いつもどおりでいてほしいという僕の願いを、父さんと母さんとアイリは表面上、受け入れてくれた。
だが僕は知っていた。母さんが僕の目を盗んでアイリを病院へ連れていくのを。アイリの頭の周りの毛にところどころ、二センチ四方のハゲができていることを。父さんが会社に行くふりをして金策に走っていることを。
三人とも嘘つきだ。嘘つきで優しくて残酷だ。
彼らは僕に黙って僕を手術しようとしている。本人の承諾なしにそんなことが可能なのか。わからない。もしかしたら僕は、病気の発覚と同時に意思能力の欠如を認められ、今となっては自分のことを自分で決める権利さえ失ってしまったのかもしれない。
僕の日常は表面だけ凪いだまま、水面下で少しずつ崩れようとしている。それは僕から言わせれば裏切りだ。
だから僕は、そんな表面だけの日常に満足するふりをして、水面下で荷造りをした。持ち出したいものなどない。行きたい場所もない。こんなことは不本意だ。けれどこのままここにいては、僕にとっての最大の不本意が訪れることになる。
移植が必要なのは脳丸ごとではなく、一部だ。だが脳の一部をドナーとして提供して生きていた前例はない。なぜならヒトからヒトへの脳の移植は、病により死に瀕したヒトや世を疎んで死を決意したヒト―――安楽死制度を使用するヒトの臓器提供意思表示によって行われ、ドナーはそのまま安らかに死を迎えるからだ。そして、犬からヒトへの移植は”原則として”認められていない。違法だ。なぜならそれが、今から約八十年前に全世界の法律に追記された犬権保護法の第七条『すべての犬の生命は犬自身のためにあり、ヒトのために脅かされてはならない』に反するからだ。
しかしそこには穴がある。だから”原則として”と表現することになる。
穴とは、犬の定義だ。つまり生物学的な犬なのか、精神・感情論的な犬なのかということ。
要は、犬を犬とみなすか家族とみなすか。家族であればヒトと同義。ヒトの戸籍に入り、ヒトと同等に生きる犬はヒトの法で裁かれる。すなわち、犬権保護法の適用外となる。
『そのためにアイリを家族にしたんでしょ。僕が不妊治療でやっと授かった子どもだったから。二人目はもう望めなかったから。僕が決して死なないように、僕の臓器のスペアが欲しくて』
四日前、学校の来賓室で、思ったことを淡々とそのまま口にしたら父さんに胸倉を掴まれた。殴られると思った。だけど母さんが父さんの脚にしがみついたから、父さんは僕を殴らず放して、代わりに僕に謝った。
意味がわからなかった。彼らが謝るべきは、僕ではなくてアイリだ。
僕の台詞を聞いても、アイリの目は濁らなかった。ライトブラウンの澄んだ瞳で父さんと母さんを見つめて、そうして僕に微笑んだ。彼女は言った。
『あたしは家族になれて嬉しい』
あんぽんたん。
彼女が僕によく言う言葉を、このときばかりは僕の方が言ってやりたいと思った。でも、声が出なかった。
胸が詰まるという現象を、僕は十六にして初めて知った。
水面下のものが水面をつつき出すまでは、まだこの家にいて、表面上の日常を過ごすつもりだった。だが家族の思惑より先に、走り出したのは僕の病の方だった。
十二月半ば。冬休みを前にして、僕はとうとうクラスメイトの顔と名前がほとんどわからなくなった。顔を見ても数日経つと忘れてしまうし、名前もまともに覚えていられない。それどころか登下校の道のりも、アイリが一緒にいなければ分かれ道で立ち止まるようになり、朝などは以前通っていた中学の方向へ歩き出すこともあった。
そう、僕の脳は記憶をじわじわ遡り、九か月弱の花の高校生活を食い尽くしてしまったのだ。そして今はまさに、中学時代に噛みついたところだ。
