「楽しい旅の始まり……」
懐愿が振り返り、緑雨に笑いかけようとしたその時、視界にもう一人の姿が映った。
「昭侍中、何か用でも?」
緑雨も振り返り、寒光から少し距離を取って懐愿の隣に立った。
「出発なさる前にご挨拶を、と思いまして」
「必要ない。皇帝陛下のご機嫌取りにでも戻ればいいのでは? 貴殿の特技だろう」
先ほどもあったが、寒光に対する容赦のない懐愿の物言いに、緑雨は驚くとともに疑問に思った。
「慧王殿下はお父上の身を案じておられる。そのお気持ちはよくわかります。私は門下省の侍中で、陛下の側で仕えさせていただいておりますが、恩は感じれど、害することなど絶対にありえません。信じていただけるまで、何度でも申し上げます」
「聞いてもいないことを言われても、私の耳には届かない。覚えておいていただけるかな」
言葉から感じる嫌悪とは裏腹に、懐愿の顔は微笑んだまま。
「あ、あの」
緑雨は懐愿の袖をつまみ、小さく引いた。
「殿下、そろそろ行きましょう」
桜を濡らす朝露のように煌めく緑雨の瞳に絆された懐愿は、先ほどまでの剣幕を忘れたように微笑んだ。
「そうだね。では、失礼する」
去ろうとする二人の背後で、寒光は手を伸ばし、緑雨の腕に触れた。
その瞬間、懐愿の扇が寒光の手を強く打ち、立ちはだかった。
「私の友に気安く触れるな」
一触即発。
懐愿は殺気立った目で寒光を睨みつけている。
緑雨は雰囲気の悪化を防ごうと、懐愿の隣に立ち、口を開いた。
「昭侍中、わたしに何か御用ですか?」
寒光は眉目秀麗な顔に浮かぶ笑顔を一分たりとも崩すことなく緑雨の方を向いた。
橙色に近い茶色の目は、蜂蜜のような甘さを含んでいる。
「お気遣い頂き感謝いたします。幾つか、うかがいたいことがございます」
緑雨は今にも噛みつきそうな獰猛な虎のように威嚇している懐愿を制し、微笑んだ。
「わたしに答えられることでしたら、どうぞ」
寒光は怖ろしさすら感じるほどの完璧な笑顔で言う。
「香霧山荘は江湖の他の門派とは違い、朝廷とは絶縁状態のはず。何故今回いらしてくださったのでしょうか。それも、慧王殿下と調査にまで行ってくださるなんて……」
緑雨は少し考えてから、当たり障りのない回答を用意した。
「わたしは香霧山荘の世子でもなければ、虞氏の跡取りでもありません。どちらの家にとっても……、自分で言うのもおかしな話ではありますが、自由な存在です。両親も外叔も、『生きてさえいれば何をしていてもいい』と言ってくれています。なので、今回わたしが協力するのは香霧山荘とは何の関係もないのです。ただ自分の出自の説明に便利なので香霧山荘の名を出しているだけです」
緑雨の困ったような笑顔に、寒光はゆっくりと頷いた。
「そうだったのですね。勝手に関係改善が出来るのかと期待してしまいました。申し訳ありません」
「いえいえ。他に無ければこれで……」
「あと一つだけ、聞いてもよろしいでしょうか」
緑雨は懐愿の冷徹な形相を心配しつつ、「いいですよ」と言った。
「虞少仙は神仙の子……。ということは、仙力が使えるはず。何故香霧山荘で修業をなさったのですか? 霊力など、力としては仙力には遠く及ばないでしょう」
心臓が跳ねた。
霊力の会得は、緑雨が自分自身と家族を守るために絶対に必要だった。
江湖では各門派で修業する以上、霊力を得るのは必須であり自然な流れ。
そのため、このような質問は一度もされたことがなかった緑雨は、表には出さないものの激しく動揺し、やり過ごす回答がまるで浮かばない。
答えに詰まる緑雨を見つめる寒光の目が、一瞬だけ昏く光った。
それを見逃さなかった懐愿は、再び二人の間に入り、扇を寒光に突き付けた。
「そんなこと、緑雨の自由だろう。我らはもう失礼する。今度質問があるときは、事前に書簡にて許可を求めるようにしてくれ。返事は期待しない方が良い」
懐愿は緑雨の手首をとると、振り返ることなくその場を立ち去って行った。
二人の後姿を見送りながら、寒光は目を細め、呟く。
「いつもは皮肉しか言わぬ慧王殿下が、あれほど怒りをあらわにするとは……。あの少年には不思議な魅力があるようだ」
雲一つない快晴だった空に、暗雲が立ち込め始めた。
それは雷を伴い、冷たい雨で人々の目をくらませる。
偶然の幸運も、運命の悲劇も。