「起きろ! アキラのあんぽんたん!」
「ぐえっ」
仰向けで無防備な腹を踏まれたら、人間からだって死にかけの蛙みたいな声が出ることを僕は身をもって実感している。初めて実感させられたのは、幼稚園に通い出した三歳の春だった。あれから約十三年、休日を除く毎朝、僕はアイリのすべらかなクリーム色の足に腹を踏まれ続けている。
「あんたってどうして毎朝こうなの? たまにはあたしが起こす前に起きてみなさいよ」
「今起きようとしてたんだってぇ」
十一月の朝は肌寒い。掛布団にくるまったまま足先をもぞもぞしていると、アイリは痺れを切らしたらしく、僕の掛布団に噛みつき一気に捲り上げた。
「ひぃ、やめてよアイリ」
「母さんがお味噌汁、冷めちゃうって」
「わかったってばぁ」
「早くっ、駆け足っ、よーい、ドン」
言いながら前足でリズムよく僕を踏むのだから堪らない。
「アイリ、痛いから爪切れよぉ」
「うるっ、さいっ!」
最後のひと踏みをかわして、その勢いのままベッドから立ち上がる。空振りでベッドを踏みつけたアイリは不満そうなジト目を僕へと向けた。
「あんたが……切ってくれないからでしょ。あたし、自分じゃヤスリしかできないもん」
「はいはい、わかった。今晩ね」
適当に答えながら寝巻にしているスウェットの上を脱ぎベッドへ放り投げると、アイリは「ちょっと、脱ぐなら言ってよ変態」とぶつくさ言いながら階下へ下りていった。僕は手早く制服に着替え、スクールバッグを持って彼女の後を追う。
「父さん母さん、おはよう」
ダイニングではすでに朝食が始まっていた。四人分の和朝食が並び、父さんとアイリは口をもごもごさせていて、母さんはアイリの分の焼き鮭をほぐしている。
「おはよう、アキラ。鮭、ちょっと大きいから多かったら残してね」
「はーい」
「アイリちゃんお待たせ。骨全部取ったつもりだけど、気をつけて食べて」
「ありがと、母さん」
ダイニングの椅子にちょこんと腰かけたアイリは、深皿に盛られたご飯と味噌汁と焼き鮭を上品に三角食べしていく。アイリは塩分に弱いので、味噌汁と焼き鮭は母さんがアイリ用に薄味に作ったものだろう。
僕も席につき、「いただきます」と手を合わせてから箸を持つ。言っておかないと母さんより誰よりアイリがうるさい。
父さんがひと足先に食べ終えて、シンクに食器を持っていく。
「コーヒー飲むけど、欲しい人?」
「はーい」
母さんとアイリが手を上げる。アイリ用のはカフェインの入っていないデカフェだろう。
「あたしミルク多めで」
とアイリ。
「私は砂糖じゃなくて、はちみつ大さじ1で」
と母さん。
僕は仲睦まじい家族の様子をどこか俯瞰するように眺めながら口に食べ物を詰め込む。
「あ、アキラ目ヤニついてる。きったなーい。顔洗ってないでしょ」
アイリが僕を見て嫌そうな顔をする。彼女は毎朝毎晩、湯を浴びる綺麗好きだ。
「このあと洗うつもりなの」
「うそうそ。いつも時間無いって歯も磨かないじゃない」
彼女は毎朝毎昼毎晩、器用に自分で歯を磨く。歯磨き粉も使う。歯医者の定期健診にだって一人で行く。
「うるさいなぁ。アイリだっていつも鼻水垂らしてるだろ」
「はぁ? 違いますぅー、鼻水じゃありませんー、犬の鼻は常に湿ってるもんなんですぅー」
アイリは元々尖っている口元と鼻をさらに尖らせて言う。
「へぇそうなんですかぁー、常に鼻水垂らしてるようにしか見えませんでしたぁー」
「こらこらやめなさい、高校生にもなって」
淹れたてのコーヒーを持ってきた父さんが、僕とアイリの他愛ない口論を強制終了させる。
「アイリちゃん、熱いからゆっくり飲むんだよ」
「ありがと、父さん」
深皿に注がれて、ミルクたっぷりでほとんどコーヒー牛乳のようになったデカフェをアイリは赤く長い舌でちろちろと舐める。
僕はコーヒーが嫌いだ。苦いだけで、何が良いのかわからない。