だからといって自分を中学生だとは思わないところが不思議だった。脳の立ち位置というのだろうか、それが中学三年生になっただけで、十六歳の高校一年生である自覚はある。どう表現すべきか、僕というヒトは、中学三年までの普通の人生と、そこから約九か月間の空白と、直近の数日で成り立っている。十六歳の高校一年生という僕のアイデンティティは、わかりやすくいえば、今目に見える制服やら教科書やら、アイリとの会話やらを平たく並べてパシャっと一瞬を切り取った写真でしかないのだった。
潮時だ。
と恐らく僕だけでなく両親とアイリも思っただろう。だから僕は年明けを待たず動き出すと決めた。
十二月二十六日。魔法にかけられたみたいなクリスマスシーズンが去り、年末年始を前にして人々の心がふっと緩むとき。
犬の五感は緩まなかった。
「どこ行くの」
深夜二時。玄関に座って靴を履く僕の背後で、チャッチャと爪の音がした。
「アイリには言えないとこ」
僕は冷静に答える。彼女がこの場で騒ぎ立てて両親を起こすほど馬鹿ではないことを僕は知っている。
「あんぽんたん」
「またそれか」
「移植しないと死んじゃうんでしょ」
「そうだよ」
「だったら、移植するしかないじゃない」
「”しかない”なんてことはない」
靴ひもを固く結び終えて、リュックを背負い僕は立ち上がる。「死んじゃう方を選ぶよ、僕は」
「……許さない」
泣き出す前みたいな声音で言われて、僕は彼女を振り返る。玄関ドアの擦りガラスから差し込む月光がスポットライトのように彼女に差していた。こんなところまで彼女は善だ。
「あたし、アキラに生きててほしい。あたしがアキラを生かす」
「ありがとう。でも僕も、アイリに生きててほしいんだ。……ごめんね」
あまり長く話すと決心が鈍る。僕は踵を返して、音を立てないようゆっくりと玄関の鍵を開け、ドアを押し開けた。
十二月の深夜。吐き出す息が月光のもと白く立ち上る。キンとした寒さが身に浸透してきて震えそうになるのを耐えつつ、外側からまたゆっくりとドアを閉めていく。
と、十センチほどの隙間を残してドアが何かに引っかかった。下を見れば、彼女の鼻先が挟まっている。
「アイリ」
「待ちなさいよ。これだけ答えて」
アイリは鼻先でぐいぐいドアを押しやり、外まで出てきた。青白い月光を全身に浴びて神の使いのようになった彼女が僕を見上げて問う。
「本当は、死にたくないでしょ?」
静謐な声が鼓膜を揺らし、そのまま脳に突き刺さって僕の全身を一気に凍らせた。息をするのも苦しくて、声を発せられず、ただ僕は……僕は―――
ほんの少し顎に力を入れて、頭を上下に小さく振った。
月の光を飲み込んだ彼女の目が、ラムネ瓶を割ったばかりの濡れたビー玉のように輝く。
「うん……うん、あたしも……本当は、死にたくない」
彼女の告白を呼び水に、僕の感情が溢れ出す。
「僕も死にたくない」
「うん」
「だけどアイリには生きててほしい、本当だよ」
「わかってる。あたしもアキラに生きててほしい。だけど、生きていたい」
「僕たち馬鹿だ」
「そうかも」
「もしくはアイリの言うあんぽんたん」
「そっちのがいいわ」
「死にたくないけど、違うんだ」
「うん」
「生きていたい」
「生きていたいの」
「アイリと」
「アキラと」
彼女は二本足で立ち、飛びつくみたいにして僕の胸に手をかけた。それはまるでヒトがヒトに抱きつくかのようだった。僕は少し上体を折ってアイリを抱きしめる。こんなに寒いのにアイリはやっぱり日なたの匂いがして、その安心感が僕のチンケなプライドに反して僕の口をすべらかにする。
「人生の最期が、ぐちゃぐちゃで終わるのが怖いんだ」
「あたしがそんなことさせない」
「アイリがいれば安心かも」
「あたしも行く」
「……本当?」
「アキラが嫌だって言ったって、ニオイを辿ってついていくから」
「僕って臭い?」
「……ちょっとだけ」
どうか。
ああ、どうか。神の使いのように青白く光る君。
僕にひと匙の日常をください。
明日の朝、僕が目覚めなかったなら、すべらかで硬い日なたの香りのする足で、どうか、どうか遠慮なく、僕の腹を踏んづけてください。