鼓動の音が静まって行く。
緊張していないといえば嘘になるが、戦闘時と同じ呼吸をすれば、動揺が顔に現れることは無い。
緑雨は呼吸と血流を整え、少しだけ氷鳴律を表に出した。
体内が冷えていく。
脳に溜まっていた思考の熱も解け、視界が明瞭になる。
「慧王殿下のお越しです」
中から抑揚のある太監の声が響く。
緑雨の右腕から懐愿の手が離れ、代わりに優しい笑みが降ってきた。
二人は太監に促され、荘厳な広間へ進み出る。
緑雨はあまり視線を動かしすぎても失礼かと思い、それとなく全体を視界におさめようと前を向いた瞬間、目に飛び込んできたのは豊かで煌びやかな色彩。
天井は碁盤の目状に瑞祥図が描かれ、藻井には色鮮やかな神龍が玉を握りしめている意匠が彫刻されている。
間近で見上げたら首が痛くなってしまいそうな柱には朱色の萬霊漆喰が塗られ、鏡のように磨かれた石材の床によく映えている。
玉座は床よりも二段高く、机にも宝座にも贅沢に金の彫刻がしつらえてある。
玉座を彩る屏風には金糸で龍が刺繍されているようだ。
まさに豪華絢爛。
焚かれている薫香は優雅で甘美な刺激を含む香りから察するに、一刻分だけで庶民が一月に稼ぐ金額を超える高級品。
緑雨は一歩、いや二歩後ろを歩き、懐愿に着いて玉座の前に歩いていく。
周囲から視線を感じる。
官吏達の視線はそれほど気にならないが、意志を持った目が二つ、二人に注がれている。
懐愿はそれらを全く気に留めることなく父親、皇帝の前で足を止めた。
「父皇に拝謁いたします」
懐愿が跪き叩頭するのに倣い、緑雨も「皇帝陛下に拝謁いたします」と叩頭した。
「立ちなさい」
威厳の中に甘さを含んだ低い声が響いた。
息子への慈愛の表れだろうか。
緑雨の脳裏に、両親の笑顔が浮かんだ。
「感謝いたします」
二人は立ち上がり、一国の天子、恵徳帝を見た。
ただ、緑雨はあまり直視することはせず、首あたりに目線を向けた。
「父皇にご報告したいことが」
「おい、兄への挨拶はないのか」
少し距離を置いて左側に立っている、意志を持つ視線の一つが、懐愿に声を投げかけた。
「いらっしゃったとは。相変わらず落ち着いた色合いの服を身に纏われているので気付かなくて申し訳ありません。懐慈兄上」
「お前はまるで発情期の孔雀のように華やかだな」
「兄上のような清楚な服装では、私の恵まれた容姿、天の傑作が浮いてしまうのです。優美な装いで調整しているのですよ」
「よく回る口だ」
親王同士の言い合いに、場が静電気を帯びたように緊張感で包まれた。
「慮王殿下、慧王殿下。血気盛んなのもよろしいですが、ここは陛下の御前。政務に関係のない言い争いはお控えくださいませ」
もう一つの意志ある目を持った声が、張り詰めた空気に割って入った。
声色はひどく落ち着いていて、一瞬の揺らぎもない。
緑雨は声の主に視線を移して息をのんだ。
凄艶とはこの男性の為にある言葉なのかも知れないと思うほどの端正な顔立ちに、美しい所作と佇まい。
橙色に近い茶色い目が柔和な雰囲気を醸し出している。
しかし、懐愿を見た時ほどの感動は無く、ただただ底の見えない柔和な笑顔に恐ろしさすら感じた。
「昭侍中、貴殿には関係のないこと。口を挟まないでもらおう」
懐愿は一歩前に出ると、強く睨みつけた。
「どんな手段を使い誰のおかげでそこに立っているのか考えてから話すことだな、昭 寒光。お前には親王の会話に横槍を入れる資格などない」
懐志はまるで汚いものでも見るような蔑みを込めた目で寒光を見下ろす。
先ほどまで口喧嘩をしていた二人とは思えないほど息の合った口撃が、寒光に斬りかかっていく。
周囲の官吏達はこの光景を見慣れているようで、怯えながらも少し呆れた表情を浮かべている。
「二人とも、いいかげんにしなさい」
恵徳帝は息子たちの口戦を手で制し、話題を変えようと緑雨を見つめた。
「懐愿、まずはそちらの青年を紹介してくれるかな」
緑雨は弾けるように恵徳帝へ身体ごと向きなおし、「青年」と言われたことに嬉しくなり、口元を緩めた。
「父皇、彼は今回の盗難事件に協力してくださる暁鐘閣の甘閣主と共に来た、香霧山荘の少仙です」
懐愿に優しく腕を引かれ、隣に並んだ緑雨。
「香霧山荘 梅氏の弟子、虞 緑雨と申します」
「香霧山荘ということは……、杏鳳玄大夫の血筋なのかな? それとも、他姓門弟なのだろうか」
緑雨は内心驚いた。
杏鳳玄大夫は、梅氏の先祖の中でも伝説となっている神医だからだ。
ただ、あまりに古い時代の人物の為、現在ではその名を口にする者は梅氏くらいだ。
「杏鳳玄大夫は梅氏の高祖。母と外叔がその直系子孫にあたります」
「なるほど。虞というのは父姓なのだね。お父上はどちらの門派かな」
「父は医神です」
場がどよめき、多数の小さな声で空気が揺れる。
「なんと、そなたは神仙の子供なのか」
仙郷と接している玉羽江湖では珍しいことではないが、いわゆる内界と呼ばれる人間の領域では信じがたいことなのだろう。
驚きの声に交じり、悪意が囁かれ出す。
「江湖は仁徳を重んじる義侠の徒、武林を演じてはいるが、その実態は得体のしれぬ無頼漢の集まり……。中でも『玉羽』の証を持つ一族は邪術も扱うとか。まさか神との婚姻まで独占しているとは。外界とはかくも闇深い……」
「金御史大夫、何か意見があるのなら直接言ったらどうかな?」
懐愿の鋭利な声が、膨らんだ陰口の波を叩き割った。
「け、慧王殿下。お怒りなきよう」
「私に言い返す度胸もないのなら黙っていろ」
官吏たちが一斉に一歩後退った。
「緑雨、続けていいぞ」
甘く柔らかな懐愿の声が、緑雨の耳を守るように広がる。