離縁できるまで残り六日。
な、なんてこと一日があっという間に過ぎてしまった。
その原因は、旦那様が引き留めた? ノン。そんなことは全くなかったわ。……ちょっと凹んだけれど。
昨日のうちに屋敷を出るはずだったのに誤算だったわ。料理長と私考案の新作デザートの話で盛り上がったせいで一日が潰れたのだ。味や見た目など研究心がくすぐられたのがいけない。
ここを出たら料理長と料理や菓子研究ができないと思ったら、つい。
旦那様──ドミニク様は、いつの間にか王城に仕事に向かったらしく、その日は帰ってこなかった。アッサリと離縁届にサインしてくれると思ったのに、どうしてこうなってしまったのかしら。
溜息を漏らしつつ、昨日中断した荷物作りをするように侍女たちに指示を出そうとしたところで、執事長のロータスが部屋に駆け込んできた。栗色の髪の老紳士である彼が全力で走っているのを初めて見たかも。
「奥様、事情は聞きましたが、どうか、お考え直しを!」
「ロータス。……今まで私の我が儘に付き合わせてしまってごめんなさい。でも、これで旦那様は好いた方を屋敷にお連れすることもできるのですから──」
「何をおっしゃっているのですか! 旦那様はあんなに奥様を愛しているのに、そんな相手などおりません! それよりも旦那様が再起不能で本日仕事もできないほどポンコツになってしまったのです!! どうにかもう一度、旦那様と話す機会を与えてくださいませんか!?」
「…………はい?」
旦那様が私を?
あんなに愛していた? そんな記憶はとんとございません……。
「ロータス」
「はい」
「私、いい目のお医者様がいないか商会経由で調べてみるわ」
「奥様、私の目は正常です。いいですか、旦那様の思い人は奥様なのです!」
そう言われてもこの三年間を思い返しても、旦那様がそれらしい行動をしたことなど見たことがない。
「ロータス。わかったわ」
「奥様!」
「幻聴が聞こえるのね。やっぱり私がいいお医者様を──」
「私はまだまだ現役でございます!」
「そうね。今後も旦那様を支えて貰わないと困るわ」
「……」
ロータスには悪いけれど、全く信じられない。
だって愛を告げられたことだってないし、会話も基本的に仕事関係のみ。最初の頃は私だって頑張って声をかけたわ。好きな物が何かだって聞いたし、視察のついでにデートのお誘いだって……でも、旦那様はいつだって「ああ」とか「そうか」とか「ダメだ」というほぼ三択の返答!
肉体関係だってない清らかな間柄だもの。
でもこれでは平行線だわ。
「わたくしの言葉でも信じられないと思いますが、事実なのです。これは最後の手段でしたが……奥様、失礼します」
「え?」
そう言うなり、ロータスは素早く私の腕に青の宝石付きのブレスレットを着けた。デザインもお洒落でとても愛らしい。しかしこれは一体?
最後の手段とは?
「これを装着したまま旦那様にお会いして頂きたいのです。旦那様は奥様の前ですと言葉数が極端に少ないのですが、それは決して奥様を愛していないわけでも、蔑ろにしているわけではなく……。旦那様は……」
「旦那様は……?」
「ものすごく愛情が重く、それを制御しようとした結果、様々な要因がかかり……あんなことに……くっ、お労しい」
「お労しいのは、愛されていない私では? どうして旦那様が被害者側なのか理解出来ませんわ」
話を聞いているうちに何だかロータスの口車に乗せられてしまい、渋々お茶をすることを了承してしまった。まあ、侍女に荷物をまとめさせている間、私はやることもないのでよしとしよう。
思えば旦那様とお茶をするのは久し振りだわ。
あの鋭い視線に射貫かれてのお茶会。少しだけ怖かったが、これを乗り越えれば離縁できると自分を鼓舞した。
***
雰囲気を少しでも良くしようと考えたのか、中庭のガゼボに案内された。幻想種の一つ青のカーネーションが咲き誇っていた。淡い青の花はとても美しく、思わず溜息が漏れた。
「こんなところがあったなんて知らな──」
【ああ……どうしよう。彼女が来るというのに、考えがまとまらない。どうしてこうなってしまったのだろうか。しかしこれ以上、私の秘密……あの醜態を晒せば、……いやだがこのままでは離縁……っ、いやだ、絶対に離縁はっ……】
「ん?」
んんんん!?
凜とした聞き覚えのある声なのだが、その声は脳裏に直接聞こえてくる。不思議な感覚だが、これがロータスの言っていたブレスレットの能力?
もしかして旦那様の心を読む魔導具?
