初めて異変を感じたのは半年前の五月。ちょうど一学期の中間テストの時期だった。異変というより、違和感の方が近いかもしれない。得意なはずの暗記ものがなかなか覚えられないのだ。正確には、覚えたのに、覚えたことすらすっぽりと抜け落ちてしまうような感覚だった。
例えば英語。文章の途中の空欄に当てはまる英単語を選択肢から選ぶ問い。いつもは大体一度解けば、文脈ごと単語の意味を覚えられる。なのにこのとき僕は、一度解いたことを忘れて三度、同じ問いで同じミスをしていた。そのことに気づいたのは、選択肢のメモに使っているノートを何の気なしにパラパラ遡ったときだ。
問題集は繰り返し解くもの。だから直接回答を書き込んだりはしない。直接書く代わりに僕は、それ用のノートを使う。そこには英語だけでなくあらゆる教科の問題の回答のみが並んでいて、赤ボールペンで丸やらバツやら書かれている。
そんな回答集を振り返ることなど滅多にない。だから本当に気まぐれだった。なんとなく過去の戦歴を二、三枚捲ってみたら、果たして同じ敗兵がいた。
疲れているのだと思った。なにせ高校一年。四月に入学したばかり。ほんの一か月ちょっとで、まだクラスメイトの顔と名前も全員一致していないのに中間テストがやってくる。大人の言うストレスってやつなんだと思った。それで納得した。実際、テスト習慣が終わったら違和感は解消された。ノートを捲っても、同じ敗兵がうつ伏せていることはなかった。
しばらくは。
次に違和感を覚えたのは八月のお盆明け。夏休み中の半日の出校日。
僕はクラスメイトの名前を呼べなかった。隣でアイリが『○○、ちょっと痩せた?』『△△ったら焼けたわねぇ。どこ行ったの? え、ハワイ?』とはしゃぐ声を聞き、○○や△△という名に思いを馳せるも、ピンとこなくて驚いた。だが、容姿は確かに覚えているのだ。こんな鼻や目のやつがいたなとか、教室の椅子から真っ白な尻がはみ出ている豊満な後姿を見たことがあるなとか―――そいつの犬種がグレートピレニーズという犬種なこととか。
そいつの尻ばかり眺めていたらアイリに噛みつかれたこととか。いや、これは余計な記憶だ。
まぁさておき、このときも僕はまだ焦らなかった。なぜなら九月に入り二学期が始まれば、失っていたクラスメイトの名もすぐに取り戻すことができたからだ。○○はアサノさんだったし、△△はウエハラくんだった。グレートピレニーズはシライシさんだ。
元通りの日常。それでいいし、それだけでよかった。
けれど、常に続くものなどないのだとやがて僕は思い知らされることになる。
僕を病院に向かわせた決定打は四日前。僕とアイリ、午後の演習を終えた夕暮れ時の帰り道。伸びた影を後ろに引き連れて、どうでもいい会話をしながらアイリと横並び。
歩きながらドン、と僕の太ももに頭突きをして、アイリが言った。
『ねえアキラ、その話聞くの三回目なんだけど』
「僕の脳はあと三か月もしたら、家族の顔を忘れるらしい。それで、すべての記憶を忘れたとき、僕の脳は機能を停止して……僕は死ぬ」
学校の来賓室。僕を見たまま立ち尽くす父さん。僕の足元で泣き続ける母さん。母さんに身を寄せて必死に宥めようとするアイリが、僕の言葉に顔を上げた。
「えっ、なに、なんて言ったの?」
聞こえなかったわけではない。犬は耳が良い。ただ、信じられないという表情だった。
「アキラ、今の、冗談でしょ?」
そうであってほしいと彼女のアーモンド形の目が言っていた。僕はその目を見据えて無感情に返す。
「冗談じゃない。本当だよ」
「うそ……」
「本当だって」
「あっ、でっ、でも、治療法があるんでしょ? 無いわけないわよね?」
「あるよ。”たった一つの方法”が」
「……よかったぁ。心配させないでよ、あんぽんたん」
「その方法は―――」
ひざを折り、彼女と同じ目線になって、僕は彼女の頭を撫でる。
「―――アイリの脳を手術で移植すること」
顔を覆ったままの母さんが、ひと際高い声を上げて泣いた。何か人間ではない別の動物の咆哮のようだった。
