私は幼少期、ネグレクトにあい放置されたことにより、餓死しかけたそうです。
母いわく、ミルクを飲まなかったからあげなかった。泣かなかったからいらないのだと思った。というのが彼女なりのいいわけでした。
三四歳になって思うのは、あの時餓死していればよかったということ。笑えないのはここから、私はひよばあこと、実の祖母に育てられて事なきを得ます。命をつなぐことができました。
実の祖母は穏やかで優しく、争いを嫌い、それでも怒る時にはめちゃめちゃ怖い人。
ジャンルが変わりそうなので、詳細は書きませんが、もらった人形の髪が伸びてきたことがあって、それをにこにこと散髪してあげるような、少しずれたところがありました。
姉の髪を大五郎カットにしたり、プランターで増殖した芋虫を近所の少年たちにあげようとして、悲鳴を上げて逃げられたり、私の人生の中で、幸せでおかしな思い出を与えてくれた唯一の人です。
あとピカチュウを化け物!! と呼んでおりました。あながち間違ってないので、どう訂正すべきか迷うとことですが。一応、モンスターですし。
そんなひよばあのことを語ると、神様みたいな人でした。
いつもひよばあの周りには人が寄ってきて、そばにいると日差しが当たっているように、じんわりとした温かさを感じるのです。
私はそんなひよばあが大好きでしたし、ひよばあは悪者から私を守ってくれる神様でした。
家族という、悪者から。
私はひよばあ以外の家族から嫌われていました。初期はそこまで酷い虐待ではありませんでした。一週間お風呂に入れない、服を洗わない、髪をといてもらえない。
あとはこれは姉ですが、赤子の私を投げて遊んでいました。そして足を箪笥に引っ掛けて指が直角に折れましたが、当然のごとく両親は姉の味方なので、怒りもしません。
むしろ赤子の私に対してうるさい、骨が折れたぐらいで泣くなとぶたれたり。車の走っている道路に突き飛ばされたり、足のつかないプールに突き落とされたり。
もちろん、知らないお兄さんが気付いて助けてくれました。家族は帰っていましたが。
……それでも、正直この時はまだそこまでの虐待ではなかったのです。
小学一年生にあがってから転機が訪れます。学校の先生から記憶力が低すぎるため、何かの病気ではないかと指摘されました。
のちに私は発達障害と診断されるのですが、私はこのころはまだ軽度だったと思っております。
母は田舎の古臭い考えを持つ人でした。病気を持った子供なんてもってのほか、自分が責められ、罵られると思っていたんでしょう。私を病院には連れていきませんでした。
それどころか、頭をたたけば治ると何度も頭を殴られました。勉強を教えられ、間違う度ひどい暴行を受けました。
頬を叩かれるぐらいならまだましです。体を強く揺さぶられたり、髪の毛をつかまれ、引きずり回された後抜けた髪を「汚いから拾え」と拾わされます。
2年生に上がるころには、「惨め」という言葉が頭をぐるぐると回転するようになっていました。
抜け落ちた髪を拾っていると、母の真似をして姉が私の髪を引っ張って遊びます。
殴るのを見て、殴っていいのだと学んだ姉は私を殴ります。
それでも私はそういうものだと受け入れていました。学校のみんなも口にしないだけで、そうなんだ。こういうことをされているんだ。
それは縋るような妄想だったのかもしれません。心のどこかで、違うとわかっていたのかもしれません。
私にとって本当の救いはひよばあだけでした。
ひよばあは、私の殴られた頭を優しく撫ぜ「ばあちゃんの宝物なのに」と悲しんでくれました。母や姉を叱ってくれました。
けれど、そんなひよばあに言えないことがありました。
父のことです。ひよばあは父方の祖母で、私は父から性的虐待にあっていました。
まだ膨らんでもいない胸を執拗に触られ、下着に手を入れられ、当時そんな知識はなくともこれはおかしいことだと気づいていました。
この家の中はひよばあ以外はみんな悪魔でした。