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第三集:合視 第三部

「楽しい旅の始まり……」

 懐愿フゥァイユェンが振り返り、緑雨リュユーに笑いかけようとしたその時、視界にもう一人の姿が映った。

ヂャオ侍中じちゅう、何か用でも?」

 緑雨リュユーも振り返り、寒光ハングゥァンから少し距離を取って懐愿フゥァイユェンの隣に立った。

「出発なさる前にご挨拶を、と思いまして」

「必要ない。皇帝陛下のご機嫌取りにでも戻ればいいのでは? 貴殿の特技だろう」

 先ほどもあったが、寒光ハングゥァンに対する容赦のない懐愿フゥァイユェンの物言いに、緑雨リュユーは驚くとともに疑問に思った。

けい王殿下はお父上の身を案じておられる。そのお気持ちはよくわかります。私は門下省もんかしょう侍中じちゅうで、陛下の側で仕えさせていただいておりますが、恩は感じれど、害することなど絶対にありえません。信じていただけるまで、何度でも申し上げます」

「聞いてもいないことを言われても、私の耳には届かない。覚えておいていただけるかな」

 言葉から感じる嫌悪とは裏腹に、懐愿フゥァイユェンの顔は微笑んだまま。

「あ、あの」

 緑雨リュユー懐愿フゥァイユェンの袖をつまみ、小さく引いた。

「殿下、そろそろ行きましょう」

 桜を濡らす朝露のように煌めく緑雨リュユーの瞳にほだされた懐愿フゥァイユェンは、先ほどまでの剣幕を忘れたように微笑んだ。

「そうだね。では、失礼する」

 去ろうとする二人の背後で、寒光ハングゥァンは手を伸ばし、緑雨リュユーの腕に触れた。

 その瞬間、懐愿フゥァイユェンの扇が寒光ハングゥァンの手を強く打ち、立ちはだかった。

「私の友に気安く触れるな」

 一触即発。

 懐愿フゥァイユェンは殺気立った目で寒光ハングゥァンを睨みつけている。

 緑雨リュユーは雰囲気の悪化を防ごうと、懐愿フゥァイユェンの隣に立ち、口を開いた。

ヂャオ侍中じちゅう、わたしに何か御用ですか?」

 寒光ハングゥァンは眉目秀麗な顔に浮かぶ笑顔を一分たりとも崩すことなく緑雨リュユーの方を向いた。

 橙色に近い茶色の目は、蜂蜜のような甘さを含んでいる。

「お気遣い頂き感謝いたします。幾つか、うかがいたいことがございます」

 緑雨リュユーは今にも噛みつきそうな獰猛な虎のように威嚇している懐愿フゥァイユェンを制し、微笑んだ。

「わたしに答えられることでしたら、どうぞ」

 寒光ハングゥァンは怖ろしさすら感じるほどの完璧な笑顔で言う。

香霧山荘こうむさんそう江湖こうこの他の門派とは違い、朝廷とは絶縁状態のはず。何故今回いらしてくださったのでしょうか。それも、けい王殿下と調査にまで行ってくださるなんて……」

 緑雨リュユーは少し考えてから、当たり障りのない回答を用意した。

「わたしは香霧山荘こうむさんそう世子せしでもなければ、ユー氏の跡取りでもありません。どちらの家にとっても……、自分で言うのもおかしな話ではありますが、自由な存在です。両親も外叔おじも、『生きてさえいれば何をしていてもいい』と言ってくれています。なので、今回わたしが協力するのは香霧山荘こうむさんそうとは何の関係もないのです。ただ自分の出自の説明に便利なので香霧山荘こうむさんそうの名を出しているだけです」

 緑雨リュユーの困ったような笑顔に、寒光ハングゥァンはゆっくりと頷いた。

「そうだったのですね。勝手に関係改善が出来るのかと期待してしまいました。申し訳ありません」

「いえいえ。他に無ければこれで……」

「あと一つだけ、聞いてもよろしいでしょうか」

 緑雨リュユー懐愿フゥァイユェンの冷徹な形相を心配しつつ、「いいですよ」と言った。

ユー少仙しょうせんは神仙の子……。ということは、仙力せんりょくが使えるはず。何故香霧山荘こうむさんそうで修業をなさったのですか? 霊力など、力としては仙力せんりょくには遠く及ばないでしょう」

 心臓が跳ねた。

 霊力の会得は、緑雨リュユーが自分自身と家族を守るために絶対に必要だった。

 江湖こうこでは各門派で修業する以上、霊力を得るのは必須であり自然な流れ。

 そのため、このような質問は一度もされたことがなかった緑雨リュユーは、表には出さないものの激しく動揺し、やり過ごす回答がまるで浮かばない。

 答えに詰まる緑雨リュユーを見つめる寒光ハングゥァンの目が、一瞬だけ昏く光った。

 それを見逃さなかった懐愿フゥァイユェンは、再び二人の間に入り、扇を寒光ハングゥァンに突き付けた。

「そんなこと、緑雨リュユーの自由だろう。我らはもう失礼する。今度質問があるときは、事前に書簡にて許可を求めるようにしてくれ。返事は期待しない方が良い」

 懐愿フゥァイユェン緑雨リュユーの手首をとると、振り返ることなくその場を立ち去って行った。

 二人の後姿を見送りながら、寒光ハングゥァンは目を細め、呟く。

「いつもは皮肉しか言わぬけい王殿下が、あれほど怒りをあらわにするとは……。あの少年には不思議な魅力があるようだ」

 雲一つない快晴だった空に、暗雲が立ち込め始めた。

 それは雷を伴い、冷たい雨で人々の目をくらませる。

 偶然の幸運も、運命の悲劇も。


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