エミルのカフェは少しずつ活気を取り戻しつつあった。占いの噂が村中に広まり、コーヒーの香りに引き寄せられた村人たちが集まるようになってきた。だが、胸に小さな不安が残る。父のコーヒーの「完璧な味」に到達しているとは思えないのだ。
「父さんなら、どうやってこの味を作ったんだろう…」
エミルは心の中で問いかけるものの、答えが見つからないまま、毎日ポットを磨いていた。
ある午後、カフェのドアが勢いよく開いた。冷たい風が吹き込み、続いて激しい声が店内を満たした。農夫のムスタファと村人のイブラヒムが険しい顔で入ってきたのだ。
「お前の畑の柵が壊れて、うちの羊が迷い込んだんだ!」ムスタファの怒りが店内に響く。
「それがどうした!俺のせいだって証拠はどこにあるんだ!」イブラヒムも負けじと声を荒げた。
エミルは驚き、二人の間に立とうとした。「ここはカフェですから、少し落ち着いてください。」
だが、彼らの怒りは止まらない。
「コーヒーなんか飲んでる場合じゃない!」ムスタファは怒鳴り、イブラヒムも肩を怒らせて出ていった。
エミルは何もできない自分に苛立ちを覚えた。父ならどうしただろうか。彼はただ、銅のポットを見つめることしかできなかった。
その夜、エミルは父が遺したノートを棚の奥で見つけた。ノートの表紙には、「コーヒーと心をつなぐ術」と手書きで書かれている。エミルは震える手でノートを開き、父の力強い文字を追いかけた。
「コーヒーの味が全てではない。人々が安心できる場所を作ることが一番大事だ。」
「争いが起きたときは、まず耳を傾け、相手の心を知ることから始めなさい。」
その言葉が、胸の奥で静かに広がった。父のカフェは、ただコーヒーを淹れる場所ではなく、村の人々の心をつなぐ場所だったのだ。
翌朝、エミルはムスタファとイブラヒムをカフェに招いた。まだ険しい顔の二人に、エミルは微笑みながら言った。
「今日は特別なコーヒーを淹れます。この一杯を、二人で一緒に楽しんでみてください。」
エミルはポットを火にかけ、いつも以上に丁寧にコーヒーを淹れ始めた。まず、冷たい水を注ぎ、指先で慎重に計った極細挽きのコーヒー豆をそっと加える。
「コーヒーは急いじゃいけない…」
父の言葉を思い出しながら、エミルは木製のスプーンでゆっくりと粉を混ぜた。砂糖をひとさじ加えると、暗褐色の液体に光が宿ったように見えた。
火の上に置かれたポットの中で、液体の表面が小さく震えた。エミルはその瞬間に目を凝らし、泡が立ち上がる兆しを見逃さないよう注意を払った。
「もうすぐだ…」
やがて、ポットの縁から小さな泡がぷくぷくと湧き上がり、音もなく表面を覆い始めた。その泡は、まるでコーヒーが息をしているかのように膨らみ、輝いていた。
「ここが一番大事な瞬間だ。」エミルは小さくつぶやきながら、ポットを火から外し、泡が崩れないよう慎重にカップに注いだ。褐色の液体がふわりと湯気を立て、村の空気を甘く染めていく。
二人の前にカップを置き、エミルは静かに言った。「争いを忘れて、この一杯を楽しんでください。」
ムスタファとイブラヒムは、黙ってカップに手を伸ばした。それぞれが一口飲むと、どちらからともなく息を吐き、緊張が和らいでいくのが見えた。
「…正直に言うよ。柵が壊れたのは俺のせいだ。」ムスタファがぽつりと口を開いた。
「それなら、俺も謝るべきだな。お前の羊が迷い込んだ時に、すぐに伝えなかった。」イブラヒムも言葉を続けた。
エミルは、二人の間に静かな笑みが広がるのを見て、父の言葉の意味を実感した。「コーヒーの味だけではない。人々を安心させる場所を作ること。」その教えが、今まさに形になったのだ。
その日の夕方、エミルはカフェの外に立ち、村を見渡した。窓から漏れる温かな光と笑い声が、村の冷えた通りを照らしている。
「これが父の望んでいたカフェなんだ。」エミルは微笑みながら、ポットを手に取った。
泡が立ち上がる瞬間のように、カフェもまた、少しずつ新しい命を吹き込まれているのだと感じた。