やがてコーヒーを一気飲みした父さんが「いってきます」とリビングを出ていくと、母さんは玄関まで見送りに行った。
二人残された僕は、デカフェ牛乳を半分ほど飲み干したアイリをなんとなく眺めつつ、温かい麦茶をあおる。
犬が制服を着て、人と同じ学校へ通い出したのは、数十年も前のこと。だというのに、犬用制服のデザイナーはセンスが無いなと、デカフェ牛乳に今にも触れそうになっている彼女のセーラー服のリボンを見ながら思う。思わず手が伸びた。
「ねえ、これ危ないよ」
中央の結び目からふわりと左右に垂れるリボンを掴み、少し上の方で持ってやる。
顔を上げた彼女は一瞬、噛みついてくるかと思うほど奇妙な表情をしたが、予想に反して「ありがと……」と小さく言っただけで、デカフェを飲み続けた。
そのまま三分くらいはリボンを持っていたと思う。その三分があれば、顔を濡らし、歯磨き粉を歯に塗りつけるくらいはできたはずだ。などと後から悔やみながら、母さんに追い立てられて、二人分の弁当を持ち、アイリとともに玄関を出る。
「いってきまぁーす」
アイリが元気よくしっぽを振る。
母さんは、父さんを見送るときには玄関先までだが、僕とアイリを見送るときは庭の門まで出てくる。近所の人に見られると恥ずかしいからと制したことがあるのだが、母さんいわく、アイリが何度も母さんを振り向いてしっぽを振るので見送りがいがあるのだそうだ。別に僕を見送りたいわけではないらしい。現に、アイリが風邪を引いて僕だけが学校へ行った日の朝は玄関先で手を振られた。
「アキラもいってきますって言いなさいよ」
「はいはい、いってきますいってきます」
「あんぽんたん! そんな声じゃ母さんに聞こえてないし、ちゃんと母さんの方見なきゃ」
並んで歩きながらブレザーの袖をぐいぐい引っ張られ、僕は渋々首を捻り、後方へ向かって出発のあいさつを述べた。
「よしよし、いい子いい子」
上機嫌になった彼女が四つ足で軽やかにスキップをする。
「恥ずかしいからやめてよ」
「やめなぁーい」
いつも通りの朝。いつも通りの日常。
それが唐突に壊されたのは昼休み明け、五時間目の授業中だった。
数学教師お手製の小テストを解かされて沈黙していた教室に、突如来客があり、僕とアイリが呼び出された。僕は薄々感づいていたせいで焦心だったが、アイリは「なにかしらね。特別ミッション?」とどこか楽しげだった。
職員室の脇の来賓室まで連れていかれると、そこには父さんと母さんがいた。隣でアイリのしっぽが持ち上がり、ゆるゆると左右に揺れる。両親に会えた喜びと困惑がその動きに現れていた。
「アキラ。お昼前に病院から、電話が来たの」
母さんの声が震えている。「三日前、検査に行ったんだって? どうして黙ってたの」
「MRIまで受けたんだよな? 病院側は、検査結果も治療方法もお前に伝えたって」
いつも温厚な父さんの語気が、珍しく強い。「なのに今日になっても何の連絡も無いから、病院側が気にして家に掛けてきたそうだ」
僕は、問診票に馬鹿正直に家の電話番号を書いた三日前の僕を呪った。
母さんがふらふらと歩み出てきて僕の両肩を掴む。
「脳に異常が見つかったって、本当なの? 治す方法が、たった一つしかないって、ほんとう……」
語尾が涙に溺れて消えてしまい、母さんは膝から崩れ落ちて顔を覆った。アイリがおろおろとして、しきりに母さんを心配する言葉をかけながら母さんの二の腕に体を摺り寄せる。
「本当だよ」
僕は母さんとアイリを見下ろして言った。
「本当だから、黙ってたんだ」
続いて、正面に立つ父さんを見る。
「治療のための”たった一つの方法”を僕が言ったら、父さんと母さんはどうしてた? 今、どうしようとしている?」
僕は守りたかった、いつも通りの日常を。
失われるその日まで、守っていたかった。
それだけだった。
ただ、それだけだったのに……
どうしてみんな、そうさせてくれないんだろう。