また国宝級の物を持ち出してきたわね。……公爵家コワイ。
ガゼボに座って居る姿は姿勢良く、凜としていた。しかし心の中は後悔の嵐が吹き荒れている。にわかには本人の心内とは思えない。
【ああ……。一つの出来事自体はたいしたことがないが、さまざまな要因が重なって今に至るのは事実。やっぱり最初の出会いから間違えたのだろうな。見合い、デートを重ねて、恋人としてプロポーズをしていたら、今とは違った関係を築けたのでは? いいや、今さらだ。あの時は他の貴族からの縁談話がいくつも舞い込み、しかも彼女よりもずっと年上の後妻ばかり! あんな天使で可愛らしい彼女を守るために権限を使って潰しても、際限なく求婚者が湧くので陛下に打診して……私の妻に! だというのにぃいいい! その矢先に
なんだか教会の懺悔室みたいな独白になってきたような?
というか初耳なことが多すぎる……。
縁談?
さらっと天使とか……。
聞いているだけでツッコミどころが多すぎる。心の声、言葉の大洪水が起こっているのだけれど……。このままでは、永遠に旦那様の独白を聞き続けるだけで一日が終わってしまうわ。ううん、もう旦那様じゃなくなるのだから、呼び方は──。
「
「!?」
凄まじい睨みと圧に耐える。眼光の鋭さに卒倒しないでいた私を誰でも良いから至急褒めて欲しいわ!! 正直、怖い! 裸足で逃げたい!!
「来たか。……座ってくれ」
「……はい」
沈黙。
重苦しい空気に私の心は折れかけそうになる。先ほどの頭に入ってきた言葉は幻聴……よね。うん。だって今、隣にいて何も聞こえな──。
【ああああああああああああああーーーー、なんで素っ気ない言葉を! でも妻が私の名前を呼んでくれた! 心臓がバクバクしすぎて幸福死するんじゃ? まだ希望はあるのだろうか? いや『旦那様』呼びも捨てがたかったが! 妻が可愛い!! ちょこんと座って、どうしよう心臓の爆音が彼女に伝わって幻滅されたらどうしよう? ああ、ああああああーーーーでも、うちの嫁超かわいい! 好き、どうしよう可愛すぎるぅうう──って、違う!! このまま黙っていたら彼女がこの屋敷から去ってしまう!!】
美しい声で聞こえてくる声の嵐。
えええー!? か、可愛い!? 私が!?
ずっとそんな風に思っていたの!? 思わず頬に熱が集まって赤くなってしまう。恥ずかしさでいっぱいなのに、当の本人は眉一つ動いていない! この方の顔、鉄壁過ぎません!?
表情筋とか生きているのかしら? もしかして常に使っていないので、固くなってしまっている?
私も心の声に動揺して、思考がオカシな方向に傾いてしまう。
「失礼します」
「「!?」」
侍女が紅茶を淹れてから、一礼して下がった。芳醇な柑橘系の香りが鼻孔をくすぐる。私の好きなアールグレイの香りだわ。
ほんの少しだけ場の空気が和らいだ──気がする。私は一度思考をリセットするため、紅茶に口を付けて気持ちを落ち着かせる。いつも通り素晴らしい味わいに感動した。やっぱり茶葉の質が全然違う。
【彼女が好きだって言った紅茶は、やはり質が良い。それにしてもこのような形でお茶デートが実現するとは! あとでロータスに特別手当を出してやらねば!】
いやデートじゃない話し合いなのだけれど……。病院が必要だったのはロータスではなく、ドミニク様だったなんて……。
とりあえず、心の声でドミニク様の真意を聞き出すにはちょうど良いわ。傷つくことを言われる可能性もあるけれど、こっちは離縁する覚悟はできているもの。か、可愛いとか好きだって思われていたって、決意は揺らがないのですからね!
「ドミニク様、侍女の荷物整理が終わり次第屋敷を出て行きます。数ヵ月分の領地運営、屋敷内の雑務はすでに終わらせておりますので、後妻様の引き継ぎも完璧ですわ」
「…………」
ドミニク様は目を逸らすだけで何も言わない。何も言わないが──。
【詰んだああああああああああ! もうチェックメイトじゃないか!? 情状酌量の余地はないと!? ああ、どうにかして侍女の準備を阻まなければ! いやそれでは根本的な解決にならない! だいたいなぜ後妻? そんな者はいないのに……。ど、どどどどどうしよう。いなくなるって聞いただけで悲しい。死にたい……うう】
心の中が台風のよう。まったくもって表情が死んでいるのだけれど、ギャップが可笑しいわ。そもそも後妻に心当たりがないなんて白々しい。
【私は妻以外興味が無いのに、どうして後妻? ……悲しい。辛い。仕事とかもうどうでもいいかな。繁忙期? 決算? そんなのもうどうでもいい。数字を追いかけていたら妻が逃げてしまう!! そんなのダメだ。私の心が死ぬ。……明日から有休消化しよう。国王に今までの借りをチャラにさせよう、そうしよう】
国王様にご迷惑が!?
話が大きくなっていません!? え、私がここで家を出たら財務課が立ち行かないとか……そんなことはな──。
「……まず私は離縁を望んでいない。そしてこの問題が解決するまで、仕事を休むことにした」
「え」