冬の朝、薄い霧が村を包み込み、遠くの山々がぼんやりと影を落としていた。石畳の小道を抜けると、村の小さなカフェからかすかに立ち上るコーヒーの香りが、冷たい空気に溶け込んでいく。その香りはまるで一日の始まりを告げる鐘の音のようだった。
エミルは、父アリの手元をじっと見つめていた。父の指はしっかりと銅のポットを握り、磨き抜かれたその表面には、暖炉の揺れる炎が反射していた。アリは静かに水を注ぎ、挽きたてのコーヒーをそっと加える。その一連の動きは、まるで古い詩を繰り返し読むようなリズムだった。
「エミル、トルココーヒーには、時間が必要なんだ。」
アリはゆっくりと語りかけた。「急いじゃいけない。じっくり火にかけて、泡が膨らむ瞬間を見逃さない。それが、この土地で生きるということと同じなんだよ。」
エミルは父の言葉に首をかしげた。「コーヒーが土地と同じ?」
アリは穏やかに笑い、ポットの中で立ち上る泡を指差した。「そうだ。私たちの祖先は、このコーヒーで語り、歌い、未来を占ってきた。何世代も前からね。そして、これだ。」彼はポットの取っ手を握り直し、目を細めた。「これは私の父から受け継いだものだよ。このポットには村の物語が詰まっている。」
エミルは銅のポットをじっと見つめた。その古びた表面には無数の傷が刻まれている。それは年月の証であり、父の人生そのもののように感じられた。
アリは小さなカップにコーヒーを注ぎ、手のひらでそれをエミルに差し出した。「飲んでみろ。味を覚えておけ。これがこの村の味だ。そして、私たちの家族の味だ。」
エミルは慎重にカップを受け取り、湯気を吸い込んだ。口に含むと、苦味の奥にかすかな甘さが広がり、体の芯まで温まるようだった。「父さん、すごく美味しい。」
「そうだろう。」アリは誇らしげに微笑んだ。「だが、味はそれだけじゃない。これを淹れる者の心が反映されるんだ。お前が大人になったら、このポットを託すよ。その時は、お前の心で村を温めてくれ。」
その日から、エミルにとってトルココーヒーはただの飲み物ではなく、父と村、そして時間をつなぐ魔法のような存在となった。
ある冬の日、カフェには静寂が訪れた。父アリがベッドに横たわり、やせた手でエミルの肩に触れた。「エミル、このポットを守ってくれ。そして、カフェを守ってくれ。」
エミルは涙をこらえながら、父の手を握りしめた。「僕にできるかな…?」
アリはかすかに笑い、かすれた声で言った。「お前ならできるさ。このポットが道を教えてくれる。焦らず、火を見つめ続けるんだ。」
翌朝、エミルは静まり返ったカフェの中で、父が遺した銅のポットを両手で抱えた。寒さの中に、まだ父の声が響いているようだった。
「焦らずに…か。」エミルは深呼吸し、小さな火を灯した。その時、窓の外で霧が晴れ始め、朝日が村に射し込んできた。新しい物語が、確かにここから始まろうとしていた。