あちこちから湯気や美味しいにおいを含んだ煙が立ち上る。
祁芳国の首都ということもあってか、多様な人々が行きかっている。
地元民、観光客、行商人、腕試しに訪れた侠客……。
すでに昼時は過ぎているが、甘味や食べ歩けるような軽食を求める客で屋台や酒肆は賑わっている。
視界に入るだけでも、大通りに客桟は三軒。
いずれも満員御礼の札が下がっている。
「そうだ、偽名を使おう。私はたいして顔は割れていないけれど、名前はすぐに調べがついてしまうからね」
「でも、『常勝皇子』って有名ですよね?」
「そんなもの、ただの虚名だよ。戦勝記録が有名なだけで、私のこの美しい容姿はそれほど知られていない。むしろ、世間の絵師には想像上猛々しい姿で描かれることの方が多いくらいだ」
緑雨は猛々しい姿とは無縁な懐愿を見て口元が緩んだ。
「うーん、そうだな……。梨 愿にしよう」
「梨は何が由来なんですか?」
「私の幼名が梨児だから選んだ。魏氏のしきたりで、皇子はみな皇后陛下から幼名に花の名前を賜るんだよ。皇太子である兄は蘭児。花の君子で、まさにそのようになられている」
梨の花は白く可憐だが、その香りは独特で蜜蜂すら寄せ付けない。
名付けられた当人も、優雅な見た目に反して戦場を支配し敵を寄せ付けない強さを持っている。
祁芳国の皇后は子供の特性を見抜く才能があるようだ。
「緑雨は特別に阿愿と呼んでいいぞ」
突然の話題転換に、緑雨は変な声が出た。
「うぇ、それは……。梨公子とかどうですか?」
「却下。それは他人が私を勝手に麗しい貴公子だと判断して使ってくるだろう。お世辞の意味合いもあるしな。あまりに他人行儀だ」
「じゃ、じゃぁ、梨大善」
「だめ。もちろん、大人も嫌だ。そんな敬称、友達には使わないだろう?」
何を言っても無駄だと判断した緑雨は、大人しく受け入れることにした。
「……阿愿」
「なんだい? 可愛い緑雨」
懐愿は望みどおりになってとても嬉しそうだ。
緑雨は溜息をつき、周囲を見渡しながら言う。
「あのですね、潜入する際には聞こえの良い身分が必要な時もあるでしょう。そういう時、どう頑張っても高貴な雰囲気を隠せない阿愿が目上の人物を演じなければなりません。護衛のわたしが主のことを気安く『阿愿』なんて呼んでいたら、不自然ですぐに露見してしまいますよ?」
もっともな正論を聞かされた懐愿は、不服そうな顔で頷いた。
「……やむを得ない場合のみ、少爺を許可する。友達の主人になるなど、受け入れがたいが仕方ないだろう」
「そうしましょう。わかってもらえてよかったです、阿愿」
「ふふ、良い響きだ」
懐愿をうまく説き伏せることに成功した緑雨は、街を見渡しながら言う。
「街から出る前に、薬舗に寄ってもいいでしょうか。近くに香霧山荘が経営しているところがあるので」
「もちろん。でも、香霧山荘が華芳に店を出しているとは驚きだ」
「朝廷と距離を置くには自衛が必要です。そのためには情報が何よりの武器となります。薬舗であることに変わりはありませんが、情報収集の役割も兼ねているのです。表向き、香霧山荘の名も出していませんし」
「なるほど。でも、そんな大事なことを簡単に私に教えてもいいのか?」
「阿愿は友達ですから。それに、今後何度も行くことになるでしょうし」
懐愿は緑雨を見つめ、頬を桜色に染めながら頷いた。
雨上がりの清廉な風が、懐愿の脳裏に幼い頃に出会った少年のことを思い起させる。
侍従と護衛をまき、一人林の中へ探検に出た時のこと。
近くで盗賊同士のいざこざがあったようで、あたりには血のにおいが充満していた。
そのにおいにつられてきたのだろう。
鋭い爪を持つ狗狸に似た妖怪が、新鮮な肉である懐愿目掛けて襲い掛かってきた。
護身用の匕首を抜き、立ち向かうも、投げ飛ばされ、まるで弄ばれているかのように痛めつけられる。
自分の軽率な行動を後悔し、もう二度と家族に会えないのだと暗闇が心を支配し始めたその時、緑色に光る風が眼前を横切った。
風は妖怪に向かって不思議な力を使い、それを追い払う。
懐愿は頭からの流血で上手く目が開かない中、自分よりも少し小さな風を見つめ、手を伸ばして意識を手放した。
その後、気が付くと自分の身体は寝台に横たわっており、その側には涙を浮かべる母親と兄の姿があった。
怪我はすべて処置されており、痛みもほとんどない。
母の話では、休暇で林に鍛錬へ訪れていた禁軍大統領の息子が懐愿を見つけ、連れて帰ってきたくれたらしい。
でも、自分は確かに見たのだ。
清らかな薬草の香りを纏った、小さな緑色の風を。
それから何年もそのことについて考えてきたが、答えは見つからなかった。
今日までは。
懐愿は横を歩く緑雨を視界におさめ、そっと微笑んだ。
心が確信しているのだ。
緑雨こそが、会いたくてたまらなかった『緑色に光る風』だ、と。
「ここがその薬舗です。医館も同じ看板で運営しています」
緑雨の声に現実へと思考を戻した懐愿が視線を上げると、看板には「花兄薬舗」と書いてあるのが見えた。
落ち着いた色合いながら立派な店構えの建物。
茶や薫香も扱っていることもあり、とても繁盛している。
二人で中へ入る。
少し空気が冷たく感じるような清らかな香りが鼻を通り抜けていく。
「いらっしゃいま……、虞少仙ではありませんか。暁鐘閣のお仕事ですか?」
帳簿の計算をしていた番頭の男性が手を止めて近付いてきた。
「いえ。今日は生薬を買いに来ました。こちらは梨 愿。わたしの友達です」
「お友達! 梨公子ですね。老爺も少爺も、ご実家の皆様も喜ぶでしょう。よかったですね」
緑雨は困ったように微笑みながら、いくつか生薬を注文した。
「お包みいたしますので、少々お待ちください。お茶を用意させましょう」
香霧山荘の若い門弟に案内され、二人は小上がりになった半個室の座敷へ腰かけた。
「さっき番頭が言っていた老爺って……」
「わたしの外叔、香霧山荘荘主の梅 淵塞のことです。少爺は従兄の綺桃です」
「やはり。あまりご実家の話が出ないけれど、緑雨もご家族も香霧山荘に住んでいるのかい?」
「いえ。香霧山荘の裏山山頂付近に実家があります」
「たしか……、去病山だったか」
「そうです。裏山に仙郷と通じている場所があるので、父が母のために屋敷を建てたそうです」
「それは素敵だ」
少しずつ増えていく緑雨についての事柄に、懐愿は気分がよくなっていった。
二人で穏やかに過ごしていると、頼んでいた生薬の包が運ばれてきたのでそれを受け取り、薬舗から外へ出る。
緑雨は包を空枝にしまい、彩雲のように揺らめく色を持った白い剣を取り出し、目立たないよう鞘に黒く太い革紐を巻き付けてから佩いた。
「闇市のある村についたら仮面をつけますね」
「その美貌が隠されてしまうのはもったいないが、受け入れよう」
緑雨は笑って聞き流した。
二人は他愛のない話をしながら活気ある街中を進み、華芳の門をくぐり、外へ出る。
友達との旅が、始まった。