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トルココーヒー×歴史×無形文化遺産
トルココーヒー×歴史×無形文化遺産
Algo Lighter
文芸・その他ノンジャンル
2025年01月19日
公開日
7,962字
連載中
一杯のコーヒーを飲みながらに読んでもらえると嬉しいです。
2つの読み方で味わえるように作品を調整してます。楽しんでいただければ幸いです。

プロローグ:父のポット

冬の朝、薄い霧が村を包み込み、遠くの山々がぼんやりと影を落としていた。石畳の小道を抜けると、村の小さなカフェからかすかに立ち上るコーヒーの香りが、冷たい空気に溶け込んでいく。その香りはまるで一日の始まりを告げる鐘の音のようだった。


エミルは、父アリの手元をじっと見つめていた。父の指はしっかりと銅のポットを握り、磨き抜かれたその表面には、暖炉の揺れる炎が反射していた。アリは静かに水を注ぎ、挽きたてのコーヒーをそっと加える。その一連の動きは、まるで古い詩を繰り返し読むようなリズムだった。


「エミル、トルココーヒーには、時間が必要なんだ。」

アリはゆっくりと語りかけた。「急いじゃいけない。じっくり火にかけて、泡が膨らむ瞬間を見逃さない。それが、この土地で生きるということと同じなんだよ。」


エミルは父の言葉に首をかしげた。「コーヒーが土地と同じ?」


アリは穏やかに笑い、ポットの中で立ち上る泡を指差した。「そうだ。私たちの祖先は、このコーヒーで語り、歌い、未来を占ってきた。何世代も前からね。そして、これだ。」彼はポットの取っ手を握り直し、目を細めた。「これは私の父から受け継いだものだよ。このポットには村の物語が詰まっている。」


エミルは銅のポットをじっと見つめた。その古びた表面には無数の傷が刻まれている。それは年月の証であり、父の人生そのもののように感じられた。


アリは小さなカップにコーヒーを注ぎ、手のひらでそれをエミルに差し出した。「飲んでみろ。味を覚えておけ。これがこの村の味だ。そして、私たちの家族の味だ。」


エミルは慎重にカップを受け取り、湯気を吸い込んだ。口に含むと、苦味の奥にかすかな甘さが広がり、体の芯まで温まるようだった。「父さん、すごく美味しい。」


「そうだろう。」アリは誇らしげに微笑んだ。「だが、味はそれだけじゃない。これを淹れる者の心が反映されるんだ。お前が大人になったら、このポットを託すよ。その時は、お前の心で村を温めてくれ。」


その日から、エミルにとってトルココーヒーはただの飲み物ではなく、父と村、そして時間をつなぐ魔法のような存在となった。


ある冬の日、カフェには静寂が訪れた。父アリがベッドに横たわり、やせた手でエミルの肩に触れた。「エミル、このポットを守ってくれ。そして、カフェを守ってくれ。」


エミルは涙をこらえながら、父の手を握りしめた。「僕にできるかな…?」


アリはかすかに笑い、かすれた声で言った。「お前ならできるさ。このポットが道を教えてくれる。焦らず、火を見つめ続けるんだ。」


翌朝、エミルは静まり返ったカフェの中で、父が遺した銅のポットを両手で抱えた。寒さの中に、まだ父の声が響いているようだった。


「焦らずに…か。」エミルは深呼吸し、小さな火を灯した。その時、窓の外で霧が晴れ始め、朝日が村に射し込んできた。新しい物語が、確かにここから始まろうとしていた。

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