「緑雨、この字とこの字が入っている書物を集めて机の上に置いていって」
「わかりました」
「私も手伝いましょう」
懐愿が近付いてきたので、緑雨はそっと避けた。
「では、殿下にはこの字とこの字の書物をお願いいたします」
桐梓が入口を警護する中、三人は求めている字を持つ書物を机の上に並べ続けた。
一刻半後、集まった書物を確認した婉花が溜息をついた。
「何かわかったのですか」
懐愿が婉花に尋ねる。
婉花は小さく頷き、秘閣内を見渡した。
「皇族の墓誌の副本が盗まれたようです。墓誌蓋に彫刻されている星図の写しも無くなっているので、墓の特定は容易……。このままでは副葬品を狙う墓泥棒の餌食になってしまうでしょう」
話を聞いていた桐梓が室内へと入ってくる。
「それは一大事ですぞ」
「もともと一大事ですよ。ただ、幸いなことに、墓誌を売買できる闇市はそう多くありません。上手くいけば、売り手から犯人がたどれるかもしれませんよ。はたして、旱雲飛火の残党なのか、それとも模倣犯なのか」
婉花の提案に、懐愿が勢いよく頷き言う。
「それは素晴らしい。では、私と虞少仙で調査しに行きましょう」
寝耳に水とはこのことか、と、緑雨は婉花の背に隠れようとするも、逆に背を押されてしまった。
「殿下、是非緑雨を連れて行ってください。多様な経験を積ませたいと常々思っていたのです」
心底嬉しそうに微笑む婉花と懐愿。
緑雨は裏切り者を見るような目つきで婉花を凝視した。
「ではさっそく、陛下に許しをもらいに行ってまいります。虞少仙、こっちだ」
懐愿は緑雨の戸惑いなどお構いなしに手首を掴むと、引っ張って行ってしまった。
「いいのか?」
桐梓は二人が出て行く後ろ姿を心配そうに見つめた。
「もちろん。そろそろ緑雨にも身内以外の友人は必要だし」
「それはそうだが……」
「それよりも、気になることがある」
婉花は机に乗せた書物を桐梓に見せながら言う。
「盗まれたら困るものが盗まれていない」
「え、本当か」
「うん。墓誌もかなり困るけど、でも、そんなもの目じゃないくらいの機密書類がここにはあるのに、それらはただ転がされていただけ。警戒した方が良いのは氷室と重罪犯用牢獄界牢の設計図くらい。あとは無傷と言っていい」
中書省が各国に放っている諜報員が探ってきた資料は全くの手つかず。
各地に蓄えている兵站の在庫量や隠し場所の地図は触られた形跡すらない。
世間に知られては支障が出るような諸外国との密約を記した書類まで残っている。
「いったい、何が狙いなんだ」
「わからない。全ての書房を見せてもらわないと、何とも言えないね」
「わかった。部下を呼ぶから少し待っていてくれ」
桐梓は声を張って指示を出し、甘石巫堂の周囲の警備を固めた。
鍵の代わりに張り巡らされた鎖がなんとも仰々しい。
「次の場所に案内する」
「頼む」
二人は紫微院、太微殿、天市館が集まる区画へと向かった。
一方その頃、緑雨は生まれて初めて皇宮に来たにも関わらず、皇族の、それも皇子に手首を掴まれ玉座のある建物へと連れ去られていた。
落ち葉一つない磨かれた敷石が太陽の光を反射して目に眩しい。
「調査、楽しみだな」
「あの、でも、殿下には他にもお仕事があるのでは」
「大丈夫。仕事は慧王府の副将達がうまいことやってくれるから。頼りになる兄上もいるし。でも、今現在まさに危機的状況にあり、逃げないとならないことがあるんだ」
「逃げないとならないこと、ですか」
緑雨には、懐愿の先ほどまでの自己肯定感の高さを見るに、困ることなどなさそうに思えたが、そうでもないようだ。
「そう。私は今年十九歳になったせいで、来年、成人の儀と共に結婚するようにと母上から婚姻を迫られている。今年中に婚約を決めたいそうだ。絶対に、絶対に嫌だ。私は皇太子である兄上を支えて生きていくと決めている。結婚なんかしたら、家庭まで背負うことになるじゃないか。無理無理」
「わ、わあ、大変ですね」
守備範囲外の話題だったので、緑雨はつい返事が棒読みになってしまった。
「緑雨はまだまだ先の話だろうからわからないかもしれないが、結婚というのは人生の一大事なのだよ。死ぬまでの永遠を縛る契約だ。いや、望まぬ者にとっては死後も続いていく呪のようなものだ」
「そ、そうなんですね。わたしはまだ未成年……、十七歳なのでよくわかりません」
「え、十七歳? 十五歳くらいかと思っていたよ。顔が可愛いせいだな」
緑雨の自尊心に、身に覚えのある小さな傷がついた。
「それ、幼いって意味ですよね」
「違う違う。可愛いと言っただろう」
懐愿はさも愉快と言った様子で朗らかに笑っている。
「着いたぞ。ここが龍英殿だ。朝議や冊封の儀式などもここで行われる。見た目こそ豪奢で威圧感満載だが、でもまあ、緊張する必要はない。軽い挨拶をするだけだ」
出会った瞬間はなんと美しい人なのかと思ったが、ここまで信用ならない笑顔も初めて見る、と緑雨は溜息をついた。
懐愿は殿門近くに控えている太監に取次ぎを頼み、「行くぞ」と、緑雨を連れ立って中へと入って行った。
出来事が進むあまりの速度に麻痺していたが、ふと緑雨は我に返った。
これから会うのは懐愿の父親というだけではない。
祁芳国の頂点に立つ、皇帝に謁見するのだ。
緑雨は自分の人生が変化を始めた音の大きさに、耳鳴りがした。