当のアイリはというと、僕を見つめたまま嘘みたいに、本当に、現実ではなくて映画の中の世界みたいに、ピカッと目を光らせて笑った。
「あたしの……でいいの? いいわよ、あげる。あたしの脳、ぜんぶ」
だから反対に、苦しくなったのは僕だ。純粋で綺麗な彼女に反射して、世の中の悪が全部僕の方へ流れてくるようだった。その悪たちが行き場を失って、僕の体に開いた穴から必死に出ていこうとした。
例えば目から。
「アキラ……アキラ……」
笑顔のまま彼女は僕を呼んだ。長く温かい彼女の舌が僕の顎をぺろっと撫でていき、そこに伝い落ちていた悪の存在を僕は知る。
照れも何も忘れて、僕は彼女に抱きついた。温かかった。生きている命の熱だった。彼女のクリーム色の毛は、いつも日なたの匂いがする。その匂いを胸いっぱいに吸い込んで、僕は深呼吸をした。彼女からは見えない位置で、こっそり目元を拭った。
そうして僕は彼女から体を離し、立ち上がった。顔に無理やり不敵な笑みを張りつけて、彼女からも母さんからも父さんからも遠ざかった。
三人に聞こえるように、はっきりと言ってやった。
「移植手術は受けない。絶対に」
体が震えるのを感じていた。この震えが三人にも見えているかもしれない。
格好悪い? 情けない? 知ったことか。
これは武者震いだ。いやいや、誰と、何と戦う気なんだか。
そんなものは決まっている。
僕の脳を蝕(むしば)む病と、だ。
「起っ、きっ、ろっ! あんっ、ぽんっ、たんっ!」
「いでっ、いだっ、痛いってぇー」
前足の爪を深爪間際まで短く切ってやっても彼女に踏まれる痛みは変わらない。ならば今度はダイエットでも勧めてみるか、いや、それだと提案した瞬間に噛みつかれるか、と僕は掛布団の下で防御の姿勢をとりながら熟考する。
「目玉焼きは半熟か固焼きか、って母さんが聞いてるわよ」
「はっ、半熟で」
「りょー、かいっ!」
と、勢いづけて掛け布団を捲られる。十一月も間もなく終わりに差し掛かり、早朝の空気は冷蔵庫のように冷たい。
「ねえ! アイリは毛皮があるからいいけどさぁ」
「あんただってヒーターインナー着てるでしょ。はい論破」
反論の隙を与えてもらえない。アイリは冷気を薙ぎ払うようにしっぽを翻し、僕の部屋を出ていった。僕はぶるぶる震えながら制服に着替える。一階の石油ストーブの前まで制服を持っていって着替えたいが、そんなことをすればアイリの冷ややかな目で凍死させられそうだ。
こんな風に着替え場所に気をつけるようになったのは、一体いつのことだったろう。小学校高学年あたりだと思うが、はっきりとは思い出せない。
この”思い出せない”は病のせいではない。なぜなら僕の病は、直近の記憶から順番に遡って失われていくものだから。つまり、僕はまだ中学時代のことを覚えている。ゆえに小学校高学年のことを覚えていないのは、ただ純粋に覚えていないというだけなのだ。
このまま遡って忘れていくと、やがて僕の脳は一番初めの記憶にたどり着く。検査をした医師いわく、それは大抵、両親の顔なのだそうだ。そして僕の場合、生まれたときから双子のようにそばにいた、アイリの顔もそうだ。
父さん、母さん、アイリ。この三人の顔を見て、誰だかわからなくなったとき、僕の脳は完全にすべての記憶を消失したといえる。そして、それ以上消すものがなくなり、役目を終えたと認識した脳は、活動をとめる。すなわち僕の死。
学校の来賓室でのいざこざから今日で四日目。検査を受けた日から丸一週間が経っていた。予定通りいくと、僕が死ぬのは二月の半ば。雪が降りそうな時期で嫌だなと思いつつ、雪の火葬場も風流かもしれないと他人事のように考えてしまう。
死ぬのは決して怖くない。むしろホッとする。
怖いのは死ぬ前だ。この平和な日常が、病によってぐちゃぐちゃに壊れてしまうこと。それを、僕の心は一番恐れている。
わかっているさ、常に続くものなどない。
わかってはいるけれど、限りなく常に近づけることならできる。僕の余生はそういうものにしたい。
今日死ぬって朝も、彼女の遠慮ない足に踏まれて起きたい。
なーんて……変態みたいな願望だな、と僕は一人で笑い、暖を求めて階下へ急いだ。