダントにでもしたらどうかと一度提案したことがあるが、首輪みたいで嫌だと拒否された。

 犬用のペンダントやネックレス、チョーカーは確かにある。専門店もある。しかし現代の犬は、ヒトほど首にアクセサリーをつけない。彼らの主流はピアスかイヤリング、あるいはしっぽリングだ。それはかつて犬が『ワン』と『キューン』しか喋らなかった時代にヒトから首輪をつけられ使役されていた歴史へのアンチテーゼなのかもしれない。

「アキラ、アレは忘れてないわよね?」

「もちろん」

 僕はジッパーつきビニル袋にまとめていた一式をアイリの鼻先に差し出す。

 薬だ。三種類の内服薬と二種類の注射薬。当然、治療薬ではない。病の進行を遅らせるというだけだ。摂取しなければ僕は今の二倍の速度で自分を忘れていく。医学が進歩しようとも、薬というものの存在はなくならない。煩わしいことこの上ない。

「はあ、よかった。あんた抜けてんだもの」

 心底ほっとした様子の彼女に僕は返す言葉が見つからなかった。何も、よくはない。延命が良いのか悪いのか、なんとも判断しがたかった。

 僕たちはそれから一時間ほどかけて互いの持ち物をチェックしていった。資金とナビさえあれば、あとはどうにでもなる。

 アイリが食料として持ってきた缶詰が、母さんがスーパーで間違えて買ってきた猫缶だったのには笑った。母娘(おやこ)で同じ過ちを犯すとは。

 気づいた母さんはどう思うだろうか。今の母さんならきっと泣くかもしれない。そんな風に思いながら、なんだか鼻の奥がツンとからくなってきて、僕はアイリに気づかれないよう唇の裏側を犬歯で噛んだ。

 その後、日の出まで三時間ほど、僕らは仮眠をとることにした。僕はなかなか寝つけなかったが、僕に背を向けて横たわったアイリはものの数分で安らかな寝息を立て始めたので、驚きを通り越して可笑しかった。呼吸に合わせて上下する横っ腹がなんだか寒そうに見えて、僕はブランケットを貰ってきて彼女の腹にかけてやった。


「どこ行こう。どこ行きたい? お腹空いた! あたし朝ごはん食べたい!」

「僕に尋ねるのか主張するのか、どっちかにしてよ」

「じゃあ主張の方」

「はいはい」

 午前七時。ネットカフェの入っていた雑居ビルの前。朝日を浴びながら次なる目的地を考える僕とアイリ。

 アイリのクリーム色の毛並みが朝日を反射して眩しい。僕は思念でライフナビに問う。

『今から入れる飲食店は? 電車移動もOKで』

 すぐに答えが返ってくるので、そのまま伝書鳩みたくアイリに伝える。

「徒歩圏内なら牛丼かハンバーガーかファミレス」

「えーっ、つまんなぁーい。せっかく早起きしてるのに。他にはないの?」

「じゃあ電車でネオ・シンジュクまで出て、ホテルの朝食バイキングとか? エッグベネなんとか、とか? フレンチトースト? 温かい蕎麦?」

 彼女の顔色を見ながら検索結果を読み上げていく。

「クラムチャウダー? オムレツ? 銀じゃけ定食? プリンアラモード?」

 言ってから、しまったと思った。朝からプリンアラモードなんて食べさせられたら吐く。だが口に出した言葉は取り戻せない。

 アイリの目が輝いている。

「プリンアラモード食べたい。行きましょ行きましょ」

「待って、僕は普通にモーニングセット頼むからね」

「えーっ! つまんなぁーい」

「僕はつまる」

 ドン、とアイリは僕の太ももに頭突きをした。

「痛いよアイリ」

「ねえアキラ。アキラがしたいこともしたいけど、あたしがアキラとしたいこともしてほしい」

「え?」

「だってどっちも、もうできなくなるのは同じでしょ?」

 アイリはまた頭突きをした。彼女は僕の顔を見なかった。そういうときの言葉こそ無下にしてはいけないことを、僕は十七年の人生の中で心得ていた。

「わかったよ、食べる。アイリがそうしたいなら」

「……最初からそう言いなさいよ、あんぽんたん」

 けろりとしてアイリは跳ねるように歩き始める。スキップとも違う絶秒なステップだ。

 なんだか騙されたような気分になりながら、僕はアイリの後を追い、駅へと向かった。

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