それは、伊川一博が、とんでもない策略にはまって大変な目に遭う、数年前のことだった。
ある晩、伊川は、若い組員たち数人を引き連れ、ミナミのシマ内の店を飲み歩いた後、組員たちに小遣いを与えて別れた。
その日に限って、日向潤は一緒ではなかった。
そのままタクシーで帰るつもりだったが、かなり酔っていた。
(まだ飲み足りねえな。ここいらはうちのシマじゃねえが……)
タクシーを止めてふらりと降り立った伊川は、ある店にふと足を踏み入れた。
北新地にある、高級クラブ『華景色』だった。
会員の紹介がない一見の客は入れない。
四階フロアにある店の入り口を入ったところで、黒服ともみ合いになった。
「困ります。うちは会員制ですから」
「じゃ、会員になりゃいいんだろがよ? 金ならあるぞ」
「会員さまのご紹介がございませんと……」
「おい! このオレが誰だかわかってんのか」
店の者の胸倉をつかみ、一発かまそうとしたそのときだった。
「シズカニ! カネ、カネ」
片言の日本語を叫びながら、武装した五人の男たちが乱入してきた。
最近このあたりのシマで大きな顔をし始めた、中国マフィアたちだった。
店内はたちまち騒然となり、ホステスたちは悲鳴を上げて逃げ惑い、客の男たちも縮み上がった。
男たちは、手に手にサバイバル・ナイフや鉄棒を持ち、うち一人は拳銃を所持していた。
(よしッ。このオレが撃退してやる)
切ったはったの刃傷沙汰にめのない伊川は勇み立ち、身構えた。
だが……。
強盗たちは、屈強そうなバーテンやマネージャーの男を牽制することに集中し、ホスト風優男の伊川に注意を払う者は一人もいなかった。
「なめんな」
伊川は、拳銃を持っていた四角い顔の大男の手から拳銃を蹴り落とし、腹に頭突きを喰らわせた。
それを契機に、伊川対強盗団の大乱闘が始まり、伊川の活躍によって強盗たちは撃退された。
店側がこの救世主に大いに感謝したことは言うまでもない。
手の平を返したように歓待され、帰り際には土産までもたされた。
その夜明け方近く、伊川は上機嫌で帰宅した。
まだ酔いの残る伊川は、玄関で出迎えた日向に、得意げに武勇伝を語った。
だが、日向の答えは、伊川の興奮しのぼせ上がった気持ちに水を差すものだった。
「そういう手合いに勝っても自慢にはなりませんよ」
「ここは、日本だぞ。中国マフィアなんかになめられてたまるか」
「組長、あなたが相手したのは、ただの不良中国人たちですよ」
「中国マフィアじゃねーってか?」
「本来の意味でのチャイナ・マフィアとは違います。彼らはちゃんとした組織を持っていて、結束も固いし一定のルールもあります。ひとつの犯罪ごとに、集団を作ったり解消したりするただの不法入国の中国人犯罪者たちとは格が違うんです。世間一般では両方ともチャイナ・マフィアと呼んでいますが」
「それがどうした」
「本物のチャイナ・マフィアには気をつけてくださいってことです。相手も、組長が相手なさったやつらのようにつまらない強盗事件など起こさないですが」
「ふうん」
気のない返事をする伊川に、日向は付け加えた。
「神龍が台頭してきています。近い将来、抗争は避けられません。そうなると、かなり厄介な事態になります。その際は、決して軽はずみな行動は絶対慎んでください」
「オマエは慎重過ぎなんだよ。もういい。そんな説教は」
日向に恥をかかされた気になった。
顔がカッと熱くなる。
「バカヤロー」
伊川は、ドスドスと大きな足音をさせて自室に駆け戻り、ドアを勢いよくバンと閉めた。