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第二集:皇子 第三部

緑雨リュユー、この字とこの字が入っている書物を集めて机の上に置いていって」

「わかりました」

「私も手伝いましょう」

 懐愿フゥァイユェンが近付いてきたので、緑雨リュユーはそっと避けた。

「では、殿下にはこの字とこの字の書物をお願いいたします」

 桐梓トンズーが入口を警護する中、三人は求めている字を持つ書物を机の上に並べ続けた。

 一刻半三時間後、集まった書物を確認した婉花ワンファが溜息をついた。

「何かわかったのですか」

 懐愿フゥァイユェン婉花ワンファに尋ねる。

 婉花ワンファは小さく頷き、秘閣ひかく内を見渡した。

「皇族の墓誌の副本ふくほんが盗まれたようです。墓誌蓋ぼしがいに彫刻されている星図の写しも無くなっているので、墓の特定は容易……。このままでは副葬品を狙う墓泥棒の餌食になってしまうでしょう」

 話を聞いていた桐梓トンズーが室内へと入ってくる。

「それは一大事ですぞ」

「もともと一大事ですよ。ただ、幸いなことに、墓誌を売買できる闇市はそう多くありません。上手くいけば、売り手から犯人がたどれるかもしれませんよ。はたして、旱雲飛火かんうんひかの残党なのか、それとも模倣犯なのか」

 婉花ワンファの提案に、懐愿フゥァイユェンが勢いよく頷き言う。

「それは素晴らしい。では、私とユー少仙しょうせんで調査しに行きましょう」

 寝耳に水とはこのことか、と、緑雨リュユー婉花ワンファの背に隠れようとするも、逆に背を押されてしまった。

「殿下、是非緑雨リュユーを連れて行ってください。多様な経験を積ませたいと常々思っていたのです」

 心底嬉しそうに微笑む婉花ワンファ懐愿フゥァイユェン

 緑雨リュユーは裏切り者を見るような目つきで婉花ワンファを凝視した。

「ではさっそく、陛下に許しをもらいに行ってまいります。ユー少仙しょうせん、こっちだ」

 懐愿フゥァイユェン緑雨リュユーの戸惑いなどお構いなしに手首を掴むと、引っ張って行ってしまった。

「いいのか?」

 桐梓トンズーは二人が出て行く後ろ姿を心配そうに見つめた。

「もちろん。そろそろ緑雨リュユーにも身内以外の友人は必要だし」

「それはそうだが……」

「それよりも、気になることがある」

 婉花ワンファは机に乗せた書物を桐梓トンズーに見せながら言う。

「盗まれたら困るものが盗まれていない」

「え、本当か」

「うん。墓誌もかなり困るけど、でも、そんなもの目じゃないくらいの機密書類がここにはあるのに、それらはただ転がされていただけ。警戒した方が良いのは氷室と重罪犯用牢獄界牢かいろうの設計図くらい。あとは無傷と言っていい」

 中書省ちゅうしょしょうが各国に放っている諜報員が探ってきた資料は全くの手つかず。

 各地に蓄えている兵站の在庫量や隠し場所の地図は触られた形跡すらない。

 世間に知られては支障が出るような諸外国との密約を記した書類まで残っている。

「いったい、何が狙いなんだ」

「わからない。全ての書房を見せてもらわないと、何とも言えないね」

「わかった。部下を呼ぶから少し待っていてくれ」

 桐梓トンズーは声を張って指示を出し、甘石巫かんせきふ堂の周囲の警備を固めた。

 鍵の代わりに張り巡らされた鎖がなんとも仰々しい。

「次の場所に案内する」

「頼む」

 二人は紫微しび院、太微たいび殿、天市てんし館が集まる区画へと向かった。

 一方その頃、緑雨リュユーは生まれて初めて皇宮に来たにも関わらず、皇族の、それも皇子に手首を掴まれ玉座のある建物へと連れ去られていた。

 落ち葉一つない磨かれた敷石が太陽の光を反射して目に眩しい。

「調査、楽しみだな」

「あの、でも、殿下には他にもお仕事があるのでは」

「大丈夫。仕事はけい王府の副将達がうまいことやってくれるから。頼りになる兄上もいるし。でも、今現在まさに危機的状況にあり、逃げないとならないことがあるんだ」

「逃げないとならないこと、ですか」

 緑雨リュユーには、懐愿フゥァイユェンの先ほどまでの自己肯定感の高さを見るに、困ることなどなさそうに思えたが、そうでもないようだ。

「そう。私は今年十九歳になったせいで、来年、成人の儀と共に結婚するようにと母上から婚姻を迫られている。今年中に婚約を決めたいそうだ。絶対に、絶対に嫌だ。私は皇太子である兄上を支えて生きていくと決めている。結婚なんかしたら、家庭まで背負うことになるじゃないか。無理無理」

「わ、わあ、大変ですね」

 守備範囲外の話題だったので、緑雨リュユーはつい返事が棒読みになってしまった。

緑雨リュユーはまだまだ先の話だろうからわからないかもしれないが、結婚というのは人生の一大事なのだよ。死ぬまでの永遠を縛る契約だ。いや、望まぬ者にとっては死後も続いていくのろいのようなものだ」

「そ、そうなんですね。わたしはまだ未成年……、十七歳なのでよくわかりません」

「え、十七歳? 十五歳くらいかと思っていたよ。顔が可愛いせいだな」

 緑雨リュユーの自尊心に、身に覚えのある小さな傷がついた。

「それ、幼いって意味ですよね」

「違う違う。可愛いと言っただろう」

 懐愿フゥァイユェンはさも愉快と言った様子で朗らかに笑っている。

「着いたぞ。ここが龍英殿りゅうえいでんだ。朝議や冊封の儀式などもここで行われる。見た目こそ豪奢で威圧感満載だが、でもまあ、緊張する必要はない。軽い挨拶をするだけだ」

 出会った瞬間はなんと美しい人なのかと思ったが、ここまで信用ならない笑顔も初めて見る、と緑雨リュユーは溜息をついた。

 懐愿フゥァイユェンは殿門近くに控えている太監たいかんに取次ぎを頼み、「行くぞ」と、緑雨リュユーを連れ立って中へと入って行った。

 出来事が進むあまりの速度に麻痺していたが、ふと緑雨リュユーは我に返った。

 これから会うのは懐愿フゥァイユェンの父親というだけではない。

 祁芳きほう国の頂点に立つ、皇帝に謁見するのだ。

 緑雨リュユーは自分の人生が変化を始めた音の大きさに、耳鳴りがした。



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