冷たい雨の降る中、緑雨は自分の手首を引く懐愿の横顔に浮かぶ怒りに、懸念を抱いた。
「雨宿りがてら、紫微院へ行こう。きっと甘閣主もそのあたりにいるだろうし」
緑雨は返事をする代わりに、懐愿の腕をとり、近くの軒下へ移動した。
「どうした、緑雨。身体が冷えてしまったのなら、私の上衣を」
「違います。ただ、その、色々立ち止まっていただきたくて……」
懐愿は小首をかしげるも、「わかった」と頷いた。
「不安そうな顔だ。昭侍中のことなら、もう二度と近づけたりしない」
「あ、いや……」
緑雨は懐愿から手を離し、大きく呼吸をしてから意を決したように疑問を口にした。
「まだ出会って数刻ですが、殿下は理由なく他人に怒りをぶつけるような人とは思えません。わたしの為だったのだとしても、あれは」
「驚かせてしまったようだ。すまない」
懐愿は緑雨の言葉を遮り、自嘲するように溜息にもならないほど短く息を吐いた。
「昭 寒光は父皇のお気に入りでね。類稀なる頭脳とやらであれよあれよという間に門下省侍中の地位まで上り詰めたが、あいつ程度の能力を持つ者は他にもいる。科挙で状元だったわけでもないしな」
激しくなる雨音。
土の匂いが空気を満たしていく。
「それに、腹の底が読めないだけでなく、どれだけ調べてもその出自がわからない。中書令の昭氏の養子という、誰もが知る事実より以前の記録が一切ない。おそらく、昭氏が諜報機関を統括する中書省の力を使って辿れないようにしたのだとは思うが」
懐愿は雨空を睨みつけ、吐き捨てるように言う。
「あの男寵は弁舌巧みに父皇に取り入り、母皇の一族を冷遇するよう仕向けている。『外戚が力を増すと王朝は簡単に転覆する』とかなんとか言ってな」
緑雨は鋭さを増す懐愿の目を見つめ、真剣に聞き入った。
「周氏は長い歴史の中で忠君として国を支え、時に君主を叱責し、悪政を正してきた由緒ある一族だ。太傅や丞相を輩出したのも実力のうち。権威を振りかざしたことなど一度も無い」
懐愿の拳に、力が入る。
「外伯は先帝の時に一品軍侯に封じられ、外祖父の地位を継いで太尉になるはずだったのに、昭 寒光の讒言のせいでその話は消えかかっている。それどころか、耳障りの良い理由を並べ立て、外伯を戦場に出さないように根回しまでしている。これ以上軍功を挙げたら太尉に封じるしかなくなるからだろう」
雨の勢いが弱まり、徐々に雲が割れて光がさしてきた。
「国境は常に不穏。いくら平定して回っても、次々と問題は起こる。それなのに、祁芳国で一番強い軍を出兵させないなど、何か企んでいるとしか思えない」
懐愿は光の中に進み出て振り向き、緑雨を見る。
「母皇が静観しているおかげで嫡出の皇太子や私にはまだ累が及んでいない。だから私は今のうちに実力をつけ、経験を積み、強くならねばならないのだ。大切な人達を守るために」
向けられた微笑みと言葉の意味を考えて、緑雨は大きく息を吸った。
「わたしも入っているのですか」
「当然だろう。……迷惑か?」
緑雨はなんと返事をしていいかわからず、身体が固まってしまった。
この世に誕生してから十七年というたいして長くもない年月の中でも、両親や外叔の手伝いで様々な人々と接してきた。
平均という言葉を使うならば、家族が医館や薬舗を経営していることもあり、同じ年代の少年少女よりも出会った人数は多いだろう。
それでも、ここまで熱烈に気に入られることは、経験上無い。
「困らせてしまったかな」
「い、いえ。そんなことありません。光栄です」
「光栄、か。仕方ない。今はそれで手を打とう」
懐愿は戸惑う緑雨の手を掴み、「行くぞ」と笑顔で歩き出した。
「あの、これは必要なのでしょうか」
「皇宮はやたらと広くて迷路のように道が構成されているところも多い。緑雨を迷子にさせないためには、手を繋ぐのが一番だと思わないか? それに、こんなにも冷えてしまっている。暖めなくては」
「ご、ご親切にどうも……」
何を言っても状況は変わらないと諦め、緑雨は大人しく連れて行かれることにした。
いくつかの建物を通り過ぎ、開けた場所に出ると、その奥に三つの大きな楼閣が向き合うように並んでいるのが目に入った。
「お、やっぱり。甘閣主と聶大統領がいる」
緑雨と懐愿は紫微院を調べている二人の元へ向かった。
「おや、慧王殿下。うちの緑雨と仲良くしていただいているようで」
婉花は手を繋ぐ二人の姿を見て微笑んだ。
互いに拱手するために手が離れると、緑雨は少しほっとした。
「父皇に挨拶してまいりました。正式に緑雨と旅に出ることが出来ます」
懐愿の可憐な笑みに、婉花も優美な微笑みで返した。
「闇市までの道のりには危険なこともあるでしょう。しっかりと準備なさってください……、と言っても、殿下は戦支度で慣れておいでです。心配はいりませんね」
「はい。常に備えはしておりますので、今すぐにでも出発できます」
「え」
思わず声が出てしまった緑雨は、慌てて口を塞いだ。
「私にはわずかながら霊力があると言っただろう? 薪小屋程度の広さではあるけれど、空枝の術が使えるんだ」
そう言うと、懐愿は空から矢を一本取り出して見せた。
「ね? いつ何時叩き起こされて戦場へ赴くことになっても良いように、必要充分なものを蓄えてあるんだ」
「さすがは慧王殿下。敬服いたします」
桐梓は深く頷いた。
「お恥ずかしい。三人に比べたら私の霊力など微々たるもの。精進はかかせません」
緑雨はまた懐愿に微笑まれ、自分の迷子になった感情を取り戻そうと、話題を変えることにした。
「閣主、他にどんな書物が盗まれていたのかわかりましたか?」
「まだ二つ目の書房だ。そんなすぐにはわからない……、わけがないだろう。私は天才だぞ」
どこでどんな仕事をしていても自己肯定感の高さが変わらない婉花を見て、忙しない一日の中で緑雨は久しぶりに安堵を感じた。
「だが、まずは墓誌が先だ。あとは戻ってきたときにでも教えてやろう。緑雨はいつものではなく予備の仮面をつけるんだぞ」
婉花の言葉に、懐愿は首をかしげた。
「仮面?」
緑雨は空から顔の半分ほどを覆い隠すことのできる面を取り出し、懐愿に見せた。
「わたしはよく闇市へ出入りしているので、顔を隠す必要があるのです」
「え、それはどうして」
「闇市に持ち込まれた盗品の中から書物を見つけ、持ち主の元へ返すのも暁鐘閣の仕事なのです。その時にお礼として写本させていただいたりします」
懐愿は頷き、問う。
「でも、そのくらいなら顔を隠すこともないだろうに」
緑雨は正直に答えるべきか迷ったが、婉花が頷くので言葉を続けた。
「香霧山荘の仕事で薬の闇市を幾つか焼き討ちにしました。顔を見られたわけではありませんが、用心が必要なのです」
「焼き討ち……。それは顔を隠す必要があるな」
可愛い顔からは想像もできないことをしている緑雨に、懐愿は余計に興味がわいた。
「緑雨、骨董品の闇市を五軒くらい回ってみて見つからなければ連絡しなさい。あまり深入りしても危険だ」
「わかりました」
素直な緑雨の姿に、婉花は優しく微笑んだ。
「友達が出来てよかったな、緑雨」
婉花の言葉に嬉しそうに頷く懐愿の横で、緑雨は不意を突かれて目を大きく見開いた。
「慧王殿下はその名の通り皇子ですよ? それに、八万の兵を持つ大将軍でもあります。身分の差が大きすぎて、そんな、友達だなんて恐れ多いです」
胸のあたりで両手を大きく振りながら慌てる緑雨に、懐愿が詰め寄る。
「なんて悲しいことを言うんだ! 私達はもう立派な友達だろう? またはそれ以上でもいいくらいだ」
「出会ったばかりですよ⁉」
「友情を深めるのに時間など関係ないね」
「そ、そうですか……」
一国の皇子の押しの強さにたじろぎながら、緑雨は力なく微笑んだ。
どうにか気を取り直した緑雨は、婉花にどのあたりの闇市に行くか告げ、懐愿と共にその場を後にした。
今度は手を繋がれないようさりげなく注意しながら皇宮内を進み、門を出て街中へ向かう。
計算された煌びやかな彩りから出て、活気あふれる色彩の中へ溶けていくように。